虚貝-22

彼がまとうもの

 ふとしたときに現れる弓弦の影については、僕の懸念は消えていなかった。
 思いがけず弓弦の傷を感知すると、おろおろと空気を持て余してしまう。それは瞳だったり、ため息だったり、頬杖だったりした。うまく説明できなくても、普段はしっかりしている弓弦の何かが、ふっと不均衡に軽くなる。そういう弓弦に出遭うと、どうしたらいいのか分からず、息をひそめるしかできなかった。
 深夜だった。弓弦の匂いに包まれて眠り、変などきどきはあっても、僕の不眠や悪夢はかなり減った。弓弦の部屋にいて元気なのは、こうして身体的にもなぐさめられているせいもあるのだろう。
 その夜もぐっすりしていた。でも、何かの切っかけで深い眠りと浅い眠りの境界に近づき、そのときちょうど聴覚に触れたものが、脳を刺激してきた。
 フローリングを伝う足音だった。だれ、と無意識に怯えてまくらに顔を伏せたけれど、僕は認識の書き換えにほぼ成功している。現在、自分は、弓弦の部屋にいる。そう分かると、恐怖は消えた。そして、顔を上げなくても、そこにいるのが弓弦だと分かった。
 眠る僕を気にしてか、灯けられない明かりの中、暗闇を縫って届く視線の感触にはいたわりがある。それは弓弦がくれる視線で、来夢さんは僕にそんな目はしない。カウチに何か放ったりクローゼットを開けたりする音のあと、足音は向こうの引き戸に消えた。部屋は静かになり、そのあいだに僕は眠りから目覚めに傾倒する。
 眠気に痛むまばたきをした。沈めていた頭をのそりと出すと、キッチンの非常燈で部屋が真っ暗でないのが分かる。ベッドスタンドの時計を見ると、午前二時過ぎだった。本当に、弓弦の仕事は時間がまちまちだ。
 この頃、休みが少ないように感じていたので、そこにはほっとした。夜に帰ってくると、弓弦はだいたい朝か昼までゆっくりしている。弓弦のごはん食べれるかな、とのんきにふとんにもぐりこんだとき、思ったより早く引き戸の開く音がした。
 僕は再度眠りにつこうとした。まぶたを下ろすと、うとうとの中に聴覚が広がる。冷蔵庫を開ける音、何かを取り出してふたを開ける音、足音はそばに来て、ベッドがきしんだときにはどきっとした。
 薄目をすると、弓弦がベッドサイドに座っていた。こちらには背を向けている。甘めの酒の匂いがした。その背中に、僕は不安になった。
 その背中は、もろかった。寝ていると思われているのと、何をすればいいのか分からないので、心配になっても僕は空寝をするしかなかった。実際に眠ってしまえばよかったのだけど、弓弦の何かが細くなる空気に、目が冴えてきてしまった。
 不意に視線が来た。さいわい僕はうつぶせだったが、つらい視線はなかなか離れなかった。起きているとばれているのかと不安になったとき、弓弦の指が僕の髪に軽く触れた。でも、怖がるような愛撫はすぐ引っこめられ、一緒に視線も消えた。
 胸をざわつく。いつもの愛撫と違った。指先が頼りなかった。どうしたのだろう。何かあったのか。たぶん弓弦は、僕が眠っていると信じている。起きていると分かっていたら、そうも剥き出しにならない人だ。それは弓弦には、人前でさらしたくないことがあるということで──僕の胸はぎゅっとなる。
 ほどなく、弓弦は立ち上がった。足音はカウチに直行し、煙草の匂いがした。僕はその匂いに空虚を嗅ぎ、規則的な息遣いを張りつめさせる。煙草を吸い終わった弓弦は、一度キッチンの非常燈を消しに立ち、カウチに身を沈める。
 そちらをちらりとした。闇に慣れた目で見取れたのは、気だるくぶらつく脚だけだった。そのぶらつきは長らく止まらなかった。ようやく止まって、かすかに寝息が聞こえてくるまで、言い知れないものが張り裂けそうな僕にはすごく長かった。
 そのあと、うまく寝つけなかった。自分以外の、誰かに対する心配でそうなるのは初めてだった。あの弓弦の重たいものは、僕の心も沈没させた。
 弓弦はいつもざっくばらんだ。笑みを絶やさず、人の心をすくいとる気力もある。しっかり満たされて育った人に感じるけれど、違うのだ。十歳で生き方を見切り、十三で家出して働き出し、十六でこんな街で地位を確立させている。弓弦は、けしてざっくばらんではない。隠していることがあるということから隠しているだけだ。
 僕が気にしてどうなるものではない。でも、気になった。無理を強いるのではなくも、弓弦には飄々としていてほしい。それが苦しくなれば、溜めこまずに吐き出せばいい。
 僕は頼りにならなくても、来夢さんとか──いや、来夢さんも来夢さんで手いっぱいなのか。弓弦は痛みのはけ口がないのだろうか。僕は唇を咬む。そして、芽生えた所感に自分で驚く。
 この傷さえなければ、僕がそうなってあげたのに。
 できないくせに、とすぐ恥じて、心の波にもそう言い聞かせた。僕は何もできない。自分でいっぱいだ。自分にそそぐ気力も足りていないのに、人に構う余力などない。繕った気力で追いつくほど、弓弦の心は浅くなさそうだ。鈍感になっておいたほうがいい。そう目を閉じると、強引に鎮めた心に微睡みを呼んだ。
 翌朝は寝坊して、九時過ぎに起きた。弓弦は眠っていた。疲れているのだろう。毛布が落ちかけていたのでかけなおして、トイレに行ったり顔を洗ったりする。弓弦がいるので洗面所で着替えた。弓弦の服が投げこまれたかごに服を入れると、リビングに帰る。弓弦の熟睡を害さないよう、音を殺して朝食を取った。弓弦がここにいるので、〈POOL〉に行こうとは思わなかった。胃を満たすとベッドスタンドに頬杖をつき、窓の向こうの晴れ間を眺めて過ごした。
 弓弦が起きたのは昼前だった。窓の向こうに視覚を漫然とさせ、考えごとをしていた僕は、「何見てんの?」と声をかけられるまで気づかなかった。弓弦はベッドサイドに腰かけ、いつもどおりの笑みをする。「ここ、景色いいし」と僕はベッドスタンドに預けた上体を起こした。「そうか?」と弓弦は首をかたむけて窓に目をやる。
 僕はその横顔に胸が痛くなった。弓弦は普通だった。数時間前の影もない。弓弦はあのとき、僕が起きていたなんて知らない。それでも、隠されているのが哀しかった。「いつ起きたんだ?」と弓弦はこちらに向き直り、「九時過ぎだったよ」と僕は答える。弓弦は十二時が近い時計を一瞥し、「ミキさんとこ行っちまおうか」と伸びをした。
 かくてその日、僕たちは共に〈POOL〉におもむいた。朝食を取った弓弦は、ミルクティーをすする僕に見送られ、リュックと仕事に出かけた。
 結局、弓弦に影なんてなかった。僕を甘やかしたり揶揄ったり、飄々としていた。弓弦には飄々としていてほしい。望み通りなのに、演技されている感覚がぬぐいきれず、僕はショウウインドウをそれていく弓弦を不安をともなって見つめた。
 弓弦の家庭環境がどんな情景だったかはともかく、それがどれほどのものを弓弦に残したかは気になる。何かが弓弦の中枢に根をおろしている。弓弦は弱さを隠そうと意識的に演技しているわけではないと思う。強さも弱さも、どちらも弓弦だ。それが僕には心配だった。
 僕にも詮索されたくないことがあるので、真っ向から心配をぶつけることもできなかった。とはいえ、何も気づいていないふりもむずかしい。
 弓弦は僕の懸念の視線に不思議そうにして、僕の心に何かあるのか憂慮する。自分が心配されているとは、本気で思い当たっていない。「俺、また何かした?」と申し訳なさそうにする弓弦に首を振り、心でため息をつく。どうしたらいいのか分からなかった。
 そういう頃、夕方近くに弓弦と〈POOL〉にいたとき、出勤前の来夢さんと遭遇した。弓弦は例のガキっぽい笑顔をして、僕は時刻に合わない昼の挨拶をした。来夢さんは弓弦は小突いて僕には微笑み、弓弦の隣に座る。来夢さんは“朝食”を取りにきたみたいで、トーストとコーヒーを頼んでいた。
 食事が終わると行ってしまったので、同席した時間は短かった。しかし、その短時間で、来夢さんは僕が弓弦に向ける視線を感じ取ったようだ。何秒か僕を眺め、弓弦に視線を移すと、鈍感、とでも言いたげな色をちらつかす。「何?」と弓弦が見返すと肩をすくめ、来夢さんがいなくなったあと、「あいつ何?」と弓弦は怪訝そうに僕に言った。僕は曖昧に咲っていた。
 その日弓弦は、僕を部屋の近くに送り届けてから、人混みに紛れていった。僕はひとりで部屋のあるビルへと歩いた。
 頬に触れる空気は水分を孕んでいて、雨を予感させる。すでにカレンダーでは六月半ばで、確かめてはいないが、梅雨入りしているだろう。日も長くなっている。すぐ暑くなるんだろうなあ、とまだ明るい空を仰ぎ、変な人に絡まれないうちに部屋にたどりつく。
 六月。早い。けれど、それは外にいた頃の感じとは違う。外にいた頃の時間は、早いというより飛んでいた。ぐちゃぐちゃと考えて、気づくと一ヵ月ぐらい過ぎていて、でものしかかられる最中は一ヵ月より遥かに長い。眠っていたように空白だったり、一分間の秒刻みが増したようだったり、時間がゆがんでいた。
 ここでは時間はきちんと連続し、なずみなく過ぎている。ごはんを食べたりシャワーを浴びたり、とりわけ弓弦と話すと感覚に区切りが入り、時間が整理できる。早いなとは思っても、弓弦たちと過ごしたこともちゃんと記憶として重みがあり、僕は初めて季節の移り変わりを五感に吸収していた。

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