濁る意識
こちらの不安定な心をよそに、弓弦は僕を気遣ったりまごつかせたりする。触れられると僕は頬を染めてうつむき、手を握られるとどうしても気持ちがやすらぐ。弓弦の思うところが読めなかった。弓弦にとって、僕は何なのだろう。
一度、怖い道理を言われた。〈POOL〉にひとりでいたときだ。僕は昼食のスープパスタを食べていて、ミキさんはお昼時でいそがしかった。「ねえ」と呼びかけられて振り返ると、背後に知らない男の子がいた。僕と変わらないくらいの、綺麗な顔立ちの男の子だ。「あんた、弓弦の何?」とその人は前触れなく開口した。こっちこそ誰かに訊きたい疑問に、口ごもった。
「弓弦と寝た?」
「……ね、寝てないです」
「俺、弓弦がどういう奴かは知ってるんだ」
「寝てないです。そんなんじゃないです」
その人は僕を眺め、「来夢にいさんになれると思ってんの」と言った。
「なれっこないよ。手出しされないなら、あんた、弓弦の何でもないんだよ」
僕は目を開いた。その人の目は冷めて、確信に満ちていた。
「弓弦には、させない奴は何の価値もないんだ。あんた、無神経だね。とっととどっか行っちゃえよ」
言いたいことだけ言って、その人は〈POOL〉を出ていった。僕はショックに固まっていた。窃笑がしてどうにか顔を上げると、隣にミキさんがいた。「聞いてたんですか」と力なく訊くと、「定番ね」とミキさんは微笑む。
「この街で暮らすなら、ああいうのは当たり前よ。気にしない定見を持っておかないといけないわ」
「は、あ。えと、あの人──」
「弓弦を崇拝してるのよ。飢死にしそうになってたところを弓弦に拾われて、男娼に仕立てあげられたのよね」
「弓弦、そういうのするんですか」
「見込みがあるって判断すればね。それで泥沼を助かって、弓弦に忠誠を誓ってる子も多いわ」
何やらうなだれてしまった。あの日、暗くうつむいていた僕に声をかけたのは、弓弦にとってそんなノリだったのだろうか。弓弦の中では、僕はああいう人たちと一律に分類されている。
いや、あの人たちより下だろうか。僕はあの人の台詞を一蹴できない。させない奴は価値がない。弓弦は気にかかった人とまず寝る、とは来夢さんも言っていた。
弓弦が僕に手を出さないのが、来夢さんの言った通り、男が嫌だというのを気にしているだけだったら。弓弦をひがむのは哀しい。けれど僕は弓弦の心が見えないので、被害妄想も広げてしまう。僕は弓弦の何でもないのだろうか。
夕食も食べてシャワーも浴びた僕は、あとは寝るだけ、と弓弦の服を着てカウチに座っていた。さっき帰宅した弓弦は、「疲れた」と隣に腰をおろし、立て膝をしてシャンパンをラッパ飲みしている。
僕がこの部屋に暮らしはじめ、十日が経とうとしていた。僕はいろいろ思っている。自分の気持ちとか弓弦の気持ちとか、家への不安も完全に失せていなかったし、学校での焼きついた光景の影もある。弓弦にはいっさい話していない。煩わしく思われたくなかったし、弓弦がいれば入り乱れた心がどうでもいいことにも思えた。
弓弦は、高価そうなシャンパンを真夏にがぶ飲みする水のように粗野に飲んでいる。見つめていると、「何」と弓弦は口を離して笑ってくる。
「おいしそうに飲むね」
「え、そうか」
「お酒っておいしいの?」
「んー、俺はな。昔っから、飲み物といえばこれ」
「酔わないよね」
「強いみたい。来夢も強いよなあ。紗月は」
「飲んだことない」
「そうなのか。飲んでみる?」
僕は首を振った。酔いたくなかった。そうなって自分がどう出るか分からない。シャンパンを喉に流した弓弦は、「薬はしないんだけど」と言う。
「酒と煙草は抑制きくんで、十歳から常習してる。来夢もな。つうか、俺が教えたのか。俺と知り合ってあいつは開けたんだ」
「開けた」
「俺と知り合う前は、あいつは根暗だったんだよ。気持ちが中に向かってるっつうのかな。きつそー、とか思って、俺からナンパして引き上げてやったつもり」
僕は来夢さんを想う。影がちらつくことはあっても、根暗という印象はない。弓弦と比すと落ち着いていても、軽妙は軽妙だ。あれは弓弦の功績なのか。
僕は睫毛を伏せそうになる。弓弦は本当にいろんな人を救っている。弓弦の心には、僕もその中のひとりにすぎないのだろうか。
「どうして、お酒とかするようになったの?」
「グレるならするもんかな、みたいな」
「………」
弓弦は笑い、「踏み外したかったんだよ」と瓶を揺する。
「俺もう、自分が普通の世界で生きられないの分かってたし。普通に生きるには、失くしたり気づいたりしてるもんが多かった。死ぬか半端かアウトローで、俺は最後を取ったんだ」
普通の世界では生きられない。それは僕にも当てはまる。何も持ってはいけないように、僕はすべてを自殺させる。欠けているのではなく、空っぽなのだ。空っぽの精神構造に改造されてしまった。
死ぬか半端かアウトロー。僕は死ぬべきなのだろうか。僕の心は白骨化している。死んで、腐って、かたかたの乾涸びた骨しかない。心がそうなら、軆もそうしてしまうのが役目ではないか。どうせ僕は、ここにいたって何もない──
「紗月」と呼ばれてはたと顔をあげた。弓弦が膝と瓶をおろし、愁眉してきていた。「どうかした?」と弓弦は僕の後頭部の髪に指をさしこむ。
「俺、何か気に障った?」
僕は頬を熱くしてかぶりを振った。「嘘つくなよ」と言われ、弓弦に上目遣いをする。弓弦は心配そうだ。この人はどのぐらいの人にそんな目をしたのだろう。そう思うと、さらに瞳が濡れそうになる。
「紗月、」
「弓弦が、ね、うらやましかったの」
「えっ」
「自分のこときちんとあつかってるでしょ。僕、できないよ」
弓弦は僕を見つめる。今日に限って、その視線が痛い。
「僕は、自分が嫌いだよ」
「紗月──」
「何にもできない。弓弦みたいに外れるのもできないし、戻れないし、半端なんか鬱陶しいし。汚れてる。死んじゃったほうがいいんだ」
弓弦は息をつき、瓶を床に置くと僕を覗きこんだ。弓弦の綺麗な顔がそばに来る。シャンパンと煙草の匂いが入り混じっていた。心臓はのんきに跳び跳ね、僕は心を縛ろうと目をつむる。
「紗月は、死にたいのか」
「……え」
「死にたいと思う?」
「………、死ななきゃ」
「何で」
「邪魔だもん」
「あのなあ、紗月が思うほど世間は紗月なんか気にしちゃいないんだぜ。死のうが生きてようが関係ないの。もし邪魔だったとしたら、もう消されてるよ」
僕はまぶたに力をこめる。そんなんじゃないと思った。世間なんてどうでもいい。誰も僕など気にしていない。それぐらい知っている。
僕が知りたいのは弓弦だ。弓弦に邪魔だと思われていたら死んでしまいたい。弓弦の目障りや濡れ毛布にはなりたくない。
「俺だってそうだよ」
「えっ」
「俺だって必要とされてない。生きてても死んでても同じ。すっげえ無視されてる」
「仕事、とかでは」
「そりゃ仕事だろ。俺っていう人間を必要としてんのは来夢ぐらいだよ。紗月もかな」
僕は顔を上げる。視線が合うと弓弦は柔らかく微笑む。けれどそこには、どこかつかみにくい影が落ちていた。
「俺はすごくないよ。冷めた仕事人としては逸品なぶん、血の通った人間としてはカスなんだ。ほんとだよ。俺は──」
弓弦は口ごもる。僕は不安に眉を寄せる。後頭部をさすっていた弓弦の手がうなじに落ち、ついで僕を引き寄せる。
「俺は、麻痺してるんだ」
僕は弓弦の胸にいた。小柄な僕は弓弦の胸にすっぽりおさまった。まばたきをしていた。混乱が過ぎて、かえって冷静にぽかんとしてしまう。弓弦は僕を抱きしめた。
「殻かぶってるんだ。俺なんか、うらやましがるなよ。紗月は紗月でいろよ」
「弓弦……」
「そしたら俺は、紗月が死んじまったら困る奴になるからさ」
え、と僕は目を上げた。弓弦は僕の肩に頭を伏せていて、顔は窺えなかった。僕は弓弦の肩越しに空を見つめる。
抱きしめられてる、と思った。僕は抱きしめられている。平たい胸に軆を押しつけ、腕に動きを制御されている。手を伸ばせない広い肩の向こうを眺めている。
意識が白濁してくる。感情が侵蝕されはじめる。混乱が立体化し、胸騒ぎが放流する。現実が指のあいだをすりおちる。今、僕は抱きしめられている。それは確かだ。けれど誰に。分からない。僕を抱きしめる人は初めてではない。抱きしめる人は僕に何をするか。知っている。そういう人は、決まって僕を──
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