虚貝-23

時さえゆがめて

 夕方に仕事に出かけたせいか、その夜、弓弦は帰ってこなかった。翌朝にもすがたはなく、寝ぼけ眼をこすった僕は、窓のカーテンの隙間に空模様を覗く。やや曇っていても、雨は降っていない。
 朝食は〈POOL〉で取るのを決めた。身仕度を整え、戸締まりを点検して、弓弦がくれた合鍵をポケットにしまうと、部屋をあとにする。
 空腹の胃をさすり、注意をはらって道を歩く。朝は昼ほどに閑散とはしておらず、夜の名残を残す人もちらほらしている。そういう人はさりげなく避け、湿って涼しい空気の中、〈POOL〉に向かう。
 道順慣れたなあ、とか思っていると、「紗月くん」と呼ばれて足を止めた。かえりみると、来夢さんだった。昨日と同じ服装で、仕事帰りみたいだ。「おはよ」と来夢さんは僕に追いつき、「おはようございます」と僕は少し頭を下げる。
「ミキさんとこ」
「はい。来夢さんは」
「俺も。夕飯。ジャンクフードより栄養あるしね」
 ちょっと咲い、特に確認せずに来夢さんと並行しはじめる。来夢さんの髪は半乾きで、石けんの匂いがしていた。「お仕事帰りですよね」と訊くと、「うん」と来夢さんは咲う。来夢さんは、僕にはけっこう咲ってくれるようになった。
「紗月くんは朝飯?」
「はい」
「弓弦、あのあと仕事行ったんだ」
「えっ」
「ないなら部屋帰って、紗月くんに朝飯作ってるかなと」
「あ、はあ」
 弓弦の話題で、昨日来夢さんが僕の視線を気取っていたのを思い出す。僕は来夢さんに空目をして、その瞳を受けて、来夢さんは少し笑んだ。「昨日」と来夢さんは言い、僕はうやむやに咲う。
「弓弦って、鈍感ではないんだけどな。自分のことには鈍いってタイプか。初めて知った」
 来夢さんは苦笑いし、僕に断って煙草に火をつける。
「弓弦のこと、心配なんだ」
「まあ、ちょっと」
「弓弦に何か告白されたの」
「いえ、何となく」
「ふうん。鋭い──っつうより紗月くんが分かる人なのか」
「え」
「普通分かんないよ。弓弦って自分隠すのにかけて天才的だし。俺も騙されそうなときがあるもん」
「そう、なんですか」
「あいつに何かあるって忘れかけて、暗い仕種しても何でか分かんなくなる。たまにだよ。もともとあいつは俺には演技しないし、明るいのも地で明るい。俺以外は誰も、あいつに何かありそうとは気づかなかった。今はだよ。初めて会ったときとか、俺も当然、弓弦のこと何にも知らないじゃん。変な影見つけても、あいつ軽いからね、錯覚だろって思ったり。仮に気づいても、みんなそう流しちまうんじゃないかな」
 弓弦を想い、確かにと納得する。あの軽い性格さえ、弓弦は殻の細工にしている。
「俺は分かるっつう前に知ってるんだ。知ってるから分かる。紗月くんは、知らなくても分かるんだな」
「家を出たかったとは言ってましたよ。そのへんにごろごろしてるとか」
 来夢さんは笑い、「まあね」と煙をふかす。歩いているので、紫煙は水気の風と背後に流れる。
「正しくは、ごろごろしてちゃいけないのに、そのわりにごろごろしてる家、だよ」
 まじろぐ。それは──単なるごろごろしている家と、かなり開きがあるのでは。
「俺は弓弦にあったことはひどいと思うよ。あいつひとり気にしてないだけで、たぶんだいたいそう思う。弓弦は割り切ってるんだ。客観的にね。主観をぶちまけたところで、しょせんくだらないって知ってる。だから主観は自分の中で処理する。すごいなって思うよ。俺は弓弦に逢うまで、溜めこむしかできなかった」
 来夢さんを見る。来夢さんは少し空っぽに咲い、「俺のだってごろごろしてるよ」と煙草に口をつける。
「あ、でも、弓弦とつるみだしてこっちに来たあとで一度ごたごたがあって、そっちは今のとこマジかよって感じ。もうお笑いでさ。メロドラマみたい。俺のために泣く奴もいるのかもしれない。ふざけんなって感じだよ。泣ける時点で何にも分かってねえよ」
 やすらげる場所がなくなった、という来夢さんの話が思い返る。でも、推断する前に来夢さんは笑顔を取り繕い、「まあいいんだ」と道路に灰を落とす。
「世界一ひどいことだったわけじゃない。誰にも俺の気持ちは分からないとか自己憐憫だし。弓弦もいるし」
「弓弦」
「俺、そのときマジで泣けなくてさ。弓弦の前に戻って、やっと泣けたんだ。必死に同情してくる相手より、俺の気持ちを理屈抜きで感じ取る相手のが俺には大事で、そういう奴が現にいた。ついてたんだ。ひどい体験しても、ほっとくしかない奴いるじゃん」
 弓弦がたらしを演じ、そばにいてくれる人を捜しているのを思い出す。気持ちを理屈抜きで感じ取る。弓弦もそういう人を捜しているのだろうか。
「弓弦に会えて、こんな考えができるようになったんだ。弓弦がいなくてあの経験してたら、今ここにいたかも分かんない。俺が生きてんのは弓弦のおかげだよ」
「強い、ですね。絆というか」
「はは、まあね。紗月くんには負けるかも」
「えっ」
「弓弦がつらそうって分かる奴、そういないよ」
「弓弦って、いろんなとこで落ちこんでませんか」
「そうかな」
「ため息とか、ぼうっとしたりしてますよ」
「よく見てるね」
 頬を染めてうつむいた。来夢さんは喉の奥で笑うと、「だいたいの奴は、そういう細かいとこは見過ごすんだよ」と煙草をふかす。
「普段明るいぶん、目につきませんか」
「どうかなあ。あいつ自身気づいてないだろうし」
「え」
「それであいつの演技は天才的なんだ。演技しようと思ってない。あいつはいつだって本物。言い換えたら演技が日常化してる。仮面と素顔の境界線がなくて──ただ、俺とか紗月くんは、あいつ自身も操れないその線を感じ取れる」
「何で、でしょうか」
「あいつが必要だからじゃない? やり手の仕事人とか超絶技巧のたらしじゃない、ただの弓弦が」
 むずかしそうな原理をあっさり名状され、なるほどと首肯する。
「あいつは、俺たちほど弓弦っていう自分に執着してないんだ。昨日、あいつ、紗月くんが心配したって何にも分かってなかったじゃん」
「はい」
「あれはあいつが、自分をそのへんの平凡な奴って思ってるせいだよ。ため息ついてもぼうっとしても、暗いもの含ませてる自覚がない。自分に暗くなるものはないと思ってるから。同情されても、心配されてもわけが分かんない。昔もそうで、家のことで同情してくる奴を嫌ったりしてた」
 僕は視線を正面にやる。〈POOL〉が近いのが周りの景色で分かる。
 自分で自分が傷ついていると思っていない。平凡と思っている。僕みたいだ。でも、僕は心配されたらぽかんとはしない。同情されて憎んだりもしない。見舞ってもらえる傷が在るのだとほっとする。いやらしいのだろうか。
「客観的なんだよな。主観的には地獄でも、客観的にはありきたりだったら、弓弦は認識の照準をそっちにする」
「できるんですか」
「あいつはね。ま、始終主観的でいたって精神的にきついよ。そういうのは、あいつなりの精神安定なのかもな」
 地面を踏み進む足に目を落とす。
 来夢さんは弓弦の具体的な経験はぼかしているけれど、そこは、僕のどうしても知りたいところではない。確かめたかったところは、分かった。やはり弓弦は、尋常ではない道のりを越えてきたのだ。ただ弓弦が、それを苦しかったと自覚していない。
「弓弦の明るいのが嘘だとは思わないんです」
「うん」
「暗くなるときが本性だとも思いませんし。言い方怖いですけど、何か、性格が分裂してるみたいです」
 来夢さんは煙草を吸いながら僕を眺め、「弓弦と寝た?」と唐突なことを訊いてくる。僕は思わず、「何でですか」と否定をさしおいてしまう。
「いや、寝たんでそんなに分かるのかなと」
「寝てないですよ」
「ふうん。すごいな。あいつが今までやってきたことは何だったんだ」
「え」
「いや、何でも。うん、自分が分裂してるとはあいつも自分で言ってたよ」
「そう、なんですか」
「昔ね。俺もなんだけど、過去と現在がしっくりしてないんだよ。過去がやたら強くて、どんなに経とうがのさばって、現在の居場所がない。バランスの悪さに、しょっちゅう弱い現在が吹っ飛ぶ。紗月くんが言う弓弦の暗いときって、たぶん、現在が吹っ飛んだときだよ。フラッシュバックみたいなもんかな。時間が経てば癒されるって言うけど、時間がたしにもならない傷もあるんだ。というか、本物の傷は時間もゆがめる」
 むずかしく眉を寄せる。過去とか現在とか、僕は自分のことに対して、そういうのは考えない。僕のほうがマシというより、この苦痛はまだ現在進行形なのだ。
「現在に執着心を起こすのが手っ取り早いんだ。好きで過去にしがみついてんじゃないよ、だから面倒なんだ。意思がきかなくて、現在を愛したくても愛せない。死んでもいいやとか思いながら生きてんのに、まさか未来に希望も持てないし。それでも一度、俺は現在を愛せるようになったことがある」
 僕は来夢さんを仰ぐ。来夢さんは微笑み、「壊れたけど」とあっさり言う。
「誰にだってチャンスはあるんだ。根拠もなく感情でビビって、先入観がないあいだ。俺はもうできちゃった。踏み出して何かつかんだって、全部壊れるって確信がある。弓弦にはそうなってほしくない」
「弓弦──」
「俺も弓弦を分かってるつもりだし、紗月くんが弓弦を理解してるのは分かるんだ。あいつには、紗月くんみたいな子が必要だったんだよ」
 僕はどうとも返せない。必要、なんて──弓弦にしたら、例のたらしの挙句見つけた人より、断然下だろう。理解している自信もない。かといって、来夢さんを否定もできない。理解とまではいかなくも、弓弦の神経を逆撫ではしていないだろうか。そう言うと、「ひかえめだね」と来夢さんは咲った。
〈POOL〉が前方に見えると、来夢さんはすげなく煙草を地面に捨てて踏みつぶした。「いいんですか」と問うと、「死体よりマシ」と返され、どきっとする。僕はそこまでこの街に慣れていない。
 朝食前だった僕の胃は、空腹に痛みを覚え出していた。さいわいそこで〈POOL〉に到着し、弓弦のごはん食べられなかったな、と思いながら、来夢さんを追いかけて店内に踏みこんだ。

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