重なる影【2】
「僕の相手が男なのは分かります、よね」
「女だったら、女怖がるだろうしね。それを話して、弓弦への気持ちに目覚めたんだ」
「はい。僕、そういうことされてて、ゲイっていうのにすごく自信がなかったんです。あんなことしてきた男に何で惹かれるんだろって。弓弦がその考えをほどいて、男を好きでいいんだって教えてくれました。そういうふうに僕のこと分かってくれる弓弦への気持ちもあって、そうなんだって」
「そっか」と来夢さんは納得し、「でも」と僕は続ける。
「何か、分からなくて。僕、誰か好きになったの初めてですし。それが弓弦っていうのも」
「え。弓弦、嫌?」
「嫌ではなくても、むずかしそうじゃないですか。弓弦は、つきあう人のふるいが厳しいですし」
「紗月くんは認められてるよ」
「それが恋愛か友達か、分からないんです」
来夢さんは何か言いたそうにしたものの、口をつぐむ。唸って一考し、「まあ」と寄せた眉を解く。
「あいつに惹かれたら、厄介は厄介だな。けど、それはそのへんの奴の話だよ」
「そのへん」
「俺は、紗月くんには脈があると思う。紗月くんが好きだって告白すれば、弓弦は応えると思うよ」
……そう、だろうか。正直、そんな気もしなくはないけれど、「分かんないです」と言ってしまう。「確かめようって告白しないの」と返され、無鉄砲な積極性に僕はどきりとする。
「こ、怖い、です。振られたら」
「あいつ、紗月くんが動かない限り、あのまんまだと思うよ」
「……何とも想ってないってことじゃ」
「違うよ。紗月くん、男が怖くなってるとこあるんだろ。紗月くんには『立ち直れ』みたいなこと言っただろうけど、あいつは自分には、紗月くんを踏み躙っちゃいけないとか言い聞かせるに決まってるんだ。あいつはたぶん、自分からは紗月くんに迫れない」
僕は膝の上で指を絡ます。来夢さんが弓弦を語り、口をはさめるわけがない。来夢さんほど、弓弦を理解する人はいない。
「弓弦はそういう奴だよ。俺はあいつほどまじめで古風な人間は知らない。弓弦は大切なもののためには、捨て身で自分を犠牲にするんだ。だから、いろんな奴と安易につきあえない。注文多くてわがままみたいだけど、違うんだ。あいつは、好きな奴とぐらい腹割っておきたいんだよ。紗月くんに欲望があったって、それが紗月くんを苦しめるものなら、あいつは何も気取らせない」
睫毛の角度を下げ、弓弦はそういう人だ、とは思った。ああ見えて、弓弦はすごく繊細だ。弓弦も誰かに寄りかかって甘えたいだろうに、それをこちらに感知させず、あっけらかんとしている。
「弓弦と寝たいと思う?」
「え」と僕は来夢さんに顔を上げる。
「弓弦と」
「………。寝たい、というか。誰にも取られたくはないです」
「取られたくない」
「失くしたくないです。そうするために寝るのが必要なら、寝てもいいです」
「寝てもいい」
「……寝たい、です」
来夢さんは笑って、「少し変わった欲望でね」と理解したことはつけくわえる。そう、僕は少し変わった欲望で弓弦と寝たい。弓弦の軆が欲しいというより、弓弦のそばにいる資格を得たくて寝たい。
「来夢さんは」
「ん」と僕を観察していた来夢さんは瞳を覚ます。
「その女の人と、寝たんですか」
「まあ、ね。出逢って半年後だった」
「来夢さんは我慢してたんですか」
「別に。あいつがしたくなきゃ、俺もしなくていいやとか思ってた。俺自身、一番最初にセックスが来るのは怖かったしね。俺、弓弦に逢う前は人間不信だったんだ。みんな怖くて、軆に触られただけで震えてた時期もある」
僕は来夢さんを見つめる。来夢さんは咲い、「性的なことされたんではないよ」と言う。
「こいつとなら寝てもいいなって思ったのは、俺が先だった。でも、彼女はそうじゃないの分かってたし。俺以外の男は怖がるって言ったじゃん。彼女には俺しかいなかったんだ。俺にまで迫られたら、彼女は行くとこ失くしちまうわけで、追いこんでまで欲望に走りたくなかった。我慢してたんじゃなくて、そうしたかったんだ。俺でもそう思えたんだし、弓弦はもっと賢く紗月くんとつきあうよ。俺も弓弦も、相手を壊したくないんだ。踏み躙りたくないって、それで頭がいっぱいで、受け入れたいって伝えてくれないと踏み出せない。俺だって、彼女がいいって言うまで彼女に触れなかった。いいって言われても、ほんとにいいのかって疑って小突かれたし」
来夢さんは痛く咲い、記憶を蘇生させたかと僕が謝ると、首を振る。
「もし弓弦にそういう気持ちがあるなら、伝えなきゃダメだよ。あいつはたぶん、それ以上紗月くんを傷つけたくないとか思ってる」
そう、なのだろうか。僕さえ踏み出せば、弓弦は受け止めてくれるのだろうか。でも、肝心なところで、弓弦が僕と性愛関係を築けるかが分からない。寝たいと言われたことはあるが、寝た先で弓弦がどうなるか。それを言うと、来夢さんは首をかたむける。
「弓弦って、誰かにいてほしくてたらしてるんですよね」
「え。あ、知ってるんだ。あいつが言ったの」
「まあ」
「ふうん。恥ずかしいって秘密にしてるのに。それが」
「もし僕と寝て、弓弦がいてほしい人じゃないって思ったら」
来夢さんは僕を見る。僕も来夢さんを見る。「それはなあ」と来夢さんは頬杖をつく。
「どうだろ」
「分かんないですよ」
「あいつ、紗月くんに出逢って以来、たらしてないんだよ」
「えっ」
「もう誰とも寝てない。宿でも弓弦が出入りしなくなったって有名になってる。それでうわさの恋人は本物だって、信憑性になっててさ。弓弦も紗月くんを恋人って言われて否定しない。あいつは、嫌だったら否定するよ。俺との関係もそうだろ。恋人じゃない、親友だって」
まごついてしまう。そうなのか。知らなかった。依然たらしていると思っていた。考えれば、弓弦がそれらしきにおいをさせて帰ってきたことは一度もない。
「紗月くんが意思表示すれば、そのあとは弓弦が責任取ると思う」
「そう、でしょうか」
「うん。ま、考えたきゃ考えるのもいいかな。弓弦と知り合って、二ヵ月も経ってないんだっけ」
「はい」
「いろいろ、すぐには信じられないよな。弓弦は直感の男なんで、見極めが早いんだよ。でもそのへんを相手に強要するのは無茶だって承知してるんで、あいつは待ってる。俺のことも待ってくれたし、紗月くんのことも待つよ。で、待っててもらったら、想われてんだって自信もついてくるし」
「そう、ですね」
「今すぐ信じていいと俺は思うけど。紗月くんの気持ちだもんな。恋愛感情認めただけで、すごい進歩じゃん」
僕はうなずく。嬉しい褒め言葉だった。僕もそう思う。恋愛感情を認められたのでも、僕には大きな進歩だ。
来夢さんと笑みを交わし、この人もけっこう好きだよなあ、と思っていたとき、玄関で物音がした。僕は振り返り、「隣にいたら怖そう」と来夢さんは立ち上がる。来夢さんがカウチの後ろにまわったとき、もちろんやってきたのは弓弦だった。「あ」と来夢さんのすがたに声をあげ、いつもの笑みになる。
「何だ。ここにいたのか」
「今来たんだ。シャワー浴びたけど」
「っそ。今日、お前の縄張り行ったんだぜ」
「え、わざわざ。初会」
「仕事ではない」
「じゃあ何で」
「失礼な。俺がお前に会うのに理由があってどうする」
来夢さんは臆面したあと、「うん」と嬉しそうにちょっと咲う。
「最近会ってなかったじゃん」
「三日前に会ったような」
「っさいなー。三日でも俺は気にしてたんだよ」
足元の食器を持ちあげていた僕は、思わず笑ってしまう。けっこう、弓弦も来夢さんとしばらく会わないと不安になるらしい。やってきた弓弦は僕と瞳が合うと柔らかく笑み、「ただいま」と言う。
「今、朝飯?」
「うん。食器洗うし、来夢さんと話してて」
弓弦は来夢さんを見、来夢さんも弓弦にそうする。来夢さんは決まり悪そうにこちらを一瞥をした。僕は笑みを噛むと、カウチを立ち上がってキッチンに退散する。
「何?」
食器を置いたシンクに、たまご焼きを作るのに使ったフライパンも持ってくる。向こうでの話し声が聞こえる。
「何って」
「紗月と何か通じてただろ」
「嫉妬ですか」
はたく音がする。弓弦が来夢さんを、だろう。
「ちょっと話してただけだよ」
「話」
「んー、だから、お前としばらく会ってないって、俺も紗月くんに愚痴ったとこだったんだよ」
「へえ。寂しかったか」
「ふん」
「いいなあ。俺、お前に執着されるの大好き」
「紗月くんにより?」
弓弦の返事が詰まる。僕も勝手にどぎまぎしつつ、少ない食器に柑橘が香る泡をつける。
「より、と言い方は適切ではないと思う」
「はいはい。紗月くんは紗月くんな」
「うん──」
こちらを気にする空気がただよう。ここと向こうは、位置は近くてもお互い様子は窺えない。
「紗月とはわりと話せてるんだな」
「まあ。お前がいてっていうのが強くても」
「客相手とかとは違うだろ」
「だな」
「いやはや。あー、複雑かも。俺を置いていくなよ」
「紗月くんに俺がいてどうすんだよ」
「お前おもしろいし」
「褒めてんのか」
「俺はおもしろくない奴とはいたくないぜ」
笑い声がして、「けど」とそれは来夢さんの声に続く。
「今はそれぐらい言われて落ち着くかも」
「ん、そうか。何で」
「お前の気持ちが分かるし。俺があいつと知り合った頃の」
とっさに弓弦の返事が来ない。それに来夢さんが笑いが重なる。
「何?」
「あ、いや。まあ、そんなだったかな。別にあいつに敵愾心はなかったぜ」
「俺も紗月くんに敵愾心はない」
「俺よりあいつにかたむくかなーとは思った」
「俺もそう思ってる」
「失敬な」
「そっちこそ」
ふたりは愉しげにげらげらして、仲いいなあ、と僕は所感する。フライパンまで終わって水を出した。スポンジを置いて手を洗って、障る水音にふたりの会話は聞き取れなくなる。自然と僕の思考は、来夢さんにした相談へと移っていく。
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