君への気持ち
預けられたカップをキッチンに持っていき、ココアを飲んだカップと洗っておいた。昼食に使った食器は、ココアを作ったときにしまっておいたので水切り場は空だ。カップを置いてタオルで手を拭き、リビング兼寝室に帰った僕は、何気なくカウチに目をやって足を止める。
「俺もおいしいコーヒー欲しいなー」
背凭れに前膊をついて、弓弦が起きていた。僕はまばたきをおもはゆさにして、「起きてたの?」と言う。「うん」と弓弦は伸びをして軆を返し、背凭れに背を預ける。
雨音がやんでいて、時刻は十八時をまわっていた。僕はそばに行って「大丈夫?」と訊く。
「ん、何が」
「四時間しか寝てないよ」
「ああ。約束があるんだ。夜に時間空くんで、また帰ってくるかも」
「そっか。えと、コーヒー、飲む?」
弓弦はこちらを向き、嬉しそうにうなずいた。弓弦にコーヒーを作ったことはあり、無糖なのは知っている。弓弦のカップにコーヒーをこしらえ、持っていって隣に座る。
弓弦は僕を眺め、なぜかにやにやしてきた。「何?」と上目をすると、「周旋屋」と弓弦は意味不明の言葉を発する。
「は?」
「俺の仕事。周旋屋」
「え、あ──」
「聞こえてましたよ。言ってなかったかな」
「ん、まあ。周旋屋、って」
「斡旋だよ、斡旋。密会とか密売とか。売人じゃないよ。悪い医者とか悪い弁護士とか、この街に通じても普段は世間にいる人の橋になったり、運び屋とか伝達もやる。あと、売春。来夢の客は大半が俺が流した奴。客が俺に注文してくるんで、ポン引きではない」
斡旋。周旋屋。そんな仕事もあるのか。
「僕に、知られていいの」
「別に、直接悪いことに加担してんじゃないし。悪いことのお手伝いだよ」
「それ、十三のときからしてるんだ」
「うん。えらい人の影響下では、運び屋ばっかだったよ。斡旋は模索の独学。そっちを試すのを認めてもらうかわりに、えらい人にはパシリをしたっつうか。斡旋が成り立ってくると、えらい人も一人前あつかいで俺を認めてくれるようになった」
「すごい、ね」
「そうか? ま、俺は要領いいのが取り柄だし」
笑った弓弦はコーヒーを飲み、「うまい」とつぶやく。僕はその言葉に少し咲い、すごいんだなと改めて実感した。
僕は弓弦のように自分の足で強く立てない。家に帰りたくないというばねもあったのだろうが、土台は弓弦の気力だ。外れた仕事だとしても、いや、外れた仕事だからこそ、弓弦の才覚と強さがくっきりする。
弓弦は背凭れに寄りかかり、背後の廊下を振り返った。「あいつシャワーだよな」と確かめられ、僕はうなずく。弓弦はコーヒーを口に含み、複雑そうな笑みをする。
「何」
「ん、いや、俺はあいつに感謝されてるのかと」
「聞いてたの」
「うん」
「来夢さん、寝てると思ってたよ」
「どうだか。世話か。焼いたなあ。焼きまくった。あれは俺のためでもあったんだ。あいつが変な客にぼろぼろにされたらムカつくし、いなくなったら泣くし。嫌がらせは知らなかったな。隠しごとしやがって。子供絶対欲しくないとかも言ってたな」
「……いつから起きてたの」
「コーヒーの匂いがしたときから」
ということは、会話のすべてを聞かれていたのか。ちょっと焦る。弓弦に対する僕の気持ちの話は出なかっただろうか。僕がゲイだというのも。なかった、と思う。そういう話をしたのは朝だ。
「あいつしかダメ、か。そうだよなあ」
「それって、別れた女の人のこと」
弓弦はびっくりして、「知ってんの」と言う。
「ミキさんが、来夢さんには昔恋人がいたって。それだけ」
「ああ。別れた、っつうか──引き裂かれたって感じ。戻れないのは確かだよ。あいつには、あの女だけでも必要だったんだけどな」
「やすらげる場所がなくなったとは、来夢さん自分で言ってたよ」
弓弦はまた意外そうな目をして、「そうか」とやりきれないようにコーヒーを味わう。
「そうだな。何でだろうな。あいつは何にも悪くなかったんだぜ」
「……はあ」
「って、紗月は知らないのか。ごめん、勝手に話せることじゃないんだ。何て言えばいいのかも分かんないし」
かぶりを振り、「許してもらってないこと知ってもつらいし」と言う。本心だった。弓弦は微笑み、褒めるように僕の頭をぽんぽんとする。
ほどなく来夢さんが戻ってきて、弓弦は子供っぽい笑みで振り返った。髪を濡らす来夢さんは、同じ笑みはしなくても受け入れた苦笑はする。
「起きたのか」
「まあな」
「昼過ぎに帰ってきたんだろ。軆持つのか」
「お前に心配されるっていいなあ」
「平均睡眠時間いくら」
「約三時間」
「死ぬなよ」
「死んだらどうしよ」
来夢さんは眉を寄せ、悪趣味な質問、とでも言いたげにベッドサイドに腰をおろす。
「嘘つきって呼んでやる」
「嘘つき」
「俺を裏切る勇気はないって言ったくせに」
弓弦は嬉しそうにして、「んじゃ俺は死なないだろ」とカップをからにした。そのカップを僕に渡し、「片してて」と微笑むと、膝にくしゃくしゃにしていた毛布を剥ぐ。カウチを立ちあがって伸びをすると、弓弦は髪を拭く来夢さんを向く。
「お前、今からお勤め」
「ほかにやることないもん」
「じゃあ一緒に行こうぜ。注文入った子がいるんだ」
「俺が伝えといてもいいよ」
「何ですか、その婉曲な拒否は」
「そのぶん休めばって言いたかったんだけど」
弓弦は一瞬口ごもり、カップを手に立ち上がっていた僕は小さく笑ってしまう。弓弦は僕を小突き、「大丈夫だよ」と来夢さんに言う。
「俺、そんな眠らなくてもいい体質だし」
髪を拭きながら肩をすくめる来夢さんに弓弦は笑い、「ほかにも約束あるんだ」ともつけくわえる。「そっか」と来夢さんはうなずき、しつこく心配はしなかった。
来夢さんの髪の水分がある程度取れ、弓弦も身仕度を整えると、ふたりは部屋を出ていった。玄関まで見送った僕に、来夢さんは「じゃあ」と微笑み、弓弦は「明日は朝飯作ってやるよ」とにっとする。明日の朝はささやかにヒマであるらしい。
僕は咲っていたけど、ドアが閉まり、鍵のかかる音がすると、置いてきぼりになった感覚に細い息をつく。ふたりがいっぺんにいなくなると、部屋はかなり寂しくなった。でも、虚しくはない。それを気休めに、僕は弓弦がいたカウチに座り、何だか横たわって時間を過ごす。
弓弦の匂いがした。どきどきする。弓弦がここにいなくてこうなるのは、ちょっと苦手だ。弓弦を想い、ほんと何なんだろ、とため息をつく。
僕はいったい弓弦をどう想っているのだろう。まさか──まさか。本気で祈る。弓弦であろうと、それは嫌だ。ばらばらになるのは僕の精神ではないか。だけど、僕は弓弦にどきどきする。触れられると嬉しくて、匂いにはかえって苦しくなる。ふわふわする心は、どうしても捕まえて拘束することができない。
弓弦に対する気持ちについて、近頃はぐずぐず考えるようになっていた。前は友達だと振り切っていたのに、今はうじうじと思索に迷いこんでしまう。弓弦への自分の気持ちが分からない。分かりたくない、ではないと思う。もしかして、と答えを予断するには、僕にはあの経験による性嫌悪が根強すぎる。
弓弦が僕をどう想っているかも謎だ。友達のように揶揄ってきたかと思えば、恋人のように甘やかして、それが弓弦といて飽きない要因でもあるのだけど、いざ本心を汲み取ろうとすると妨げになる。面と向かって、僕をどう想っているかは訊けない。なぜそんなことを訊くのかと問い返されたら、僕にも分からない。
のんきに弓弦を想っていることに、自信は激減している。傷を受けたという認識が、いっそう消えている。
やはり僕は、あのことを何とも感じていないのだろうか。どんなに嫌だの苦しいだの言っても、しょせん僕はホモで、心の奥では男に抱かれて嬉しかったのだろうか。だから、こんなふうに平然と弓弦に心を揺らし、とまどっているのかもしれない。何の後遺症──傷痕もなく、男に胸を高鳴らせる。あんなことをされて、傷痕が残らないことがあるだろうか。ありえない。だとしたら、僕はそもそも傷ついていなかったとなる。
僕はあのことで傷ついていなかったのだ。苦しいなんてくだらない自尊心だ。僕は何ともない。この痛みも何もかも、不幸に酔いたい自己憐憫だ。だから、肝心なところでは本性が剥がれ、浅ましく弓弦にときめく。自己嫌悪の絡まった猜疑が、あやふやな心の裂けめを容赦なく卑しめ、僕は落ちこむ資格すら許されない。
哀しかった。あの人たちの言う通りだ。僕は男が好きで、男にああされるのが好きで、だから傷つくわけがない。ホモのくせに、なぜ男に抱かれて嫌がるのだ。
あの人たちのほうが正しい。それがすごく哀しかった。
【第二十章へ】
