結ばれることができるなら
その後しばらく、僕と弓弦はお互いへの想いを語り合う日を続けた。
僕はひたすら、弓弦は弓弦でも男には変わりないのに、という想いに悩んでいた。ひとつの腐心にぐったり浸かりこんでいた僕とは対照的に、弓弦にはさまざまな葛藤があったらしい。
男を避ける僕に惹かれたらいけないとか、それでも気持ちが勝手に育ったとか──たらしも僕に逢っていきなりやめたのではないそうだ。僕に出逢っていろんな人を抱くのが虚しくなって、応えてもらう期待はせず、ひとりで僕に貞操をくくったのだという。
恋人といううわさに関しては、自分は嬉しくても、僕のために否定すべきかと悩んだとも言っていた。ただ、弓弦には不安があった。僕が恋人を紹介してきたらとか、誰かに言い寄られて流されたらとか──そこで、自分が恋人だとしておき、そもそも誰も僕に近づかないようにしていたらしい。
思い設けもしなかった魂胆に僕がぽかんとすると、「ごめん」と弓弦は恥じ入っていた。でも、そういう小細工も僕は嬉しかった。あとは、世話をするのに気に入ってもらう下心があったとか、部屋に連れてくるのはすごく緊張したとか、何せ僕がまったく感づかなかったことを、弓弦はいろいろ告白してくれた。
そうした告白をされるうち、弓弦とつながった実感も湧いてきた。弓弦に想われている実感は心地よかった。弓弦も同じみたいで、僕に気持ちを伝えられると笑みを噛んでいる。あんがい、弓弦のほうが愛情の受け止め方が子供っぽかった。
向こうではけして感じることのなかったものを、弓弦の隣で感じている。たぶん、幸せというものだ。幸せについて詳しくない僕は、あつかいを誤って壊さないか、心配でもある。けれど、壊そうと思わなければいいのだろう。僕と弓弦のあいだにあるものが、刹那的で脆弱なものではないのは確かだ。大切にすることを忘れなければ、幸せもしなやかであるかもしれない。僕は弓弦の隣にいられるのを信じていて、だから、この幸福も怖くなかった。
僕と弓弦は、精神的なつながりなら問題なかった。想いを認めるのに時間をかけたり、結ばれない覚悟を経験したり、樹立に丹精をかけたので心の疎通の強度なら高かった。ただし、あくまで内的な話だった。強度が外的に及ぶことはなく、肉体的には簡単にいかないのが現状で──それは、僕の傷のためだった。
しかし、僕たちは精神な愛をつらぬくことはしなかった。僕たちが軆を結んだのは、疎通して一週間も経たない日だった。
僕の治療の一歩だった。精神療法も大事だけれど、僕の場合、弓弦のような人を見つけた。弓弦は僕を理解してくれるし、尊重もしてくれる。さらに僕は弓弦であれば怖くないし、行為を試しても嫌悪が薄いだろう。
僕にとっての弓弦は、ごく個人的な精神科医だった。病院の先生ではそんな治療法はもってのほかでも、弓弦は僕の恋人でもある。心理的なカウンセリングに、身体的なリハビリを織り混ぜてみてもいいかもと話し合ったのだ。
来夢さんと恋人の人は、時機が来るまで触れ合わない手段を取った。結果的にふたりは、信頼の確立で半年後に結ばれた。だが、僕の心は待っていても無駄というところに来ている。癒そうと施さない限り、拡大という自我を持った傷に犯される。自然治癒はありえず、僕と弓弦は、来夢さんたちのやり方では永遠に結ばれない可能性があった。
カレンダーは七月に入っていた。深夜で、クーラーはさっき切った。弓弦は明日の昼までヒマだった。
話し合ったこととはいえ、僕はやはり緊張していた。弓弦と知り合って以来、誰にも肌をさらしていない。それがかえって防衛本能が堅くさせて、もうあんなことせずにすむと思ってたのに、と恐怖が心にこびりつく。ベッドの真ん中に座り、しきりに視線を移して身動ぎする僕を、ベッドサイドで濡れた髪を拭く弓弦は見ている。
「紗月」
「えっ。あ──あの、するの」
「いや──。何つうか、嫌なら嫌でいいんだぜ」
「え」
「絶対今日じゃなきゃいけない、ってことはないんだし」
「………、でも」
「やめとくか」
どうとも言えずにうつむくと、弓弦は僕の髪に手を伸ばし、優しく愛撫する。僕の髪は、弓弦の前に浴びたシャワーで半乾きだ。弓弦はベッドに上がると、丁重に僕を抱き寄せる。衣擦れに身を縮め、弓弦の肩に額を当てた。弓弦の匂いを嗅ぐと、心が不思議と柔らかくなる。
「まあ、試しにやってみようぜ」
「……うん」
「嫌だったら嫌って言えばいいんだし。そしたら、すぐやめるよ」
「言える、かな。僕、混乱したら何にも言えなくなる」
「言えるよ。言っていいんだ。俺は紗月をそうした奴らみたいに、聞き入れずに踏み躙ったりない」
弓弦にしがみつく。弓弦は僕の髪をいたわって撫でる。
「怖いんだよな。ずっと聞いてもらえなかったから」
「……うん」
「大丈夫だよ。俺は紗月を犯したいんじゃない。抱きたいんだ。一緒に気持ちよくなりたいだけ」
「気持ちよくなれるか分かんないよ」
「無理に感じることもない。泣いていいし、押しのけてもいいんだぜ。自分を殺すのは絶対するなよ。いきなりセックスに成功しなくても、そいつらにできなかったことをぶちまけてみるのでもいいんだ。今日は、拒否するために寝るってことにしてもいい」
拒否するために寝る。何か変、と思っても、僕の性意識改善の始まりには沿っている。変にされちゃったんだよなあ、と改めて痛感する。
「紗月には、セックスは服従なんだよな。その認識から変えていかなきゃ。紗月の意思も通っていいんだ。嫌なら嫌、もっと欲しければ欲しい。な」
「そしたら、弓弦、ぜんぜん楽しくないよ」
「んなことないって。無理やり攻めて、紗月が傷つくほうが嫌だ。そっちのが楽しくないよ」
「……ほんと?」
「うん。俺は紗月がしたいようにしてやりたい。だから、紗月に素直になってもらうのが一番大切なんだ。押し殺されるほうが困る」
「そっ、か」
「まずは、セックスとレイプの違いをはっきりさせよう。焦らなくていいよ。ゆっくりやろう」
「うん」と僕は弓弦の背中に腕をまわし、ちょっと刻みが早い鼓動を聴く。僕ばかりではない。弓弦だって緊張しているのだ。本当は弓弦こそ、僕をどうあつかうべきか、誰かに相談したいに決まっている。搏動への共感で、僕はさざなみ立つ気持ちを落ち着ける。
セックスはレイプじゃない。それを噛み砕かないと、僕はいつまでも弓弦を真の意味で受け入れられない。弓弦のためだ。僕は弓弦と当たり前の恋人同士になりたい。
弓弦は僕の背中を慰撫している。ボディソープと弓弦の匂いがする。その匂いを嗅いで、弓弦だ、と思った。そう、この人は弓弦だ。それを忘れなければいい。僕は今から弓弦に抱かれる。あの人たちのどれかに犯されるのではない。弓弦に愛される。
そう心を調律すると、僕はそっと密着させた軆を離した。弓弦もこちらの心の切り替えを察する。
「紗月──」
「いいよ」
弓弦は僕を見つめ、途中で苦しくなったら無理はするなという旨を諭す。僕がうなずくと、弓弦は一考したのち、こちらを正視する。
「俺は、紗月が欲しいんだぜ」
「え」
「人形になった紗月は欲しくない」
僕は目を開いた。弓弦の瞳は真剣だ。
「拒否でも許容でも、そんなのはどっちでもいいんだ。ただ、紗月のままでいてくれよな」
弓弦の瞳に瞳を映す。うまく言えないけれど、それはとても重要な言葉だった。僕は人形じゃない。おもちゃじゃない。いつもそう思っていた。それを実行すればいい。僕はこくんとした。
弓弦はタオルを床に捨て、その手を僕の頬に伸ばした。弓弦の指の熱が頬をくすぐる。唇に触れた親指は顎に添えられ、軽く顔を上げさせ──僕は睫毛を伏せた。
ベッドがきしんで、弓弦の気配が強くなる。弓弦の腕に収まり、唇に唇が触れた。胸がどきどきして、微熱がある。唇を合わせるだけの淡い口づけでは、そう何分も持たない。弓弦は僕を少し自分に近づけ、頭をややかたむけさせると、そっと僕の唇に舌を這わせた。
その生温かい感触に、僕はびくっとこわばる。弓弦は唇に隙間を作り、僕を窺う。僕はうなずいた。弓弦は僕の額をさすったあと、もう一度口づける。
僕は弓弦の服を握りしめていた。弓弦は僕の唇に口づけ、でも、こじあけることはしない。口を開けなくてはならない気になって、でも、その感覚が正しいのか分からない。
開けなきゃいけない、というのは間違っている気がする。それは服従だ。じゃあ、どう思えばいいのだろう。普通こういうとき、どう思うのが受容になるのだろう。そんなことも分からない自分に、泣きそうになる。
自分でしろという状況に置かれても、主動なんて知らない。言われるがままの受動しか知らない。どうしよう。どうすればいいのか分からない。僕は弓弦を受け入れたいのに──。
そこで、はたとする。受け入れたい。それはあの人たちに対してなかった感情だ。そう、受け容れたいと感じることが、言葉通り受容ではないか。そっか、とひとまず一理通った僕は、根気よく僕を待っていた弓弦のため、わずかに口を開いた。
すると、口の中に弓弦の口の中が触れる。舌が入ってきて、自分のそれとは何か違う唾液がそそぎ、いつもの煙草の匂いの味がする。その煙草の味のおかげで、相手が弓弦だと認識していられた。
舌が口中にもぐりこむ息苦しさは、軆が覚えている。けれど、怖くなって混乱する前に、煙草の匂いが僕をすくいあげる。弓弦の煙草の匂いもまた、軆が覚えている。受けてばかりも弓弦が疲れるかな、とひかえめに弓弦の口づけに協力すると、弓弦は僕の応えにまた応え、相互になっていく。
そこまではよかったが、弓弦の手が服にかかったとき、僕は喉を硬くさせた。弓弦は唇を離して、服にかけた手もおろし、「きついか」と問うてくる。僕はうつむき、弓弦の味を飲みこんだ。
どうしたらいいだろう。脱がされるのは怖い。弓弦に応えもしたい。考えた僕は、弓弦と軆を離した。
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