虚貝-27

君になら

 弓弦が起きたのは午前九時前だった。僕は起床せず、弓弦の熱と匂いにぼうっとしていた。弓弦は急に低くうなり、腕におさめる僕を無造作にきつく抱きしめる。どきっと僕が硬直すると、「ん」と弓弦は腕の中の僕を確かめ、気づくと慌てて腕をほどいた。
「ご、ごめんっ。その、まくらか何かかと」
 目覚めたとき腕に何か抱いていたら、と思うと分かる気がして、僕は咲う。
「えーと、俺、このまま寝てた」
「うん」
「そ、か。ごめん。嫌だったよな」
 僕は首を振り、「そばにいてくれたんだね」とシーツの上で身動ぎする。
「ん、まあ」
「ありがと。暑かったよね。僕もごめん」
「いや、俺はぜんぜん。汗はかいたな」
「タオル持ってこようか」
「え、ああ──いや、俺が持ってくるよ。紗月は休んでろ」
「もう大丈夫だよ」
「今は大丈夫を大事にしなさい。無理して戻ったら意味ねえだろ」
 僕の額を軽くたたくと、弓弦はベッドを降りていった。僕は息をついてシーツに伏せり、もらった言葉にうわてを感じる。服に触り、着替えたほうがいいかと思う。弓弦はすぐ戻ってきて、ベッドの上に起き上がった僕にもタオルを渡した。
 タオルでこめかみや喉元を拭く。弓弦は冷蔵庫に歩み寄り、取り出した桃色のカクテルをあおった。朝なのに、とあきれる僕には、五百ミリリットルペットボトルの烏龍茶をくれる。流れる汗はぬぐえても、べたつく汗はシャワーで流すほかなさそうだ。ベッドの足先に座った弓弦に、「シャワー浴びたほうが早いかな」と僕も烏龍茶のキャップを開ける。
「だな。紗月、浴びる?」
「弓弦に仕事があるなら、あとでいいよ」
「あ、そうか。行かなきゃ。今何時?」
 ベッドスタンドの時計をかえりみて、「九時まわってるよ」と報告する。
「九時。あー、もうバイク借りるか」
「バイク乗れるんだ」
「無免だけど」
 弓弦に鬼胎の目を向ける。弓弦は笑い、「偽装免許は持ってる」と自慢にならないことを言う。僕が心配したのは、怪我とかなのだけど。
「今日は一日会えないだろうな。彩雪あやゆきにお遣いがあるんだ」
「あやゆき」
「陽桜の反対の北区。ほら、あんまり俺の名前がびしっと効かないという」
「え、大丈夫なの」
「俺は大丈夫だよ。後ろ盾に俺がいるっつっても、俺に伝わるのを揉み消したりする場合があるんだよな。俺自身はそっちで顔きく奴と知り合いだから平気」
 弓弦が危険なのは僕も不安なので、ほっとして烏龍茶を飲む。「その顔きく人とは寝たの?」と何気なく訊くと、カクテルを飲んでいた弓弦は咳きこんだ。
「寝るかっ。って、あ、紗月はあいつを知らないのか。そいつはストレートなんだよ。男だぜ」
「そう、なんだ。ストレートだったらしないの」
「向こうにその気がなければな。あと、俺は単にやりまくってるわけじゃない。何にも引っかからなきゃ興味ないよ」
 そっか、と納得する。そう、弓弦はたらしでなく、そばにいてくれる人を捜しているのだった。
「じゃあ、仕事のつきあい」
「紗月と来夢以外はみんなそうだよ。信頼はしてるほうだな。同い年なんだ。トウってやつ。そいつの親友がおもしろくて、そっちはゲイじゃなかったかな。ナナイという」
「寝た?」
「寝てません」と弓弦はカクテルにキャップをする。そして僕を見つめると、「ごめんな」と唐突に言った。
「え」
「そばにいてやるって言ったのに。いきなり嘘になっちまって」
「あ、ううん。いいよ。仕事は仕事だもん」
「うん──、けど」
「今いてくれるだけでも楽になれてるよ。弓弦がいなくてひとりで起きてたら、怖いのも抱えこんでた。弓弦が甘えさせてくれて、冷静になれた」
「そっか」と弓弦は嬉しいのとほっとしたのを混和させて笑んだ。「落ち着くならいっぱい甘えていいよ」と言われ、僕ははにかんで咲う。弓弦は最後まで、僕の夢の内容は訊かなかった。
 そのあと弓弦は、シャワーを浴びたり支度をしたり、僕の一日ぶんの食事を作ってくれたりした。そばにいられない代わりと、今日はここで休んでいてほしいためだそうだ。僕もそのつもりだったので、助かった。やるべきことをやった弓弦は、「じゃあ」と玄関まで見送る僕と向き合う。
「気晴らししたかったらミキさんとこ行くのもいいけど、なるべく休んどけよ」
「うん」
「何にも依頼なきゃ、明日は夕方までヒマだし。一緒にいよう」
 僕はうなずき、「疲れてたら、眠ってる弓弦といるのでもいいよ」と添える。弓弦は咲い、「そのときはそうさせて」とドアノブに手をかける。
「弓弦も気をつけてね」
「俺?」
「無免のバイクで怪我されたら困るよ。あと、お酒も今飲んでたし」
「はは、そっか」
「気をつけるよ」と約束すると、弓弦は部屋を出ていった。鍵がかかる音がして、離れる足音がするまで、僕はそこに立っている。
 リビング兼寝室に帰ると、弓弦が出かけて部屋に残されるのはやっぱり苦手だなあと思う。しばし突っ立ち、やることはないかときょろきょろして、そういえばとシャワーを浴びることにする。
 バスルームは水と石けんの匂いが強くした。今弓弦が使ったもんな、とどぎまぎして、べたつく汗を流し、弓弦に買ってもらったスポンジにボディソープを飲みこませる。
 泡立てる軆に消え入りそうな傷痕を認め、ここに来て自傷はなくなったなと思った。自傷後は入浴が大変だった。お湯も泡も沁みるし、腕を傷つけると掲げるのが重たく痛い。
 今日見た夢はきつかった。家で見ていたら確実に自傷に走っていた。這いまわる手の感触を消したかったり、弓弦に応えられない性器など切り落としたくなったり。あの夢には、僕をみじめにさせる示唆が散りばめられていた。弓弦がいなければ何をしていたか。本当に、弓弦がいてよかった。
 バスルームを出ると、何冊かの本を連れてカウチに座った。疲れたら横たわるのを織り混ぜ、本を読んだりぼうっとしたり、弓弦が作ってくれたごはんを食べたり、一日おとなしくしていた。
 ひとつの提案が湧き上がっていた。関係も築いたし、僕の心も平穏を増やしている。昨夜は悪夢からあっさりとやすんじてもらった。僕には何もかもを漏出させ、空っぽにさせる裂け目がある。僕は誰にもその存在を秘匿してきた。
 今、迷いかけている。弓弦に、その存在を打ち明けてみたらどうだろうか。
 男に犯されているなんて、誰にも言わなかった。一度言って墓穴になった経験が、より僕の心を堅くさせていた。
 犯されていただけなら、まだ言えていたかもしれない。僕の場合、ゲイだというのもついてくる。そこは黙っていれば、と思っても、ストレートと思われて話を進めるのはつらい。ゲイだと告白した途端、同情的だった人が立ち止まるのは目に見えている。僕は性虐待と同性愛を言い分けることができない。それが僕の語彙が稚拙なせいなのか、同じことであるせいなのかも分からない。
 誰にも言えなかった。どう言えばいいのか分からなかった。どんなに自分を猜疑しても、僕はあのことを楽しかったとは思えない。ゲイだという理由で、虐待を快楽だったと倒錯されるのは耐えがたい。みんな僕の心を定義する。今までずっと、出逢う人出逢う人、その狐疑を打ち壊してくれることはなかった。
 弓弦は、外で出逢ったどの人とも違う。高級品に囲まれた上品な令息より、弓弦のほうが紳士だ。上辺でなく、心に紳士だ。断りなく人の聖域に上がりこんだり、まして踏み荒らしたりもしない。他者には不信感しかなかった僕も、弓弦なら信じられる。
 僕が弓弦に揺れ、期待するのもしょうがないのだろうか。僕はそんな人に特別あつかいされている。プライベートな部屋に住まわせてもらい、気遣ってもらい、救いあげてもらっている。弓弦に許容されている。有頂天のまま、もしかしたら、と思ってしまうのもどうしようもないのだろうか。
 男は嫌だ。なのに、弓弦に心が震える。そのときから、僕は弓弦に超越的な信用を寄せていたのだ。そして思っていた。弓弦なら、僕の名状しがたい苦痛を分かってくれるのではないか。
 弓弦に告白してどうなるものではない、困惑させるだけだ。そう思って口をつぐんでいた。果たしてそうだろうか。弓弦は僕を受け止め、消化してくれるかもしれない。
 夕べ弓弦は、確かにそうした。僕が何に苦しんでいるかも知らないのに、ぶれた心をなだらかにしてくれた。弓弦なら吐き出せば何か報われるかもしれない。何がどう報われるか分からなくても、鬱の理由や街に来た動機は知ってもらえる。弓弦も僕の事情にまったく興味がないことはないだろう。僕のことを知り、なぐさめる糧にしたいと考えているかもしれない。だとしたら、僕はじゅうぶん報われる。
 終日そのことを熟考し、気づくと夜になっていた。僕は本を棚に戻し、カーテンを閉めた。弓弦が作ってくれたごはんを食べるのは嬉しい。食器を洗うと軽くシャワーを浴び、またカウチでぼうっとした。二十三時頃にベッドにもぐりこみ、なおも続く告白の遅疑の中、いつしか眠りについていた。

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