緩やかな生活
僕は弓弦の部屋で暮らすようになった。ホームシックは見事になかった。気づまりな会話もない、学校の話もされない、しかも、その暁に得た住処が弓弦の空間だなんて、現金ながら、死ななくてよかったとさえ思ってしまう。
心がすっきりした、とは言わない。学校にはとうに行かなくなっていても、行かないから、身に受けないから、流せるものではない。流せたらいいのだけど、僕の傷口はまだ血が湧き出て止まらない状態だ、と思う。相変わらず、傷を言い切る自信もない。
最初の三日ほどは、親が押しかけてこないか不安だった。何もなかった。親は妙なところで僕を信じているので、息子がこの街に踏みこんでいるとは思いもよらないのだろう。
確かに僕は意気地なしだ。あの日、弓弦と出逢った日、僕がここに来れたのは保身より絶望が勝ったためだ。僕が絶望に至るとも知らないあのふたりは、息子をこの街に結びつけることもしないだろう。
弓弦とここにいられる。それで僕の心の状態はだいぶ良くなる。ひとまず、えぐられて空っぽになったものをつめこみなおそう。ここには埋めるものが豊富にある。
この部屋に来て、僕はやや夜更かし、やや朝寝坊になっても、昼夜正常だった。さっさと出なきゃ、というのがないので、のんびりしたあとに〈POOL〉に行ったり、部屋で過ごしたりもする。
〈POOL〉に行った場合、夜の客が増える前に退散する。弓弦の部屋にあるのはジャンクフードという話をして以降、ミキさんがお弁当をくれるときもあった。僕はこの部屋で、そのお弁当かジャンクフードの夕食を取り、シャワーを浴びたり本棚にある漫画を読んだりする。夜になると弓弦のベッドで寝る。
僕の生活は、そんなまったりしたものになっていった。
同居していても、昼夜に無節操な弓弦と僕では、存分に時間を共にできなかった。それでも、〈POOL〉に通うだけだった頃より、弓弦が生身にはなった。朝起きると、弓弦がカウチで寝ていたり、シャワーを浴びていたりする。夕方に〈POOL〉から帰ると、弓弦が出かけようとしていたり、カウチでぼうっとしていたりする。僕が部屋で休んでいたとき、弓弦が昼に帰ってきたことがあり、そのとき初めてふたりでゆっくり話ができた。〈POOL〉で鉢合わせることもあり、そのときは何だかおもはゆかった。
いろんな弓弦に触れていく中、ひとつ驚いたのは、料理がうまかったことだ。天才的だったというのではなく、おいしい手料理は作れるのだ。僕のほうがよっぽど下手だろう。「紗月はこういう料理のほうがいいんだよな」と弓弦が言うので、「練習したの?」と思わずうぬぼれると、「昔作ってたんだよ」と弓弦は笑った。
「昔」
「ガキの頃な。来夢とも知り合う前だよ」
弓弦と来夢さんが知り合ったのは、十一歳になるかならないかだ。その前──十歳以下で、料理をしていた。心配になっても、弓弦は僕の学校のことをそっとしておいてくれている。僕も、それにならって突っ込みはしなかった。
その朝、弓弦は不在で、梅雨が近いのを思い出させる小雨が降っていた。ベッドスタンドに頬杖をつき、面した窓から十七階からの景色を眺める。このあたりはビル街なので、下層は灰色でつまらないだろうが、十七階ともなると、夜には華やかなイルミネーションが望めていい景色だ。雨で霞む夜景もよさそうだな、とベッドを降りると、室内に明かりをつけた。
用を足したり顔を洗ったりしたあと、パジャマを脱ぐ。僕の服や生活用品は、弓弦が惜しみなく買ってきて、続々と増えている。服の趣味は、弓弦が着ているシャツにジーンズというものが主流だ。嫌ではなくても、ずっと制服みたいな私服が多かったから、似合っているか不安だ。
「変じゃない?」と弓弦に訊いてみたとき、「おもしろい」と返されて複雑になった。そういえば僕は、顔も弓弦におもしろいと言われた。弓弦なりの褒め言葉なのだろうか。ともあれ、僕はその日も“おもしろい”服装になって、朝食を取ろうと冷蔵庫を開けていた。
鍵を開ける音がしたとき、当然、弓弦だと思った。コツを教わって目玉焼きぐらい作れるようになった僕は、それにトーストでも合わせようとたまごを手にしていた。冷蔵庫を閉めながら振り返ったとき、玄関のドアが開く。入ってきた人に、僕はまばたきをした。
来夢さんだった。明かりのついた部屋に、来夢さんもすぐ僕を見つけ、なぜか噴き出す。
「な、何ですか」
「あ、いや。ごめん。ほんとにいるとは」
「……あ、」
「話には聞いてたけど。弓弦に引っ張られてきたの」
「え、いえ。提案されて、僕がうなずいて」
「そっか。帰りたくないって言ってたもんな。あの日から?」
「はい。あ、弓弦に伝えてくれてありがとうございます」
「いえいえ。きちんと伝わったならよかった。上がっていい?」
「あ、はい。弓弦、いませんけど」
「っそ。って、紗月くんが嫌か。俺はしょっちゅうここで勝手に休んでるんだ。自分の部屋より贅沢だし。紗月くんが気まずいなら」
「いえ、どうぞ」
「そ。じゃ、お邪魔します」
スニーカーを脱いだ来夢さんの髪や、白皙が映える黒いシャツは、しっとりとしていた。汗でなく雨なのは瞭然だ。「飯作るの?」と来夢さんはこちらにやってくる。
「食べますか」
「いや、食ってきたよ。料理できるんだ」
「ぜんぜん、です。弓弦に教えてもらって」
「あ、紗月くんには料理作ってあげるんだ」
「まあ。作ってあげる、って」
「あいつ、料理嫌いなんだよ」
「え、うまいですよ」
「うまいけど嫌いなの」
そう、なのか。僕に料理を作ってくれたときは、疎むそぶりはなかったけれど。子供の頃に作っていたとは言っていたし、もしかして、料理をすると幼い頃を思い出すのだろうか。「紗月くんにはいろいろ態度が新しいよなあ」と来夢さんは濡れた髪に触れる。
こう並んで立つと、来夢さんは弓弦ほど長身ではない。もろいほどに華奢な体質が、すらりとした印象は与える。弓弦も細身ではあれ、肩や筋肉はあるので無駄がないといった感じだ。
「俺、シャワー使いたいんだ。いいかな」
「あ、はい」
「じゃあもらうね」
来夢さんはリュックを腕におろし、引き戸に消えていった。僕はそれを見送り、先に出しておいた小さいボウルにたまごを入れ、フライパンや油を取り出す。朝食を作り、いい匂いができあがると、カウチに座ってトーストを食べ始めた。それからまもなく、来夢さんが頭にタオルをかぶって戻ってくる。
断って僕の隣に腰をおろすと、来夢さんはだぶついたジーンズの脚を投げ出した。タオルで髪を雑に拭いて、ばたばたするタオルの裾に顔は窺えない。
怖くはないが、肩の力をどう抜けばいいのか分からない。来夢さんとふたりきりで、会話はできても、沈黙はまだできない。変に堅くトーストをかじっていると、「弓弦とどう?」と来夢さんが問うてくる。
「え」
「弓弦と」
「弓弦、と」
「寝た?」
「な、ないですっ」
来夢さんはタオルを膝にやり、手櫛をしながらこちらを向く。不審そうな目だ。僕は視線を下げ、「そんなに僕と弓弦に寝てほしいですか」と力なく訊く。
「いや、そんなんじゃなくても。あいつが君に手え出さないわけないんだよな。誰にも彼にも、まずセックスだったくせに」
「その気がないんじゃ」
「あいつの紗月くんへの態度は友情じゃない。あいつの友情の態度は俺が一番知ってる」
口ごもる。確かに、来夢さんほど弓弦の友人とのつきあいを熟知する人はいない。
「紗月くんが断ってんの」
「いえ──というか、弓弦にそんな態度、ほんとにないです」
「いや、ある。軆触ってた。あれはあいつの初期症状だ」
「髪とかですよ」
「あいつが俺の髪撫でるとこ、見たことある?」
思い起こそうとして、そう言われても、弓弦と来夢さんが揃っているのを見たのは、来夢さんと初めて逢ったときだけだと気づく。あのとき──はたきはしても、弓弦は来夢さんに、僕にするような丁寧な触れかたはしていなかった。
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