手ひどい裂傷
下着も脱がされ、僕は全裸になった。身をひねり、うつぶせに隠れたくなる。跳ねあがった熱に悪寒が走り、隠れたい衝動が恥ずかしさなのか恐ろしさなのかつかめなかった。萎縮した性器に弓弦の視線を感じる。僕は腰をよじった。弓弦は視線をあげ、「あのさ」と声をかけてくる。
「まず、紗月が気持ちよくなったほうがいいと思うんだけど」
「なれない、かも」
「なれなかったらなれなかったで、そこで終わらせればいいよ。進むんだったら、紗月が良くならないと」
「ん、うん」
「触っていい?」
「………、うん」
弓弦は僕を窺ったあと、丁重に腿をつかんで軽く脚を開かせた。僕の唇を噛んだ。息が壊れそうになった。
違う。弓弦はあの人たちとは違う。別に僕のさらしものにしているのではない。弓弦は僕をおもちゃにしたりしない。気を鎮めかけた矢先に性器に何かが触れ、僕の息は引き攣る。
何、と思った。指と分かるのに何秒かかかった。指。他人の指。それだけで怖くなる。
どうしよう。変なことをされたら。いや、僕には屈伏しかない。言うことは聞いてもらえない。決まっているのだ。僕は犬だ。忍従するしかない。
いや、待て。これは弓弦だ。弓弦がおぞましい命令をするわけがない。
弓弦? 本当に弓弦だろうか。弓弦なら、そもそも僕にこんなことをするだろうか。目の前にあるのは、暗い天井だけだ。動くことができない。わずかに頭をもたげ、性器に触れる熱いものの主を確かめることもできない。
熱い? 何で。指じゃない。舌だ。僕は性器を舐められている。
違う。こんなの違う。弓弦じゃない。弓弦はこんなに僕を痛めつけない。痛めつける? 本当に? よく分からないけど、僕にそうしているのが男だという確信はある。僕は男が好きなのではないか。だったら悦べばいい。なのに、どうしてこんな苦しいんだろう。
気持ち悪い。熱いものが性器に絡みつく。僕は男に性器を含まれている。吐きそうだ。耳鳴りに頭がぐらぐらする。自分がどう感じているか分からない。
動けない。細胞が硬直する。人形だ。言いなりだ。何をされても逆らえない。嫌なのに。
嫌だったら拒否すればいいではないか。嬉しいから動けないのではないのか。
違う。怖い。分からない。嫌だ。どうして。助けて。
こめかみに何かがぽろぽろとこぼれおちる。
助けて。嫌だ。気持ち悪い。楽しくない。触らないで。
喉の奥から嫌悪があふれる。こわばった軆が、だんだん震駭を起こしはじめる。
「……いや……」
がくがくと喘ぐ声に、うまく言葉が紡げない。どうしよう。僕ひとりじゃこの人を振りはらえない。誰か助けて。誰か──
「弓弦」
「……え」
「弓弦。助けて。嫌だよ」
「紗月?」
「離れて。離してよ。弓弦、どこ? この人、どこかにやって。お願い。怖いよ。弓弦。助けて弓弦──」
「紗月」
「触らないで。もう嫌だ。嘘じゃないよ。楽しくないもん。お願い信じて……」
「紗月!」
びくんとして、いつのまにかつぶっていた目を開いた。側頭部をつかまれていた。ぼやけた視界に相手が見えなくて、僕はいっそう泣いてしまう。弓弦の名前がうわごとのようにこぼれる。ぼろぼろとあふれる僕の涙を、知らない指が優しくはらった。
「紗月……」
澄んだ視界に、ぽかんとした。そこに飛びこんできたのは、弓弦だった。
一瞬、弓弦が助けにきて、怖い人を追いはらったのかと思った。それが妄想なのは、弓弦の苦しげな瞳で分かった。
現状を思い出した途端、頬が発火した。情けなさと恥ずかしさが頭で爆発する。
「弓弦……」
「ごめん」
「僕、」
「ごめんな。気づいてやらなきゃいけなかったのに」
「弓弦──」
「泣いていいよ。泣けよ」
「ご、ごめん」
「え」
「僕、ごめんね。違うよ。弓弦のこと──」
「いいよ。分かってる。分かってるくせに、気づかなかった俺が悪いんだ。紗月は悪くない」
「でも」
「いいんだ。気にするな」
涙が止まらなかった。今度は情けなかった。弓弦にだけは、こうなりたくなかったのに。いつから弓弦が怖い人に入れ替わったのか。憶えていない。頭がぐちゃぐちゃになっていた。
弓弦は僕と軆を離すと、床の下に手を伸ばした。肌に触れると錯乱させると思ったのだろう、拾われたのはタオルで、弓弦はそれで僕を包んだ上で丁寧に抱き寄せた。
僕は弓弦の胸にしがみつく。弓弦の僕の頭を包みこむように撫で、「じゅうぶんだよ」と言う。
「よくやった。初日でここまでやれたんだ。すごいよ。もういい。紗月が落ち着くまで、俺は紗月にそんな手で触らない」
「弓弦は……」
「俺」
「弓弦、つまんないよ。何にもないよ」
「いいよ。気にすんなって。いきなり最後までしようと思ってたわけじゃないし」
「だけど」
「紗月が気持ちに素直になれるようになればいいんだ。嫌だって思うなら、しない。紗月の意思も通るのを分かっていかなきゃ」
うつむいた。理屈ではそうだった。でも、悔しかった。弓弦に応えらない自分が、受け入れられない自分が哀しかった。
弓弦を受け入れたい。その想いは絶対に無理ではないし、素直な本心だ。それができない。僕は本心を叶えることができない。
あのことのせい、なのだ。そう悟った瞬間、僕は今までの意識以上に、この痛手が手ひどい裂傷であるのを知ってしまう。
「弓弦」
「ん」
「僕、やだよ」
「え」
「苦しいよ。何でこんななのかな」
「こんなって──」
「僕がしたいのは、嫌がることじゃないよ。弓弦を拒否するなんてしたくない。一番したくない。そんなの、僕の意思じゃない。僕がしたいことは、弓弦に応えることなんだ」
「紗月──」
「ほんとだよ。弓弦を受け入れたいんだ。すごくそうしたいのに、どうしてできないの。何であんなことに弓弦と近づくの邪魔されるの。苦しいよ。弓弦に応えたい。弓弦がすごく好きなのに、何でそれよりあんなのが強いの。弓弦が好きなんだ。だから苦しい。弓弦としたい。なのに──」
急に、弓弦は僕を抱きしめた。弓弦の腕にぎゅっとされ、刹那止まったのち、僕はさらに激しく泣き出してしまう。弓弦は黙って僕を受け止めた。落ち着ける慰撫もせず、僕を意のまま哭させる。
僕は喉をひりつかせて大粒の涙を流し、弓弦の胸で泣きじゃくった。傷口からあふれる血のような僕の涙に、弓弦の胸の表面はぬかるんでいく。弓弦は息を埋め、取りつく僕をきつく抱きしめていた。
長いあいだ、そうしていた。弓弦の抱擁にやすんじられたのか、単に疲れて涸れたのか、僕の涙は落ち着いていった。そこでようやく、弓弦は僕の背中をさすりはじめる。腫れたまぶたの重みに半眼になりながら、弓弦の胸に頬を押しつけた。
弓弦の綏撫の手や長い吐息に、やるせなさが伝っている。しゃくりあげるのが、痙攣に似た嗚咽になると、顔を上げた。弓弦は切なそうな苦しそうな、思い余った顔をしていた。僕の視線に気づくと、その表情のまま咲う。
とても痛そうな笑みだった。心配になって抱きつきなおすと、僕は弓弦の胸に顔をこすりつける。
「紗月」
「ん」
「ごめんな」
「えっ」
「俺、ひどいことしたのかな。紗月をそんなに思いつめさせて」
僕は弓弦に顔をあげる。
「別に、紗月にとっとと応えてもらおうとか、そんなんでこんなのしたんじゃないんだ」
「そ、それは分かってるよ。僕が勝手に応えたいって思ったんだ。弓弦に元気になってほしくて」
「元気」
「僕が応えて、弓弦が嬉しくなってくれるなら、いっぱい弓弦に応えたくて。弓弦のためでも、弓弦のせいじゃないよ」
弓弦は僕を見つめ、「紗月がそんなの思ってくれるだけで、嬉しいよ」と泣きそうにする。
「嬉しい。すごく。ありがと」
「弓弦──」
「それで元気になれる。ほんとだよ」
弓弦は僕を抱きしめ、髪に頬をあてた。僕は愁眉して、弓弦の胸におさまる。どう言えばいいのか分からなかった。
元気、とはそういう元気ではなく、内面的なことだ。密かな陰に、光や強さをあげたいということだ。が、何しろ弓弦はそこに触れることをほとんどしないので、こちらとしても切り出しにくい。
「紗月は、俺にはもったいないかな」
「え」
「紗月がそう思ってくれるの嬉しくても、そこまでされる価値、俺にはないよ」
「あ、あるよっ。弓弦のほうが僕にはもったいないよ」
僕たちは視線を合わせる。弓弦の瞳は壊れもののように自信がない。
「俺は、ダメだよ。役立たずなんだ。何か、そうならそうでよかったけど、紗月にもそうなのは悔しいな。あいつ、ここまで見越してたのかな」
「え、あいつ──」
「うん、父親」
どきっと息を詰めた。父親。思わず言葉に迷うと、弓弦はこもった声で咲い、僕と軆を離した。
僕は弓弦を見上げる。弓弦は僕を横たわらせ、隣に仰向けになる。呼吸だけの沈黙があって、「ごめん」と弓弦はつぶやいた。
さっきから、僕たちは謝りあってばかりだ。
「紗月には関係ないよな。気にしなくていいよ」
「………、話したかったら」
「いいよ。それがどうしたって感じだし。気にしてない」
嘘つき、と思った。気にしていなくて、なぜあんな冷えこんだ瞳をするのだろう。あんな瞳は、幸せな人にはできない。
「話したくないの?」
「隠すほどのものでもないよ」
「じゃあ、話してほしい」
「聞いてもしょうがないよ」と弓弦は僕の髪をなだめようとして、僕はその手を振り切って起き上がった。弓弦は僕の急激な行動にたじろぐ。
「話してよ。僕、何にもできないかもしれないけど、苦しいなら吐き出して。弓弦のそういうとこを元気にしてあげたいんだ」
弓弦は僕を見つめた。僕も強く弓弦を見た。しばらくそうしていて、折れない僕に弓弦が先に視線をさげた。
僕は無意識にシーツをつかんでいて、それに気づくと、でしゃばったかな、と気弱がかすめる。弓弦は細いため息をつくと、僕に顔を上げなおした。
「紗月が苦しいのは、男に犯されまくったことより、そんなのされたのに男に惹かれちまうことだろ」
「えっ。う、ん。まあ」
「俺もそういうことなんだ。だから、俺の苦痛を勝手に決めつけないでほしい」
「……決めつけてる、かな」
「まだ話してないじゃん。この話聞いたら、だいたいの奴が、俺の心を決めつけるんだ。気取るわけじゃないけど、俺、ほんとに自分のことはどうでもいいんだ。俺がつらかったのはもっと別のこと」
僕は弓弦に睫毛の俯角を落とす。
「つらかったこと、あるの」
「なかったら、今頃、俺は高校生やってるよ」
「……うん」
「つまんないぜ」
「弓弦の話なら」
弓弦は微笑んだ。そして僕の手を引くと、自分の胸に抱き寄せてささやくように話を始めた。
【第三十七章へ】
