揺蕩と傷口
弓弦を心配する反面、相変わらず弓弦への不可解な感情も持て余していた。
弓弦との関係は、精神的に保っておけばいい。そう思うかたわらで、弓弦に頭に手を置かれるとどきっとして、気遣ってもらうとはにかむ。弓弦の腕に収まって意識が錯誤したのが、何やらショックでもあった。
あれこれ心配するのだって、行き過ぎではないかと感じる。来夢さんのように、弓弦の自力に任せるのも手なのに、弓弦の影を見ると何かしたくなる。弓弦がうつむいていると苦しい。なぜ、こんなに弓弦が刺さってくるのか──心当たりを、どうしても認めたくない。
外にいたときに較べれば、僕は変わった。けれど、それは外面的なことだし、内奥はいまだ虚ろに支配されている。表出する頻度は減っても、永眠したわけではない。突けばすぐ起きる。何が引き金になるかも分からない。心にはまだはっきりと、性虐待の光景が焼きついている。
一年生のあいだは、生徒会長の奴隷だった。言いつけは絶対で、何だろうと受けなくてはならなかった。歯を孕む性的な口づけをされ、服を脱がされ、手や口で性器をいじられ、卑猥な言葉をささやかれ、幾度となく軆の中を侵害された。うつぶせられ、壁に手をつかされ、腰を抱えあげられ、あの破裂しそうな痛みも、肥大した性器の存在感も、くっきり覚えている。かかる影の圧倒も、探られる屈辱も、獣に似た息遣いも、あの、べとついた白い汚臭も。
あの人は生徒会長だったので、校内で融通はきいた。生徒会室に限らず、学校のいたるところで僕はあの人に迫られた。教室、トイレ、非常階段、更衣室、体育館──うろうろと犯され、関係が露顕しないほうがおかしかった。僕と生徒会長が肉体関係を結んでいるというのは、じわじわと校内に広がっていった。
あの中学では、生徒会長は生徒の投票で決まる。つまりあの人は、学校で誰より信頼されていて、僕がどうわめこうが非は向こうだとは信じてもらえなかった。
一度、言ったことはある。クラスメイトにうわさについて質問された。僕は迷った挙句、あれは無理やりされていると答えた。しかし、普通の感想はこんなものらしい。
「何で逆らわないわけ?」
その疑問は、悦んでいるという独断に結びつけられ、墓穴になった。うわさは増長した。あいつは好きで生徒会長を受け入れている。性欲まみれの恋人同士だ。簡単に軆を開く淫乱だ。みんな原因は僕だとして、生徒会長が悪いとはけして言わなかった。
先生たちもだった。「君の趣味に文句はないが、風紀は乱さないように」──そんな呼び出しも食らった。男に迫られて断れない男がいるだろうか。その固定観念が、逆らえないだけで、すべて僕が悪いとしていた。
嫌なら逆らっているはずだ。その定義に僕はいっそう混濁した。そうだ。嫌なら逆らえばいい。なぜ僕は逆らわないのだ。悦んでいるから、嬉しいから、突き離せないのだろうか。
僕はゲイだ。男が好きだ。だから逆らえないのか。僕は実はこれが欲しくて欲しくてたまらないのではないか。泣いているのは、嬉し涙かもしれない。嫌なら悲鳴をあげればいい。めちゃくちゃに暴れてもいい。心底嫌なら、ゲイだとばれるのなんて投げ打てばいいではないか。
なぜ服を脱がされながら、ぐったりしているのだろう。軆に触られながら、痺れたように動けないのだろう。つらぬかれながら、めまい混じりにこんなのを考えているのだろう。嬉しいからではないか。終わったとき死んだようになるのは、絶望ではなく、軆が蕩けきっているせいではないか。自分でもほどけないしつこい猜疑は、日々僕を蝕んでいった。
日常的に、ホモだとバカにされるようになった。生徒会長の傘下にいるというのが、幸か不幸かイジメには至らせなかった。それがなくても、みんなにはイジメる気はなかっただろうか。みんなの頭にあるのは別のことだった。
そこは男子校で、校内にいる異性といえば先生で、でも教師に手を出す勇気はない。それでも、反り上がった性器をどこかに挿しこみ、なぐさめてみたい欲望はある。はけ口の犠牲者が必要となってくる。必然、みんなの頭に浮かんだのは“男好き”の僕だった。
僕がこの図式に気づいたのはもっとあとだ。僕は三学期の時点で、学校を休みがちになっていた。ホモだとばらすと言われても、もうばれているので、逆らっても逆らわなくても同じだと、やっと生徒会長の魔の手を逃げるようになった。ずる休みして部屋に閉じこもり、一日じゅう泣いたり自傷したりしていた。
二年生になったら大丈夫だと思っていた。みんなの思惑など思いもよらなかった。あの人が卒業してしまえば、やり直せる。そんな回復の希望を、同級生が笑いながら踏みにじってくるなんて、考えてもみなかった。
小学校の担任教師に始まり、権力をかざした生徒会長の強要、僕が受けた迫害の行き着いたところは、同級生の慰み物だった。みんな、僕を人間あつかいしなかった。はっきり言って、精液の便器だった。ゆいいつの救いといえば、あまりのひどさに僕の精神が耐えかね、一ヵ月も経たずに死ぬ気で登校拒否を決行をしたことだ。そして、ここで弓弦に出逢えて──ほかは地獄か悪夢だった。
あの一ヵ月間足らずは、どう形容すればいいのか分からない。そこにあったのは、精液と唾液、ひどいと血液、感じていると勘違いされる涙だった。
軆はがくがくして意識は朦朧として、途中から何をされたか憶えていないときもあった。みんな、自分が射精できればよかった。だから僕が勃起することはなかった。ひたすら肛門をかきまわされ、直腸に放出され、乱暴さに便がはみでるときもあった。僕がこれ以上ここにいたら死ぬと思ったのは、精液と血便のついた性器の始末をさせられたときだ。帰宅して何度もうがいして、嘔吐して、一晩じゅう泣いた。次の日、学校に行けなかった。
怖かった。理性的な屈辱より、本能的な恐怖だった。死にたくない。いや、あんなことでは死にたくない。僕にとって死はとても魅力的なものだったけど、あんなので死ぬのは嫌だ。笑い声や息遣いが耳を離れない。深く突き刺さる膨脹に、軆はばらばらに砕け散ってしまいそうだ。そんなので死にたくはなかった。恐怖の下敷きになるのは、屈辱に吊し上げられるのは、もうたくさんだった。
男なんか死んでも嫌だ。男同士なんか汚辱の体現だ。なのに、僕は男が好きだ。僕は何なのだろう。生まれつき穢れているのか。女の子の、ふくよかな乳房やなめらかな脚に興味が湧かない。僕はやっぱり硬い胸板にしがみつきたい欲望があったし、股間の前開きに曲線がなくてはならなかった。
その淫猥な感覚がすごく嫌だった。あんなことをされておいて、それでも僕はホモなのか。ヘテロに転身してしまえればいいのに、趣味などではない揺るぎなさが、そうはさせない。僕はどうしようもなく男が好きだった。
僕は傷ついていると思う。ただ、行なわれた行為への傷より、行なわれたことを好む性質を持つ嫌悪が優位を占めている。相手より自分を軽蔑する。男が好きなくせに男に抱かれ、傷ついていいのか自信がない。傷ついていたとして、他傷なのか自傷なのか分からない。何にも分からなくて、僕はぱっくりした心に、視覚の死んだ哀しい瞳をそそぐしかできなかった。
弓弦に気持ちを揺らし、僕の悩みはいっそう錯綜している。弓弦に惹かれまいとしている。しかるに僕の心臓は弓弦相手に波打ち、隣を独占できると嬉しくて、微笑まれるとほっとする。そしてすぐにはっとして、そう感じる自分を嫌悪する。弓弦のそばにいると、その揺り返しだった。
弓弦に惹かれたくなかった。しかし、弓弦のいろんなものは僕を強く惹きつける。僕を僕としてあつかい、心を尊重してくれる。弓弦ほど僕の気持ちをすくいとり、それを大切にしてくれる人は今までいなかった。
もちろん、あの心配もある。あのあとも、僕は何度か弓弦の影に直面した。明るいときの弓弦とその弓弦には、かなりの落差がある。昨日、暗闇で煙草と物思いにふけっていた弓弦と、今テーブル越しに目の前で来夢さんとやりあう弓弦は、ぜんぜん違うのに同じ人だ。わざわざ心配したくない。思わず心配してしまう。弓弦に対し、僕の神経では今そのふたつが行ったり来たりしている。
【第二十五章へ】
