虚貝-30

想いの名前

 ここだ、と思った。そう、ここがこの心を誰かに話そうと思えなかった素因だ。弓弦なら、と思った。弓弦なら、僕にも引けない微妙な境界線を引けるのではないかと。それで、今こうしてしゃべっているけど──。
 弓弦は黙りこんだ僕に懸念し、「悪いこと訊いた?」と謝る。
「ううん。あの、ね」
「うん」
「僕、言ったでしょ。傷ついてるかどうか分からないって」
「え。ああ、メシ作る前の」
「あれ、意味分かる?」
 弓弦は眉をゆがめ、「あんまり」と言った。
「あれ、そのままなんだ。僕、自分が傷ついてるか分かんないんだよ」
「傷ついてんじゃん」
「みんなのほうが正しかったのかって思う」
「は?」
「ほんとは、自分では分かんないとこでは嬉しかったかも……でもね、自分でも分かんないけど、弓弦は分かってくれるかなって。このこと言ったら、みんな僕を決めつけるよ。僕があのことで傷つくわけないって」
「傷つかない奴いるかよ」
「でも、決めつけるんだ。男が好きなんだろって、そうじゃないって、言えないんだもん」
「言えないって」
「そう言うのもプライドが傷つくんだ。嘘だから」
「嘘?」
「……僕、そうなんだよ。みんなの言う通りなんだ。僕は、男が好きなんだ」
 弓弦は端正な顔をぎょっと崩し、綺麗な瞳を開いて僕を見た。さすがに、これは予想していなかったらしい。
 僕は頬を真っ赤にしてうつむいた。言ってしまった。誰にも言えなかった僕の傷を殺める鍵を。男にあんなことをされていたくせに、男が好きだ。
「男が、……って」
 茫然とする弓弦の口調に、顔を上げられない。
「マジで」
「……うん」
「………、そう、か」
 僕は泣きそうになった目をぎゅっとつぶり、「変でしょ」と嗤う。
「おかしいよね。そんなのされてたくせに。そうだよね。いいよ、変に思って普通なんだ。僕、傷ついてないよ。嬉しかったんだ。だってホモだもん。男に抱かれて嫌なわけないよ。僕──」
「ちょっと待て、そんな見方は置いといてだな。紗月自身はどうなんだよ」
「僕自身」
「紗月は──何だ、嬉しかったのか」
「分かんない」
「分かんないことないだろ。男にされてラッキーとか思ったのか」
「思わなかった、けど、本音では思ったかも」
「本音ってなあ」
「自分でも分かんないとこでは嬉しかったかもしれない」
「そいつらに抱かれて感じたか」
「………、たまに」
「それをどう思った?」
「感じたんだよ」
「感じたのはどうでもいい。どうせ自分で処理したりもしなかったんだろ。溜まってると、男はどうなるか分かんねえんだよ。犬に舐められて感じる奴もいるかもしれない。もちろん反応しない奴もいるけど、感じる奴が変ってことはない。人間も動物なんだ。感じたのは、とりあえず気にするな。感じてどう思ったかだ。そこは人間としての問題だから」
「人間──」
「動物は感じたら感じたで終わり。人間は違う。感じてどう思ったか、あるだろ。嬉しかったか。もっと欲しくなった?」
「欲しくないよっ。そんなん、嫌だったよ。気持ち悪かった。さっさと離れて、できれば自分のもしぼんでほしかったし。でもたまにいっちゃったりして、だから僕、自分のがプライドないみたいで嫌になって、切り落としたくなったんだもん」
「切羽つまったそれが本音じゃなかったら、何が本音なんだよ」
 僕は弓弦と見つめあう。弓弦は真剣だ。切羽つまったそれが本音じゃなかったら──。「でも」と僕は泣きそうになる。
「傷ついてるふりかも」
「ふり」
「そんなのされたら傷つくに決まってるのに、僕、ほんとは悦んでるかもしれなくて、そんなの嫌だもん」
「嫌って想う時点で、傷ついてるんじゃないのか」
「保身かも」
「何の」
「……自分に」
「自分?」
「あんなのされてて嬉しいなんて、恥ずかしいよ。で、傷ついてますって言ってるみたいに切ったりしたのかも」
「何で恥ずかしいんだよ」
「恥ずかしいよっ。何であんな苦しいこと悦ばなきゃいけな──」
 あふれた言葉に、はたと口ごもった。塩味がする。泣いているのに初めて気がついた。
 ため息をついた弓弦は、煙草を灰皿につぶし、覗きこんで僕の涙を指でぬぐう。
「苦しいんじゃん」
 弓弦を見つめる。もう、うなずくしかなかった。自分でそう言った。何だ、と思った。僕は苦しかったのか。きちんとそう思っていたのか。ほろほろとする僕の涙を指先に持て余した弓弦は、カウチを立ち上がる。
「ま、紗月が思いこむのも仕方ないよな」
 弓弦はベッドスタンドのティッシュを持ってくる。
「言われてたら、暗示もかかってくるだろうし。紗月が分かんないのも分かるよ。無理して俺の言うこと信じなくてもいい。人の言うこと信じるなんて、そいつらにされたことと同じだしな。紗月が自分で自分の声聞かないと」
「……うん」
「俺は紗月はずたずただと思うよ。信じなくても、憶えてはおくように」
「僕が悦んでたって思わないの」
「苦しかったんだろ」
「僕の言うこと信じるの」
「紗月がそう言ってんのに、ほかに何を信じるんだよ」
 弓弦はティッシュで綺麗にした僕の頬を、「よし」と軽く撫でた。
 ほっとした。よかった。やっぱり弓弦は分かってくれた。むしろ、僕のほうが説得されてしまった。
「なあ、紗月」
「ん」
「お節介焼いていい?」
「えっ」
「俺は紗月みたいなことで苦しんだことないし、えらそうに意見言う資格はあんまりないと思う。それでも、今の話で思ったことはあるし」
「……うん」
「もし、紗月が吐き出しただけで満足だったなら」
「ううん。聞かせて。聞きたい」
 弓弦は微笑むと、丸めたティッシュをカウチのかたわらのゴミ箱に捨て、ティッシュボックスはうつわの隣に置いた。僕は鼻をすすって目をこする。弓弦は何秒か考えたあと、「俺だってそうなんだけど」と切り出す。
「何で昂ぶるかって、自分では決められないと思うんだ」
「たか、ぶる」
「女のあとで男を試してどっちでもよかったって、俺は自分で欲望を決めたみたいでも、違うんだぜ。試してダメだったっていうのもあったと思う。俺は生まれつきバイなんだ。ストレートも、多いだけで選べない生まれつきだろ。もちろんゲイも生まれつき。俺、ゲイと寝たの何回もあるけど、ほとんどみんな気づくと男が好きだったって言うぜ」
「違う人もいるの」
「そりゃあな。ゲイはぜんぶ生まれつきって決めつけんのは、ホモは趣味だって決めつけんのと変わんないよ。ほんとに趣味で転身する奴も、ホモとヘテロをころころ入れ替える奴も、その相手だけにゲイになるって奴もいる。何かの傷とかで、後天的にずれる場合もある」
「僕、ずれないよ」
「ずれないから傷ついてないとは言いません。だいたいは変えられるもんじゃないよ。ストレートがゲイになれないみたいに」
 ストレートがゲイになれないみたいに。そう言われると、納得してしまうのが情けない。
「自分がゲイってのを責めることはないよ。『男が嫌い』っていうの、けっこう本音だろ」
「……うん」
「感情的には理屈で片づけにくいとこもあるよな。それでも、罪悪感を覚えることはないと思う。言い方簡単すぎても、事実だけ見れば、偶然なんだし」
「偶然」
「そういうことされて、好きでゲイを選んだんじゃないだろ」
 僕はうなずく。当然だ。選べるものならストレートを選んでいた。「じゃあ、それとゲイとは関係ないじゃん」と弓弦は両断する。
「どっちも男同士で結びつけちまうのは分かるけど、違うよ。同性愛は恋愛のセックスで、そういうのは侵害のレイプじゃん。セックスとレイプ、やってること同じでもぜんぜん違うだろ」
「……うん」
「男に惹かれるのは、責めなくていいと思う。生まれつきって言ったよな。紗月の中で先にあったのは、ゲイって性質なんだ。それなら、そのことからゲイが派生したっていうのはありえないし、ゲイだからそんなのが起こったってわけでもないし」
「生徒会長は、僕がゲイだって知ってしてきたんだよ」
「じゃ、なおさらレイプじゃん」
「な、何で」
「あえて相互を踏みにじってることになるだろ」
 あっさり言われ、まばたいてしまう。透徹としなかった同性愛と性虐待の境界線が見えてくる。「知ってたんだな」と弓弦は口調を苦くして、僕はこくんとした。
「弱みって言ったよね。それのこと。三学期に休みがちになれたのも、逆らえばばらすって言われたって、僕がゲイなの有名になってたし」
「そっか。それで、ゲイってのも嫌悪しちまうのか。それは、ゲイってのを利用されなきゃ、なかったんだもんな」
「……うん」
「つっても、紗月はつけこまれただけで悪くはないよ。ゲイじゃなきゃつけこまれなかったって思うのは間違ってる。向こうがつけこもうと思わなきゃよかったんだ」
 考えて、うなずく。それもそうだ。僕はただ、ゲイだっただけなのだ。
「同性間の性的虐待ってややこしいよな。男と女に置き換えたら分かりやすいか。紗月はそういうことされて、男に惹かれるのが苦しいんだよな」
「うん」
「じゃあ、女が男にそういうことされて、男に惹かれることに苦しむと思う?」
「え」
「嫌悪はあると思うよ。ただ、男に惹かれる本能そのものを、おかしいとか間違ってるとか感じると思う?」
 男に性的虐待をされた女が、変態とか、狂ってるとか──僕は自分が男に惹かれるのをそう感じる。女が男に惹かれるのだったら──ない、気がする。
「思わないと思うぜ。女に走る奴が皆無とは言えなくても、大半は。生理的な嫌悪で、男を受けられないのが苦しくはあるだろうな。欲望が湧くのは変、とは思うかも。それが男に向かうのは変、とは思わないんじゃないか」
 僕は視線を空に置き、そうだなあ、と同感する。もし僕が女なら、男に惹かれることにこうも悩みはしなかった。
 僕こそ同性愛は変態だという認識に囚われていた。いつだか来夢さんにホモフォーグの話をされたが、やはり僕はあれの一種なのかもしれない。男同士なんか穢れている。汚い。そんなの好きじゃない。男なんかに惹かれたら、僕は──
「肯定する、って思った」
「え」
「そんなのされてたのに男に惹かれたら、あれが嬉しかったって認めてるみたいって」
 弓弦は僕を眺め、「上辺しか見ない奴はそう思うだろうな」と言う。
「俺は紗月が男と恋愛したら、乗り越えたことになると思う。偏見して肯定って取るバカが多いのは事実だよ。実際には、紗月が男に惹かれるのはそんな低次元な問題じゃない。すごいことだよ。肝心なのは、好きになるのが男ってことじゃなくて、恋愛をするってことなんだ」
 素直にうなずく。そうだ。弓弦の言う通りだ。僕が偏見にまみれ、それに振りまわされ、心の声を聞けなくなっていた。苦しい、痛い、男は好きだけど欲しいのはこんな男じゃない──本当はずっとそう思っていた。
「罪悪感も嫌悪感も感じなくていいんだ。男が好きなのを楽しんで、自信持っていい。バカな奴のために、楽しみ捨てるなんてもったいないよ。いいじゃん、ゲイで。俺、誘惑しようかな」
 僕は少し咲って、弓弦も咲う。「こういうのに笑えるようになるのから始めればいいんだ」と弓弦は言い、僕はこっくりとする。
「ありがと」
「え」
「話してよかった」
「えらそうなのばっか言っちまったけどな。俺、無神経なこと言ってなかった?」
「うん。僕の気持ちには沿ってた」
「よかった。楽しめって言ったけど、全部すっ飛ばしたり埋めたりして、へらへらしてろってことじゃないぜ。悩んで苦しくなっていいと思う。忘れてどうにかなるもんでもないし、逃げずにいっぱい考えて、ちょっとずつ受け入れていけばいいんだ。考えすぎてつらくなったら、俺がいてやるし。──それで楽になってくれるんだよな」
 うなずくと弓弦は微笑み、僕の頭を撫でる。「相談したりしていい?」と僕は訊く。
「俺で役に立つなら」
「弓弦がいい」
「じゃ、いつでも聞くよ」
「弓弦って、いろんな人にこうやって、話聞いて意見するの?」
「え、しないよ。面倒だし。紗月は特別。何で?」
「何か、慣れてるし」
「そうか? 来夢の相談には乗るか。あいつのほかには、紗月だけ」
 僕はうなずき、秘かな不安を解消する。わがままと分かっていても、やはり、ほかの人と並行されていたら親身に考えてくれているか心配だった。もちろん、来夢さんは例外だ。
 一段落ついたときには、昼下がりが近くなっていた。弓弦はうつわに片づけにいき、僕は吐息とカウチに沈む。弓弦と対話しながらの告白だったせいか、しゃべりすぎたという感覚も薄く、疲れも重くない。いろいろ気遣ってもらったなあ、と感謝する中、改めて弓弦の話を想う。
 弓弦は、僕のゲイとしての誇りを回復させた。傷を立ち直れとはいっさい言わなかった。まずは、立ち直れる可能性を含む恋愛を勧めてくれた。
 あのことと僕がゲイであることに、関連性はなかった。男同士という共通点はあれど、性虐待と同性愛は別物だ。男に惹かれても、何も悪くない。傷に溺れて楽しいことを捨ててしまうなんて、弓弦の言う通りもったいない。本能に耳を澄まして、ゲイとして恋愛するのが勝って強くなることなら、僕はこの性質に自信を持ってもいい。
 食器を洗った弓弦は、僕の隣に戻ってくる。「まだ話したいことないか」と問われ、「一気に話すのも疲れそうだし」と僕は答える。弓弦は僕の心を重んじてくれて、そのあとは気楽な雑談をした。来夢さんや仕事のこと、夕べ行った向こう側の街のことも話してもらった。僕はそれを穏やかに聴き、恋愛かあ、と心で息をつく。
 僕はずっと弓弦への自分への気持ちを不可解がっていた。不可解がろうとしていた。どきどきしたり、はにかんだり、とっくに分かっていたはずなのだ。今こうしてささやかに心がほどけて、わざと紛糾させていた弓弦への想いも、同様に昇華している。
 否定していても仕方がない。男に惹かれるのを拒むこともない。誰かに一歩踏み出してみるのこそ、一段上の傷の肯定──許容だ。
 そう、僕は男が好きだ。
 弓弦が、好きだ。

第三十一章へ

error: