虚貝-2

自分に裏切られて

 先生は僕の成長過程の性器を口に含み、無理やり精通させた。ショックだった。自分でもよく触らないところをいきなり他人に舐められたのと、もっとショックだったのは、それで自分が勃起して達したことだった。
 自分に裏切られた気分だった。なぜ勃起するのだろう。しかもいってしまった。こんなの嫌なのに、泣いてるのに、なぜ気持ちよくなってしまうのだろう。脳髄を殴られた中で、先生への手淫もさせられ、不自由な手のひらには濃い精液が飛び散った。
 先生は僕と自分を片づけながら、誰にも言わないよう優しく諭してきた。言われなくても、そのつもりだった。男にこんなのをされたなんて、言えるわけがない。笑われるだけだ。もしくは嫌悪に拒絶されるか。きっと、はなから信じない人もいる。何より、僕もいってしまった。言わないに越したことはない。
 今思えば、バカな自尊心だった。早急に告発すべきだった。誰が何と言おうと嫌だった、ひどいことをされたと、言えばよかった。そうすれば、一度きりの恥で終わった。
 下手な自尊心を起こしたため、以降僕は先生に性的な関係を強いられるようになった。おとなしい僕には教師命令は絶対だった。放課後残れと言われたら、そうするほかない。
 偶数への進級にはクラス替えがない。担任も離任がなければ繰り上げだ。六年生に進級した直後、引き続き担任のその先生に肛門から体内を犯された。あの内臓の圧迫と長引く鈍痛は、今も軆が覚えている。
 早く声をあげておけばよかった。そうしたら、僕はまだ少し、自分が同性愛者だと知ったとき、あのみずからに殺意じみた嫌悪を抱く心の粉砕を受けずに済んでいた。
 きっかけは修学旅行だった。六年生の一学期の終盤だ。“持ってきてはいけないもの”は名目で、持ち物検査は行なわれない。卒業生を兄弟として持つ人の情報で、みんな雑誌や指定金額以上のお菓子をいっぱい持ってきていた。
 僕はこれといった友達はいなくても、外されたりもしていなかった。同じ班や席順が近くなれば話せる。違反物はなくてもみんなの輪の中にいて、お菓子を分けてもらったり、雑誌を覗いたりしていた。
 男ばかりのところ、さらに性が芽生えはじめる頃で、雑誌には女の子に関するものも混じっていた。きわどいポーズを取る女の子たちに、何か、僕は冷めていた。喜ぶみんなに合わせておいたものの、何か違った。本能が反応しなかった。そのときは、自分は子供なのかなと思っただけだった。
 帰ったあと、また先生に呼び出されて抱きしめられた。そういえば、この人に口でされたら勃起したなと思い出した。たまに僕は、あのときと同じく勃起した。
 そこで気づく。僕はこの人にこういうことをされ、無理やりされていることにしか屈辱を感じていない。男の性器に触ったり、肛門に挿入されたりしていること自体には、汚辱という感受をしていない。
 あれ、と思った。焦った。違う。実際刺激を与えられているのと、平面の差だ。そう思おうとした。だが、どこかがすんなり信じなかった。
 僕はあまりにも女の子に冷めていた。危うい曲線や胸のふくらみ、脚のあいだに本能を刺激されなかった──。
 信じたくなかった。恥を忍んでそういう本を買った。必死で淫欲をあおる写真を探した。なかった。どれもこれも、何だか胸や脚を強調したただの女の写真だった。性器はいくら握っても柔らかい。何も起こらない。無理やりしごいても徒労だ。
 気づきはじめていた。凄涼な静けさが心を吹き抜けていった。こわごわ、徐々にたくましくなっていく同級生たちの軆を想ってみた。
 あの衝撃は、何と名状したらいいか分からない。僕はそれで勃起した。不覚に蛇にでも触ったかのように、慌てて振りはらって鎮めたものの、手のひらにじわっと宿った血脈の生温かさは消えなかった。しばらく、頭が真実を激しく拒否していた。
 何で、と思った。どうして。男。同性愛の存在ぐらい知っている。まさか自分がそれだとは思ってもみなかった。
 そんな。僕は男が好きなのか。男に反応する男なのか。同性愛。ゲイ。ホモ。
 僕の頭をがつんとしてきたのは、先生に強制されていることだった。
 あんなのをされていて、男が好きなのか!
 猛烈な嫌悪がほとばしった。おそらく、僕が受けた衝撃は、ただ同性に犯された男より、ただ自分はゲイだと気づいた男より、途方がなかった。
 男が嫌だというのは嘘でも、男が嫌ではないのはたまらなく嫌だ。そういうことをされているからこそ、僕はこの性質をすさまじく憎く、半端じゃなく汚く感じた。なぜ、そんなものに惹かれるのだろう。おかしい、狂ってる、穢れてる。嫌悪感は、単なる偏見より実情がこもっていて、支配的だった。
 せめて、ゲイでなければよかった。女の子を好きになれたらよかった。男が好きなんて、僕はあのことをどう思えばいいのだろう。嫌だと言うことに自信がない。本心では悦んでいるのではないか。そんな猜疑が渦巻いて、離れてくれない。男の口に性器を愛撫され、つらぬかれ、僕はそれを悦ぶ体質だ。
 ならば、自分でもつかみがたい本心では、男に抱かれて歓喜しているのではないか。この嫌悪は常識に捕らわれた無自覚の演技なのではないか。心をひがんでさいなむ頭に、僕は性の自殺をはかりたくなる。ゲイであることを切り捨てたくなる。ストレートだったら、こんな、自分の感情が信じられなくなる錯乱はなかった。
 異性愛者なら異性愛者で、屈辱は強いと思う。男に犯されるなんてとんでもないという度合いは法外だ。しかし、僕はそこに属さないので、明確にはそのつらさは測れない。測るほうが無神経だ。異性愛者の男にだって、同性愛者の僕の混乱は分からない。
 異性愛者の苦痛のほうがマシだなどとは言わない。けれどやはり、ストレートだったらどんなによかったかと思ってしまう。異性愛者なら、同性に性的なことを強いられるのは耐えがたかった、屈辱にほかならなかったと断言できる。
 僕は言えない。言う自信がない。みずからを懐疑し、傷んだ心を見透かすことができない。
 ──通りに暗い上目をし、またため息をついた。くだらない。ここにいても同じだ。死に損ねた奴の愚考だ。悪い思索はいつでもついてくる。
 人通りはさらに減っている。僕に声をかけたあの人の煙草の匂いも消え、太陽は空の真上に近い。腕時計の針は十一時になろうとしていた。
 空腹だった。両親と顔を突き合わせているのがつらく、朝食も取らずに家を逃げ出してきた。お金はある。何か食べよう、とあたりを見まわすと、喫茶店があった。だが、注文で店員と口をきかなくてはならないのが嫌だ。左右を見渡し、右手の角にコンビニがあるのを発見する。あそこで何か買おう。制服が押しこまれたデイパックを取り、立ち上がった。
 こわごわ踏みこんだ店内には、クーラーがきいていた。真夏ほどの冷気ではなくも、早いんじゃないかと身を縮めたくなる。こんな街なので、この日中にほかの客はいなくて気まずい。「いらっしゃいませー」とはよこした若い男の店員は、雑誌を読んでヒマをつぶしている。見るからに中学生の僕に不審を向ける、駅前のコンビニの店員よりはいいだろうか。適当に食べ物を選び、遠慮がちに会計に通すと店を出た。背中で自動ドアが閉まると息をつく。
 どこで食べよう、とふくろの中を確かめ、座れそうなところを探すのに気を取られながら歩いた。そのあいだ、ここが危ない場所だと忘れていた。たとえば肩がぶつかって、「すみません」で済む場所ではないことを。気づいたときには、肩どころか正面からぶつかっていた。
「あ」と顔を上げ、頬が引き攣った。柄の悪そうな男のふたり組だった。ひとりは色つき眼鏡に長髪で、ひとりは不健康に痩躯だ。ふたりは僕を見下ろした。無意識に謝罪が口を突いて出たものの、受け入れる言葉は返ってこない。
 代わりに、おもしろがる表情が浮かんだ。やばい、と意気地なしに後退ろうとしたら、腕をつかまれた。「バッグの中を見せて」と言われ、さっとデイパックを渡す。どうせ金銭に執着なんかない。「いい子」と受けとった長髪の人が、デイパックのボタンを引きちぎろうとしたときだった。
「弱いものイジメは、影でやってもらわないと目障りなんだけど」
 振り向いて、目を開いた。数メートル先で、腰に手を当てて仏頂面をしている人がいた。
 さっきの、人だ。僕をナンパして、あっさりあきらめた美少年だ。脇に歩みよってきたその人の手に、煙草はなくなっている。
 その人は僕に目をやり、味方側の親しい笑みをした。ほっとする僕に反し、ふたり組はあからさまに畏まる。ビビっている、という感のふたりに、その人は偽善的な笑顔をした。
「そのリュックは、誰のものかな」
 長髪の人は、すぐさま僕にデイパックを突き返した。受け取りながら、色つき眼鏡越しにもその人の目に焦りがあるのを僕は見取る。「よし」と満足そうにした美少年に、すごい人なのかなととまどう。
「今度からは、俺の目にかかってないクズをイジメなさい。いいな」
「はい」と敬語を使ったふたりは、早いところ逃げたいみたいだ。美少年が僕に目を向けたことで、小走りに去ってしまった。
 にやにやとする彼に僕は上目をし、どういう人なんだろ、と内心怖くなる。

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