誰かを求めて
把握した途端、混乱が恐怖に暴発した。「いや」と無意識にこぼれた。強い腕が動く。「やめて」と僕は非力ながらもがいた。
「嫌だよ。やめて。僕は男なんか好きじゃない」
「え、あ──」
「男なんか嫌いなんだよっ。そんなん気持ち悪い、触らないで。離してよっ」
ほとんど、あきらめていた。そう言って受け入れられたことなんかない。嘘ばっかり、と腕に力をこめられるだけだ。
だが、今日は違った。あっさり肩を解放された。僕はまごつき、そのまごつきにまた混乱する。何で。残念だったのか。本当は強引にしてほしかった?
「ごめん」と思い設けない言葉までさしだされる。
「何か、何だろ。そうだよな、紗月は。ごめん」
いつのまにか僕は泣いていて、目をこすったあとで視界を上げる。そこにいたのは、あの人でも同級生でもなかった。弓弦だった。
理解した瞬間、頬が真っ赤になった。そうだ。弓弦は気持ちが弱くなったから、僕に寄りかかっただけだ。それを、僕は。
「あ、あの、」
「もう触らないよ。ごめん」
「違う、あの、」
「いいよ、俺が悪かったんだ」
「ち、違うよ。弓弦が悪いんじゃないよ。弓弦が嫌だったんじゃなくて、その、ごめん」
弓弦はちぐはぐに咲い、「何で紗月が謝るんだよ」と軆を離す。
「変なことしたの俺じゃん」
「だって弓弦、怖くなっただけでしょ」
「えっ」
「弓弦は誰かに寄りかかっちゃダメって、そんなことじゃないよ。僕まだ自分でいっぱいなんだ。弓弦に何かしてあげるゆとりがなくて」
「あ……、」
「ダメ、だね。弓弦は僕を楽にしてくれるのに、僕はぜんぜん弓弦の役に立ってあげられないね。ごめんね」
弓弦は僕にじっと視線をそそぎ、「んなことないよ」と瞳を優しくする。
「役、立ってるよ。一緒にいると楽しいし」
「……でも」
「俺には紗月が要るよ。じゃなきゃ、ここに住まわすわけないじゃん。紗月にここにいてほしいと思ったんだ。家から離すだけだったら、ほかの部屋取ってやってる」
弓弦を見つめる。睫毛がゆっくり上下した。雫がほろほろして、もう新しく瞳は滲まない。弓弦の顔がはっきり見える。弓弦の瞳はまっすぐだ。
「紗月といるの、俺、好きだよ」
「弓弦──」
「最近、部屋帰るの楽しいし。って、紗月には迷惑か」
僕はすぐ首を振り、何とも言えない安堵にうつむいて、「ほんとに?」とつい確かめる。
「うん」
「邪魔じゃない?」
「俺、そんな態度してるか」
考えてみた僕は、そっか、と咲った。記憶の限り、弓弦が僕を邪慳にしたことはない。いつも守って甘やかしてくれる。
たた、甘やかさが怖くはあるだろうか。それは肉体関係を期待する漏洩で、だとしたら欲望を成就させない僕がわずらわしくないかと。この際なのでそのへんも告白してみると、弓弦は苦笑した。
「俺、そんなセックスばっかに見える?」
「だって、たらしだし」
「たらし、っつうか──あのな、これは来夢しか知らないんだぜ」
「ん、うん」
「俺はたらしじゃない」
「えっ」
「やってることは同じだし、あと恥ずかしいんで、たらしってことにしてるけど。違うんだ。俺は、一発ものにしたら飽きちまうってわけじゃない。何つうか、その、誰かにいてほしいんだ」
「へ」と僕は弓弦を瞳に捕らえ、「誰か」と反復する。「うん」と弓弦はおもはゆそうに視線を外し、カウチに沈む。
「独りは、嫌なんだ。誰か、俺をよくしてくれる奴にいてほしい」
「来夢さん、は」
「あいつにはあいつの生活があるし。重要ではあるぜ。つっても、俺のためにいる奴じゃない。あいつはほら、例の引き裂かれた恋人のもんなわけ。あいつにとってのその恋人みたいのが欲しいんだ。で、恋人って寝るし。寝て、何か感じる奴を捜してるんだ」
弓弦の前髪のかかった横顔を見つめる。弓弦は僕を一瞥し、「弱いだろ」と咲った。何と言えばいいのか、ただ見つめ返す。
「俺、強くないんだよ。自分が大好きってわけでもねえし。ぞっとするとこもある。紗月が思ってるほど、かっこよくはないんだ。こんなん、誰にでもさらすわけじゃないぜ。弱い面なんかさらされたってうざいし。受け入れてくれる奴にしか、俺は殻は剥がさない。さらせる奴を捜してるんだ」
「………、僕、は」
「紗月、こういう俺、鬱陶しい?」
僕たちは瞳を交わす。僕は静かに首を横に振った。弓弦はほっと微笑み、「だから」と話を戻す。
「紗月は、邪魔じゃないよ」
「寝なくて、も」
「うん。ぜんぜんそんな気持ちがないってわけじゃない。初めて逢ったときの、冗談じゃないんだよ。ほんとに紗月と寝たいと思った。でも、紗月が嫌なのを無理強いするのも嫌なんだ。ここにいたいって思ってくれてるんだろ。俺はそっちを大切にしたい」
「嫌なの、我慢してない?」
「俺、そんな優しくないって。仕事には主体性なくても、私生活にはうるさいんだ。鬱陶しい奴となんかいたくない。紗月は仕事と無関係なとこにいるだろ。嫌だったら、きっぱり追い出してるよ」
弓弦は僕の頭を撫でた。僕は弓弦を見て、重なった視線に、「あ」と弓弦は慌てて手を引く。僕は咲って、「弓弦ならいいよ」と言う。
「そ、そうか。でも、ごめん」
「弓弦って分かってたら、怖くない。さっき、顔見えなくなったでしょ」
「え。あ、そっか」
「僕、男嫌いだけど、弓弦は嫌いじゃないよ」
弓弦は僕を見つめ、嬉しそうに笑むとうなずいた。弓弦が咲うのは僕も嬉しい。
「あのさ、紗月」
「ん」
「死ぬなよな」
「えっ」
「紗月なんか誰も気にしてないって言ったけど、それは紗月を何とも想ってない奴だぜ。俺は紗月が死んだら困る」
「……うん」
「俺がいるのじゃ、生きておく理由にならないかな」
僕はかぶりを振り、「弓弦がいてくれたらいい」と言った。弓弦は微笑し、「いるよ」と約束してくれる。こくんとしながら、もやもやしていた心のいくつかが、ふっと蒸発するのを感じる。
弓弦の気持ちは分かった。応えられないのが新たに苦しくても、弓弦は気にするなと言っている。誰の口より、それを信じよう。
「いつからそんなん気にしてたわけ」と訊かれ、「何となく」と僕は答えた。少し悩んで、例の男の子に言われて具体化したのも話した。その子の特徴を言うと、弓弦は思い当たったように顰め面になった。「恋人面すんのマシになってきたと思ってたのに」とまたシャンパンを飲む。
「弓弦、あの人と寝たの」
「まあ。初めはおとなしかったんだ。気にしなくていいよ。あいつもごたごたあったんだ。俺が応えないのも分かってる」
「そう、かな」
「あいつにとっての俺は、寂しがり屋じゃなくて、たらしだもん。一回寝たんで、相手にされないって信じてる。それが俺のやり方だってな」
弓弦は瓶の中身を一気に空にして、「嫉妬したんだろうな」とつぶやく。嫉妬。思いもよらない推測に、「そうなの?」と弓弦を見る。
「そうだろ」
「怒ってたよ」
「嫉妬じゃん。自分は俺といられないのに、何でこいつはいられる、みたいのじゃないのか。プライベートでこんなに一緒にいるの、来夢以来だし」
嫉妬。そうだったのか。びっくりして心をかきみだされたのと、今まで嫉妬などされることがなかったので、考えもしなかった。
「俺、一緒にいてくだらない奴って嫌なんだ。飽きる奴。あとから思い出して、時間の無駄だったって思わせる奴。来夢にはそれがない。紗月もないよ」
「僕、つまんないよ」
「俺はおもしろいの」
首をかしげそうになっても、不快ではないのならとひとまず安心する。早くも空っぽになったシャンパンの量にぶつくさする弓弦に微笑みながら、いつかこの人になら全部話せるかな、とも思えた。
そんな具合で、僕は弓弦に包まれたやすらかな生活を送った。ずっとこのままでいられたらいい。弓弦を失いたくないし、あの虐待を肯定もしたくない。
これでいい。さしあたり、僕の心はそういう方向に向かいはじめていた。
【第二十二章へ】
