虚貝-33

つながる心

 弓弦が好きだと分かって、それを弓弦にどう伝えればいいか。どう、は答えてもらえなかったものの、伝えたらどうなるかは考えてくれた。弓弦は受け入れてくれる。あれが心にもない気休めだとは思わない。来夢さんに僕を気休める義理はない。あれは弓弦の親友としての意見だ。僕が踏み出せば、僕と弓弦は恋愛関係になれる。
 弓弦は僕を尊重する。これは真実だ。僕は男に性交渉を強要されてきた。僕にとって弓弦は男以前に弓弦で、それでここまでの許容できた。しかし、弓弦は自分を特別だと思うタイプではない。僕に対して欲望があろうと、押し隠すに違いない。
 こちらが踏み出すほか、術はないのか。でも万が一が怖いし、とうじうじしていると、ベッドがきしむ。来夢さんが寝ようとしていた。湿った髪に備えてかタオルをまくらに敷き、冷風のそそぐ真下でふとんにもぐりこむ。やっぱり身を守るようにうつぶせに丸くなっていた。
 食器を片づけ、リビング兼寝室を覗くと、弓弦はカウチで煙草を吸っていた。僕に気づくと笑んできて、僕は弓弦のそばに行き、今日もミキさんとこ行けないなあ、と寝起きの提案を撤回する。
「寝なくていいの?」と訊くと、「寝なきゃな」と弓弦は返した。でも煙草を吸ってぼんやりして、僕はその隣に座る。弓弦は僕と顔を見交わすと、複雑そうに笑んだ。
「何?」
「いや──」
 弓弦は来夢さんを一顧する。仕事柄で疲労も人並みではないのか、もう寝息を立て肩を上下させている。来夢さんは不眠症であるみたいなことを弓弦は語っていたけど、ここだと安眠できるようだ。
「あいつ、俺を気遣ってんのかな」
「え」
「聞こえただろ。あいつがどうとかって話。来夢の女のことだけど──俺、ダメなんだよ。あいつにその話出されるの」
 弓弦は煙をふかしてカウチに沈む。「つらいんだよな」と弓弦は苦しげなような物憂げなような眉をする。
「一番つらいのはあいつでも、俺だってあいつがあのことでぐちゃぐちゃになってんの知ってるし。なのに、気にしてないみたいに話されたって、こっちのが困っちまう」
「……うん」
「あいつにしたら、何でもないことみたいに話して、マシにしようって思ってんだろうけど。だから俺も、そんな明るく話すなとか言えないし」
 弓弦は半眼になって煙草を燻らす。僕が何とも言えずにいると、「ごめん」と弓弦は咲う。
「紗月にはわけ分かんないよな」
「………、来夢さんがそのことと向きあえるのって、弓弦にそうするときだけなのかもしれないよ」
 弓弦は視線を泳がせ、「うん」と息をつく。「弓弦には重たい?」と訊くと、弓弦は首を振る。
「そうだな。俺があいつにしてやれんのって、そのぐらいだもんな。嫌だってわけじゃないんだぜ。ただ、ほんとにどうしたらいいのか分かんない。で、こっちのが泣きたくなっちまう。情けないや」
 想いに力が届かない自省に、弓弦の来夢さんへの深い友情が感じられる。「いいな」と言うと、「え」と弓弦はまばたいた。
「弓弦に大事にされるの。弓弦が味方にいたら、怖いものなくなりそう」
 弓弦は僕を見る。僕ははにかんでうつむく。弓弦はしばし黙ると、「紗月も大切だよ」と言う。
「いつも紗月のほうについてたいし。見えない、かな」
「ううん。弓弦はそばにいてくれる」
 僕たちは視線を重ねる。弓弦は煙草をつぶすと「紗月がそんなことされたのも、ほんとに、個人的にはつらい」と僕の髪を撫でる。
「言っただろ、性的虐待には冷めてても紗月がされてたのはショックだって。紗月にそんなことした奴──手えまわしたっていいんだぜ」
 それは、と躊躇ったものの、乗ってもいい悪感情はある。が、万一失敗したり露顕したりして、弓弦と引き裂かれるほうが怖い。「弓弦が守ってくれればいいよ」と感情にはひかえめに言うと、「守るよ」と弓弦はきっぱり約束した。
「誰にもそんなことさせない」
「うん」
「ぐちゃぐちゃにされたぶん、ここで甘えて安心しろよ。紗月にはその権利があるんだ」
 僕がこくんとすると、弓弦は微笑んだ。想いを自覚して以来、無闇にどきどきするのは減った。代わりに芯が痺れるようにほてって、生まれて初めての甘美な感覚にいささかそわつく。
「あとさ」
「うん?」
「手出しできないのもつらいかな」
「え」
「紗月をベッドに誘えない」
 悪戯に咲った弓弦が、本気か冗談かは測りかねた。「誘いたい?」と訊くと、弓弦は笑う。
「嘘。ていうか、紗月が嫌だろ。紗月が嫌なら俺も嫌なんだ」
 来夢さんの話がよみがえる。来夢さんも恋人をそうして尊重していた。彼女がしたくないのなら自分もしなくていい、我慢じゃない、そうしたかったと。やっぱり、弓弦は僕を──
「弓弦」
「ん」
「来夢さんに聞いたんだけど」
「うん」
「たらしやめたって、ほんと?」
「え」と弓弦はまじろいだ。ついで狼狽えた顔になり、目を床にそらす。僕は弓弦を窺った。「まあ」と弓弦は曖昧に答える。
「僕に逢って、やめたって」
 眉をひそめた弓弦は、「あいつ……」と来夢さんを一瞥してつぶやく。
「いいの?」
「いい、って」
「僕が弓弦によりかかりすぎてるせい?」
「まさか。俺が自分でやめたんだ。たらしてるヒマがあったら、……紗月といたくて」
「弓弦、誰かにいてほしいんでしょ」
 弓弦は顔をうつむけた。前髪で表情が窺えなくなった。僕は弓弦の隠顕とする横顔を凝視する。「紗月がいれば」と弓弦は目を上げた。
「もう、いいんだ」
「え」
「紗月がいれば、ほかの奴はいい」
「でも」
「紗月がいい」
 僕がいればいい。ほかの人はいい。僕が──いい。内含される意味に心が震える。これは、思い切ってうぬぼれていいのだろうか。思い上がってはいけないと思っていた。弓弦が捜している人が僕だなんて、そんなのは、低すぎる確率だと──
 弓弦は含羞に視線を外し、ぼうっとしていた僕はそれで覚醒した。「寝ていい?」と問われ、僕は無意識にうなずく。僕が立ちのくと弓弦はカウチに横たわり、僕はまくらもとの床に座る。弓弦は僕を見つめ直すと、「ごめんな」と憂色して言った。
「え。あ、床」
「いや、紗月がいいとかさ。気にしなくていいよ」
「あ……、」
「ほんとに、紗月がいればいいんだ。美しい意味じゃなくて、俺のほうが紗月に怖がられるようになるのが嫌だし」
 僕は睫毛の力を抜き、弓弦に視線を落とした。来夢さんがよぎる。同じだ。来夢さんが恋人にしたように、弓弦も喜んで自分を殺し、僕の居場所を守ろうとしている。来夢さんは女の人を大切に想っている。弓弦は──
「紗月にどこかに行かれちまうよりは、」
 弓弦の手を取った。弓弦はどきりとしたように口をつぐんだ。僕は手中におさめきれない弓弦の手を包み、弓弦のとまどった目を受ける。
 どう言えばいいのか分からなかった。うまい言葉がなかった。だから行動した。
 弓弦の手を握りしめて身をかがめると、ほんとに軽く、風がすりぬけただけのような感触を弓弦の唇に伝えた。
 弓弦の驚きが空気を揺らした。手の中の弓弦の指が弱くほどける。僕がそっと唇をちぎると、至近距離で瞳が触れあった。
「紗月……」
 僕は身を起こした。頬が紅潮していた。
「何で……」
「弓弦、だから」
「俺──」
「男は怖いよ。でも、弓弦は好き」
 弓弦は目を開いた。僕は恥ずかしさに伏目になり、弓弦の手を離そうとした。すると、弓弦は僕の手を強く握りしめる。
「紗月──ほんと?」
 おもはゆさに弓弦と目を合わせられないながら、こくんとする。
「怖くないのか」
「うん」
「………、好きって」
 弓弦は僕の指に指を絡ませ、軽く引き寄せた。上体を起こした弓弦に、僕は素直に従う。従う、なんてすごく怖いことだったのに、弓弦なら怖くなかった。弓弦は僕の頬に壊れものにそうするように触れると、同じ、羽根がかするような口づけをする。
「こういうことしてもいい、好き?」
「……うん」
「ほんとに」
「うん」
「無理してない?」
「してない」
「嫌なのに従わなくていいんだぜ」
「ずっと前から好きだった」
「紗月──」
「弓弦がこないだ男が好きでもいいって教えてくれて、そうなんだって分かった」
 弓弦の瞳があやふやになった。一気に喜びたいような、自信のなさで不安がるような、そんな瞳に僕は囚われる。
「弓弦だから、好きになれたんだ」
 弓弦はさらに身を起こすと、僕を抱きしめた。僕は自然に弓弦の肩に頬を当てる。「嬉しい」と泣きたいようなため息と弓弦の声がして、僕は弓弦の服をつかむ。
「俺も、ずっと紗月が好きだった」
「うん」
「ずっと……、俺のそばにいてほしいって思った。ずっと、これまで、軆で判断してきたのにな。軆のこと知らなくても、どんどん紗月がでかくなっていった。どうしたらいいのか、分からなかった。今までみたいに試したいけど、それ以上に紗月を傷つけたくなかった。俺の都合で泣かせたくなかった。大事にしたくて、だから、本気で好きだと思った」
「うん」
「ほかの奴がもういらないってこともよく分かった。俺がそばにいてほしいのは、紗月なんだって。だから……俺のそばに、いてくれる?」
「いるよ」
「紗月……」
「いさせて」
 弓弦は僕を抱きすくめた。けれど感情に走りすぎはせず、僕の温柔を味わうとすぐ解放する。手は握って、弓弦は照れ咲うとカウチに横たわり直した。僕もはにかんで咲い、床に力を抜く。
「えっと──その、今日は、どうしてんの」
「今日は、弓弦が帰ってきたんで、ここにいるよ。何で?」
「いや、何か、いてほしかったから」
 僕は含笑し、「いるよ」という。弓弦はうなずき、「ほんとはさ」と天井に目を向ける。
「いてくれてるかなって、いつも不安だったんだ。帰ってきて紗月がミキさんとこに行ってるときだったりすると、落ち着かなくて。知らないあいだに、大切なもの失くすのは嫌なんだ。失くしたことがある。失くしそうになったこともある」
「ここにいるよ。僕だって弓弦がいなきゃ困るもん。僕もいろいろやっていかなきゃいけないし、一緒に怖くないようになろう。ね」
 弓弦は僕を見つめると、その目を切なそうに細め、小さくうなずいた。僕は微笑み、弓弦の手を包みなおす。弓弦は「俺が寝るまでこうしてて」と甘えてくる。僕が首肯すると、弓弦は笑んでカウチの沈み具合を良くする。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
 弓弦は僕の返事に瞳をやすらがせると、まぶたでそれを守った。睡眠を邪魔しない程度に、僕は弓弦の手を包む。やがて弓弦が眠っても、じっとその寝顔に瞳をそそいでいた。
 何というか──弓弦の恋人になれた、のだろうか。決定的なのに、運びが自然すぎて実感が湧かない。ものすごい歓喜より、くつろげる安堵が強い。でも、燃えあがる情熱より、じっくり永続きしそうなのは確かだ。あんまり激しいと、冷めたときの落差が危険だ。のちのち、この感じが大切なものだと分かってくるだろう。
 弓弦の額に前髪がかかっている。それを梳いてあげながら、さっきの弓弦の言葉を想う。
 知らないあいだに大切なものを失くすのは嫌だ。失くしたことがある。失くしそうになったこともある。
 僕は今まで、弓弦には来夢さんしかいなかったと思っていた。違うのだろうか。もしかして、別にも大切な──恐らく物ではなく──人がいて、弓弦はその人を失ったことがあるのか。
 どんな人だろう、と弓弦に背を向け、カウチにもたれる。男か女か。弓弦にとってどういう人だったのか。もしかして恋人──
 僕は弓弦を一瞥する。弓弦は、その人を失った。何でだろう。
 視線を正面にやる。まだまだ僕は、弓弦を知らない。ただ、すごく弓弦は苦しんでいる。弓弦の心が心配だ。
 今度は僕が、弓弦を元気にしてあげたい。弓弦が僕にしてくれたように、僕も弓弦に優しくなりたい。いつか話してくれるかな、と抱えた膝に頬を当て、僕は静かに弓弦の寝息を聴いた。

第三十四章へ

error: