抱える傷
月見うどんを持って帰ってきた弓弦は、「テーブル買おうかな」とカウチの前の空間を見やりながら僕の隣に腰かけた。確かにここにテーブルがあれば便利そうだ。「俺は脚乗せそうだな」と同じ月見うどんの弓弦は咲い、僕もちょっと咲う。
僕も弓弦も、しばし会話は置いて食事に没頭した。半分ほど食したところで、弓弦に声をかける。「ん」と返事した弓弦は、黄身の絡まったうどんを箸に絡めている。
「弓弦って、あんまり人のこと詮索しないね」
「え。まあ、自分が詮索されたらムカつくし、相手をやな気分に追いこむほど好奇心強くないし。何で?」
「ん、迷惑かけたのに、弓弦、昨日の夢のこと訊かないなあと」
弓弦は僕を見る。ついでうどんを飲みこみ、「訊いていいことと悪いことの区別はつくよ」と泳ぐ卵白を箸で遊ぶ。
「あと、『迷惑』って。俺、そんな態度してるか」
「してない、けど。普通、迷惑がらない?」
「普通は普通。俺は俺」
僕は咲い、素直にうなずく。
「紗月こそ、迷惑じゃなかった?」
「僕? ぜんぜん」
「そっか。一緒にベッド入ったのはやりすぎだったかなって。男同士で何やってんだかな」
「でも、弓弦は」
「うん、だから、俺は平気。紗月は違うもんな」
僕はうつむき、うどんをすする。あのことを告白すると、必然ゲイだというのも告白しなくてはならなくなる。というか、そこがもっとも僕の口を堅くさせる要因で、弓弦ならその名状しがたい違いを分かってくれる気がした。
そこはそれとして、僕がゲイだと知ったら、弓弦は個人的にはどう出てくるだろう。迫ってきたりしてこないだろうか。そこまで短絡的ではないか。ゲイだという以前に、それにかこつけて男に犯されていたのをきっと重視してくれる。
「あの夢、いろんなのがぐちゃぐちゃしてたんだ」
「うん」
「弓弦にここを追い出されるのとかあった」
弓弦は眉を寄せ、「んなのしないよ」と即座に否定する。僕はまた少し咲う。
「夢の中の俺は性格悪かったのか」
「ううん。弓弦にされたらどうしようって僕がひとりで思ってること実行してた。だから、余計リアルで怖くて」
「そっ、か。しないよ。紗月のこと好きだし」
「うん。あと、外でのことも、絡まってた」
言いながら、弓弦を見つめた。弓弦も僕を見つめ返した。深呼吸して、言おう、とうつわを脚におろした。
「そんな、何にも分かんないころからってわけじゃないんだ」
「うん」
「十一、のときからかな。僕が男が嫌いなの、世間に合わせた偏見じゃないんだ。そのことのせいで」
「……うん」
「ずっと、同じ人だったわけじゃなくても──」
どう言えばいいのか、また迷う。簡単な言葉は持っている。でも口にするのは苦しい。
弓弦は急かさず、ただ見守っている。僕は息を吐いた。
「男に、ね」
「うん」
「無理やり、……されてたんだ」
「………、」
「無理やり、迫られて──おもちゃみたいに……」
浮かんだ弓弦のひそみが、もろもろの悪い意味でなく、心配や不安なのは見取れる。僕は台詞を継ぎ足そうとしたけど、発した言葉が絶対的で、ほかの言い方が見つからなかった。緘唇してうつむくと、弓弦のため息が聞こえる。
「ごめん」
「え」
「俺、ほんとは、そうかなって思うときあったんだ」
弓弦に顔を上げる。弓弦はカウチに沈み、正面に目を泳がせる。
「昔、男に犯されて男を避けてる女がいてさ。紗月はときどきそいつに似てた。極端に避けるんじゃなくて、怯えるって言うのかな」
「……そ、う」
うなだれる。そうだ。弓弦はこんな街で暮らしていて、良くも悪くも開けている。僕と似た状況におちいった人なんて、たくさん見てきたに違いない。
「紗月のことがありきたりっていうんじゃないんだ。でも、悪いけど、俺はそんなんで動揺しない」
「ん……」
「紗月が、っていうのはショックだけど」
弓弦を向く。弓弦はうつむいていて、長い前髪の影に表情は窺えない。
「そういうのが存在してることには驚かないよ。驚けないんだ。そんな奴いっぱい見てきたし。事実には何とも思わなくても、紗月がそれをされてたってなると、精神的なものはある。紗月が泣くのは、俺もつらいから」
僕は弓弦の横顔を見つめる。
前髪の奥で、弓弦の表情には影が落ちていた。弓弦の顔立ちは、影が射すと息を飲みそうに端麗だ。ときめく余裕はないけれど、その美の凄絶さで弓弦の心の愁いは測れる。今の弓弦は、すごく綺麗だ。
「そうかな、って思っても、確信はなかったよ。考えすぎっていうのが強かったし。信じたくもなかった。レイプとはまたちょっと違うんだよな。何というか──」
「……性的、虐待」
弓弦は顔を上げて僕を見た。弱く眉をゆがめると、「ほんとに?」と確かめる。僕はうなずき、弓弦は重い息をついた。
「……変なの」
「え」
「あんま、ショックじゃないや」
「………」
「どう思えばいいのか分かんない」
うつわを握る。そちらのほうが、心が通じた。そう、僕だって、自分の体験をどう思えばいいのか分からない。ショックはショックでも、単なるショックではない。朽ちやすい衝撃だけなら、いつまでも心に残存しない。
「質問、していってもいいのか」
僕がこくんとすると、弓弦はつゆが揺れるだけのうつわを床に置く。
「家でされてたんではないよな」
「全部、学校」
「家は知らないのか」
「信じてもらえないと思って」
「じゃあ、ずっとひとりで」
「うん」
「誰も、いなかったんだ」
「……うん」
「友達とかも? 外されてたとか? あ、もしかして同級生」
「小学校のときは、担任の先生だった」
「先公」と弓弦は複雑と嫌悪を混ぜる。
「紗月って四月生まれだよな」
「ん、うん」
「じゃ、十一って小五か。五年から六年になるのって、クラス替えなかったような」
「なかった」
「じゃあ、卒業まで」
「うん」
「学校でされてたのか。自宅に連れこまれてた?」
「学校だけ。その人、結婚してたし」
「は?」
「子供もいるって」
「そう、か。まあ、そんなことやる自体でおかしいのか。学校ではばれなかったのか」
「うん──あのね、そこって公立の小学校だったんだけど」
「ん、私立じゃないのか」
「小学校に上がる頃は、そんなにお金持ちじゃなかったんだ。僕が小学校のあいだにおとうさんがいっぱい出世して、成金っていうのかな。中学から私立に行った。親に言われたし、小学校のみんなと顔合わせたくなくて」
「やっぱ同級生も」
「ううん。僕、先生に写真取られてたんだ。先生がその写真を落として、それ、僕の顔は写ってなくても名札は写ってて。下級生の子が拾って、僕の教室に届けにきたんだ」
「……普通届けるか」
「低学年で分からなかったんだと思う。僕、クラスで浮いてたわけじゃないんだ。同じ班になれば話すし、つかず離れずで。そのときも、何人かクラスメイトが集まってきて、写真、見られて」
弓弦は案じた目をする。僕はやや自虐的に咲った。
「いっぱい、笑われたよ。何で写真を撮られたかっていうのは、誰も考えなかった。僕が自分で撮ったと思ったのかもしれない。そういうのが好きなのかって、下着までおろされそうになったりした。あっちはふざけただけでも、だからって僕は笑えなかったし。みんなとそのまま公立の中学に上がって、揶揄われつづけるのが怖かった。ほんとは私立は行きたくなかった。でも、そういうことされるぐらいなら、いっそ先生のことも断ち切るために、ぜんぜん新しいところに行くのもいいかなって」
「けっこう、前向きだな」
「え、そう、かな」
「そういうのされたら、流されるままになりそう」
「それは──まあ、親に流された面はあるけど」
「そうか」と弓弦は頬杖をつく。僕は自分の心が冷静を保っていることに、ちょっとびっくりした。
「さっき、『ずっと同じ人ではない』って」
「うん」
「中学で、また」
「……もう、何にもないと思ってたのにね。中学一年生のあいだの相手は、生徒会長だった」
「生徒会長」と弓弦は渋くつぶやき、その怪訝そうな口調に「何?」と訊くと、「ごめん」と弓弦は首をかたむける。
「それって、えらいのか。いや俺、生徒会長とか、そういう感覚知らなくて」
そういえば、弓弦はろくに学校に行っていないのだった。
「あの学校ではね。選挙で決まった人だし、みんなに信頼されてた」
「信頼されてる奴がなあ」
「弱み握られてたんだ。逆らったらそれをばらすって、いろんなことさせられた。でも、そのうちばれちゃって、誘えばすぐさせるとかみんなに言われてた。三学期には学校休みがちになった。家にいて、親にいっぱい理由訊かれたけど、黙ってたよ。信じてくれるわけなかったし、みんなと同じ解釈をされて軽蔑されるのも嫌だった」
「できれば理解されたかったのか。好きでいてほしかったとか?」
「ううん。嫌な人にそんなの言われるのは、もっと嫌だったから。部屋に閉じこもって、引きこもりみたいになってた。ごはんとかは食べにいってたよ。部屋では、いろいろ、自分を切ったりしてた」
「切る」
「カッター、とか、カミソリ──」
弓弦はぱっと軆を起こし、半袖を着ている僕の腕を取った。見たのは手首だ。「そっち」と問われ、「手首は切ってない」と僕は言う。
「腕とか」
「腕」
弓弦は僕の肌に目をこらし、「あー」と声をもらす。
「ほんとだ。何やってんだよ。腕切って意味あるのか」
「ないけど。あと、でも、一番多かったのは──」
弓弦は僕を見る。僕は口ごもった。弓弦は心あたりがあるらしく、息をつく。
「使えるのか」
「ん、……うん」
「あー、もう。いるんだよなあ。自殺未遂ってわけじゃないんだな」
「う、ん。どっちかといえば、生きていくために」
「何がどう生きていくためなんだよ」
「………、もう、セックスとかしたくないし。切っちゃえば、変な感触なくなるかなとか。消えないんだよ。嫌なもの削って吐き出せば、楽になるかなって」
息をついた弓弦は、煙草を取り出し、僕に断って火をつける。 「ここでもしたのか」と尋ねられ、僕はかぶりを振る。
「弓弦がいるし」
「迷惑とか?」
「ううん。向こうでは誰もいなかったんだ。変なやり方でも、自分ひとりで処理しなきゃいけなかった。そうしなきゃ苦しかった」
弓弦は視線を下げる。「こっちでは弓弦がいてくれる」と言うと弓弦はうなずき、「ごめん」と僕の髪を撫でた。僕は首を振り、しばらく弓弦の慰撫に昂ぶりかけた気持ちを鎮める。
「部屋にいて、生徒会長にされるのは減った。そして、あの人は三年生だったんで、卒業すれば大丈夫だって思ってた」
「そういや、前にミキさんのとこの前で泣いたことあったな。学校の人と遭ったって、まさか」
「あれは、同級生。あの人がいなくなれば平気だって、二年生になったら学校行ったんだ。男が好きだって有名になってたって言ったよね。あれが、同級生の頭で変になってて」
「変」
「その学校、男子校だったんだけど。僕は同級生がそんな考え持ってるなんて知らなくて、二年生になったら学校に行って、三日目ぐらいで裏庭に連れていかれた。北側で寒くて、土はどろどろで、いっぱいされたあと、そのまま放っていかれた」
弓弦はつかめない視線を床に流している。きちんと聞くのがつらいのも、でもきちんと聞いているのも分かる。
「強姦みたいなときもあった。男が好きなんだろ、だから悦べよってみんな笑ってる。泣くと感じてるって言われるから泣けなかった。苦しいとか恥ずかしいとかより、怖くて。ゴールデンウィークはさんで学校行けなくなって、一週間は駅前でぼうっとしてた。そしたら親が学校行けってうるさくて、学校行きたくないし、未来に明るいものなかったし、もう死んじゃおうって」
弓弦は黙っている。何か言いたそうに肩は揺れたけど、ここは僕に勝手に吐き出させている。
「でも、自殺の勇気がなくて。つらいくせに、いざとなると真っ白になるのも怖いんだ。いっぱい考えた。手首切るとか、首吊るとか。でも僕、死ぬぐらい切るのは痛いし、息が苦しいのは怖いし。殺してもらうしかないって、それでこの街に来たんだ」
弓弦は僕に顔を上げる。僕も見返し、少しだけ微笑む。
「で、弓弦に逢えた」
「……うん」
「弓弦に逢えて、楽になれてる。弓弦に逢っただけでそうなって、そんなに苦しくなかったみたいだけど、弓弦の存在が大きいってことなんだ」
弓弦は決まり悪そうにうつむき、僕も愧色する。「大したことしてないけど」と弓弦はおもはゆそうに遠慮する。
「ま、そんなのでも紗月の役に立ってるなら、よかった」
「うん」
「ここに来たあとは何にもないんだな」
「うん」
「同級生に遭ったときは、大丈夫だったのか」
「振りはらってきた。あのときも、弓弦が相手してくれて引きずらずにすんだんだよね」
「そうだったな」と咲って弓弦は煙を吹き、「あのさ」とふと弓弦は僕に真顔を向ける。
「ひとつ、訊きたいんだ。さっきの話でも引っかかったんだけど」
「うん」
「何で、男が好きだろって言われて、否定しなかったんだ」
「えっ」
「俺には嫌いだって言えてたじゃん。そいつらには、言っても信じてもらえないと思ったとか」
僕は口ごもり、伏目にうつむいた。
【第三十章へ】
