虚貝-26

そばにいて

 弓弦を好きだと言う人は、きっとたくさんいる。その中から、弓弦は好きだと感じる人を選べばいい。そのうち弓弦は、理想的な親友の来夢さんに続き、理想的な恋人をつかむのだろう。
 その人を弓弦に紹介され、僕は咲えるだろうか。弓弦がほかの人の手を握ったり、髪を撫でたりするのを見たら──苦しい、と思う。弓弦がほかの人を甘やかすのは見たくない。弓弦とその人がいるところにはいられない。僕はその人といるときの弓弦は避ける。そして次第に会えなくなって──弓弦に恋人ができるのは、僕が弓弦を失うのと同義だ。
 弓弦は僕と寝たいと言った。寝たら関係が終わるから、僕は弓弦と寝るのは怖いと思った。精神的でいれば弓弦といられる。それも甘いようだ。寝なければ弓弦を手元に留めておけるなんて、バカげている。弓弦がずっとそばにいてくれる保証より、ふっつり失う切っかけのほうが無数だ。
 弓弦に恋人ができれば、今まで通りではいられない。僕は自殺の一歩手前に来てこの街に来た。弓弦に出逢って助かったのだから、弓弦を失くせばまっさかさまになるのは簡単だ。弓弦に恋人ができれば、僕はあの拷問台に捕縛される。それは、ありえない短絡思考ではない。
 バカみたいだ。なぜさっさと気づかなかったのだろう。弓弦は僕のものではない。なのにすっかり依存し、ずっとそばにいられると信じこんでいた。弓弦はそのつもりだ。恋人ができても、僕と友達としてつきあう気でいる。けれど、僕はそれはつらい。弓弦の隣に、弓弦の愛を受ける人がくっついているなんて耐えられない。
 僕が悪いのだ。僕が弓弦に妙な気持ちを起こしたのが悪い。この気持ちさえなければ、弓弦に友人として接するのに苦はなかった。恋人ができても祝福できた。弓弦といられなくなって、あの監獄に戻ったとしても、それは僕の非だ。あれだけのことをされておいて、恬然と弓弦にホモになりかけている、僕の自業自得なのだ。
 そんなのを鬱々と考えていたせいか、六月も下旬に入った週末に悪い夢を見た。
 この部屋に帰ってくると家族がいて、学校に行かされて虐げられ、卒業したはずの生徒会長に抱きしめられ、嫌がって引っぱたいたらなぜか弓弦で、嫌われてこの部屋にいられなくなり、家に帰って自分の部屋で自傷に明け暮れ、血まみれになって学校に行くと保健室送りになって、ベッドで休んでいたら小学校の担任に犯され、そこを誰かに見られて僕は学校じゅうにホモだとバカにされるようになり、死のうとこの街に来たら弓弦に逢って、だけど弓弦に恋人が現れて部屋を追い出され、ビルを出たところで同級生にかちあい、そのへんで犯されるところを弓弦に見られてゲイだと知られ、男が好きなんじゃないかと迫られ、でも誰にもできなかった抵抗を弓弦にはしまくり、やらせないなら必要ないと関係を拒絶され、離れられて、僕はひとりになって──
 そんなのが延々と続いた。僕は傍目にはめちゃくちゃにうなされていたらしい。目が覚めて悪夢が消えたのは、誰かに激しく肩を揺すぶられてだった。
 息遣いが荒かった。全身が汗でびっしょりで、軆が震え、まぶたを押しあげた途端に涙があふれた。最後に見たのは遠ざかる弓弦の背中だった。
 よみがえった心象にいっそう泣いてしまうと、「紗月」となだめるように名前を呼ばれる。こめかみで滝になる涙を、誰かの指がぬぐった。動悸に合わせて息が苦しく喘ぎ、喉が痙攣している。頭に焼きつく拒絶が怖くて、弓弦の名前を呼んだ。
 すると返事があって、ようやく顔をあげられる。濡れた視界と暗闇の向こうでベッドサイドに腰かけ、僕を覗きこんでいるのは、弓弦だった。
「ゆづ、る」
「大丈夫か。怖い夢見たのか」
「弓弦……」
「ん」
「弓弦──」
 涙がこぼれた。弓弦だ。弓弦がそこにいる。離れないようにしなくてはならなかった。僕はシーツに手をつく弓弦の腕をつかんだ。弓弦はどきりとしたふうにそちらを目をやり、そののち、そっと僕の手を手で包んでくれる。
 弓弦だ、と心に言い聞かせる。そう、これが現実の弓弦だ。あれは僕の悪夢の中での弓弦だ──けど、弓弦の本心に僕を拒みたい想いがないと言い切れるだろうか。
 そう思うと、僕の涙は再びあふれだし、弓弦をおろおろとさせてしまう。
「何だよ。泣くなよ。俺ここにいるから」
「え……」
「ここにいるよ。そばにいる。ひとりじゃないよ」
「ほんと……」
「うん」
「ずっと」
「えっ。あ、うん。ずっと」
「そば、いてくれる」
「うん」
「置いていかないで」
「……いかないよ。決まってるだろ。ずっと紗月といるよ。俺が紗月を守ってやる」
 涙を止められずにいながら、僕は自然に咲えた。嬉しかった。弓弦にそう言ってもらうだけで、いろんなものが怖くなくなる。弓弦は僕の手を握り、一方の手では、涙をぬぐったり額をさすったりしてくれる。
「何かしてほしいことある?」
「え」
「何でもしていいよ。紗月が落ち着くなら」
 僕はしゃくりあげながら弓弦を見つめ、「そばにいて」と言った。「そば」と弓弦は問い返す。
「僕の近くにいて」
「いるじゃん」
「もっとそばにいて」
「もっと」
「弓弦がどこか行きそうで怖い」
「え」
「分かるようにそばにいて。誰のところにも行かないで」
 自分で何を言っているのか分からなかった。頭より心でしゃべっていた。僕の手を握って躊躇っていた弓弦は、不意にベッドサイドから腰を上げ、ふとんに入ってくる。嗚咽にひくつく僕の軆を恐る恐る抱き寄せ、「大丈夫か」と訊く。僕はうなずき、それを認めた上で、弓弦は僕を抱きしめた。
 僕は弓弦の平たく硬い胸に頬を押しつけた。弓弦の服が僕の涙で濡れていく。弓弦は気にせず僕の頭を手のひらでおおい、素直に泣かせてくれた。僕は弓弦の広い背中に腕をまわし、麻薬を嗅ぐみたいにその体温と匂いを吸いこむ。
 そうしていると、僕の錯乱は驚くほど落ち着いていった。弓弦は根気よく僕を綏撫し、懸念もささやいてくれて、そのおかげで、今自分を抱きしめているのは弓弦だと認識していられた。抱きしめ方も丁寧で、包みこむ感じだ。あの人や先生とは違う。僕は弓弦の腕の中で保護された子供みたいに泣きやみ、やすらいでいった。
 すすり泣き程度になると、「落ち着いたか」と弓弦は僕を覗きこむ。僕は鼻をすすって、こくんとした。弓弦はほっとした笑みをこぼし、「嫌なら離れるぜ」と軆に隙間を作る。僕は首を振って弓弦にしがみつく。
「弓弦が、嫌?」
「まさか。紗月は?」
「……弓弦だもん」
 弓弦は咲って僕をぎゅっとして、僕の頭に頬をあてた。鎮まっていく嗚咽の雑音に、弓弦の鼓動が聴き分けられるようになる。少し速かった。その鼓動を聴きながら、僕は泣き疲れか安堵かでうとうとしてくる。
「俺、朝までいるから」と弓弦は僕の疲れを察して背中をとんとんとする。僕は小さくうなずき、まぶたを下ろした。夢より現実の弓弦が強くなり、怖い心象は浮かばなかった。
 ほっとして軆の力を抜き、弓弦の腕に身を預ける。弓弦はたゆまず僕の頭や背中を慰撫してくれた。弓弦に包まれる安心感に飲まれ、やがて僕は、微睡みから熟睡へと沈下していった。
 翌朝目覚めると、弓弦は僕を抱きしめるまま眠っていた。起きた直後は、男の胸におさまっていることに混乱しかけたものの、相手が弓弦だと認め、夜中のことを思い出すと怖くなくなった。むしろ、そばにいてくれたんだ、とおもはゆい歓喜が芽生える。至近にある弓弦の寝顔が恥ずかしくて、僕はその胸に顔を伏せる。
 弓弦の寝息を髪に感じる。弓弦の胸に耳をあて、深く響く鼓動を聴く。その律動を鼓膜に染みこませ、煙草の混じった弓弦の匂いに軆の力を抜いた。弓弦の服をつかみながら、ちょっとだけこの人の恋人になれた気分にもなる。
 弓弦に包まれて眠り、悪い夢は見なかったようだ。記憶にないだけの悪夢の名残が、胸に重かったりもしない。
 僕は漠然としつつある昨夜の夢を思い返した。怖い夢だった。僕は思うより不安や危懼でいっぱいなようだ。
 弓弦がいてよかった。起こしてくれたのも、いたわってくれたのも。夕べ僕が寝たとき、弓弦はいなかった。そのあと帰ってきたのだろう。
 もしあれが耐えかねて飛び起きるとか、朝に夢うつつを彷徨うとかだったら、僕の精神は混乱に陥っていた。襲ってきた感情は溜めこみ、思いつめた怯えた視線で、また弓弦に心配をかけていた。弓弦がいてよかった。すぐ弓弦がここにいるのが分かって、夢に惑わされずにすんで、杞憂に駆られた夢だと信じられた。
 あんなのは夢だ。現実の弓弦は、僕が思うより、僕を想ってくれている。
 弓弦に起こされ、不安に任せて何か言った気がする。何を言ったのか、弓弦がどう応えてくれたのかは、眠気もあってよく憶えていない。こうも気持ちがすっきりしているのだから、誰にも言えなかった本心を吐き出し、弓弦はそれを受け入れてくれたのだろう。
 顔を上げる。弓弦はすやすやとしている。その顔をじっと見つめていると、いつまでもこの人といられない現実がつらくなった。
 弓弦ほど僕をすくいとってくれる人はいない。僕の入り乱れた心には弓弦だ。でも、弓弦には違う。僕は弓弦に何もできない。僕と弓弦が一緒にいても、僕が一方的に弓弦を蝕むだけだ。僕は弓弦の胸に頬をあて、こっちも何かしてあげられればいいのに、と思う。ならば、僕にも弓弦の隣にいる権利があったかもしれない。
 弓弦の腕は、僕の背中にまわっている。あのことへの嫌悪が、弓弦の隣にいたいという欲望をさいなむ。弓弦にいずれ恋人ができるのは、夢の産物ではない。弓弦に甘やかされるほど、僕は記憶を投げ打って弓弦に期待したくなる。弓弦はいいと思って僕をいたわっている。それは分かるので、べたべたするなとも言えない。
 どうすればいいんだろう、とため息が出る。僕には、自分と弓弦のこの先の関係がよく見えない。
 ひとまず、弓弦の胸に身を縮めて埋まった。肌を密着させるのは暑い時期だし、寝汗もある。けれど、今はこうしていたい。弓弦が起きたあとはあとで、今は弓弦の一番近くにいたい。
 誰か──男にこうして素直に甘えられるなんて、一生ありえないと思っていた。みんな怖かった。弓弦なら怖くない。触れあっても怖くない。男の軆なのに嫌悪もない。不信感でできていたような僕の心に、弓弦はあっさり信頼の糸口を見つけた。僕には弓弦がほかの人と違う確信があって、ゆえに怖くないのだろう。
 僕が怯えているのは、そんな奇跡にも近い人を、そばにつなぎとめる力が自分にないことだ。僕はあのことで、そういうところも食いつぶされたのだろうか。だとしたら、怯える中ですごく哀しかった。

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