虚貝-38

痛みまで抱く

「俺が今でも思うのはさ」
「ん」
「守りすぎたのかなあってこと」
「えっ」
「俺があんな命懸けで守らなきゃ、かえってあいつ、殺されなかったんじゃないかって」
「………、」
「俺が間違ってたのかな」
 弓弦を見上げた。弓弦は黙りこんで僕の軆を抱きしめていた。しがみつく感じに弱さを、包んでいる感じに強さを感じる。僕は睫毛を緩ませ、優しいな、と思う。自覚していないようだけど、弓弦はすごく優しい。
「妹さん、大事だったんだね」
 弓弦は僕を見、「うん」と憂色する。
「でも、守れなかった」
「守ってるよ」
「死んじまったんだぜ」
「心は守ってる」
「……心」
「死んじゃったからしょうがないや、って忘れられるほうが、妹さん哀しいと思う」
 弓弦は僕の肩に顔を埋め、「そうかな」と不安そうに訊く。僕はうなずいた。
「あとね、弓弦は役立たずじゃないよ」
「え」
「価値、あるよ。僕には弓弦じゃなきゃいけないとこがたくさんある。必要なんだ」
「……ほんと」
「うん。大切な人だよ。あんなだった僕に、人を好きになることを教えてくれて、すごく感謝してる。話してくれてよかった。もっと弓弦を好きになれた」
 弓弦は僕を覗きこんだ。怖くて信じられないような瞳だ。僕はその瞳を直視し、「好きだよ」と繰り返す。
「弓弦が好き。一番好き」
「紗月……」
「ずっとそばにいて」
「……ん。いる。ずっと」
「愛してる」
「俺も紗月のこと愛してる。話してよかった。紗月がいてよかった──」
 僕を擁す腕に強さがこもり、弓弦は僕の唇に唇を重ねた。僕は受け止めてまぶたをおろした。弓弦の味がした。舌を蕩かす口づけに、頭の中がこころよい白光に解放される。
 弓弦はタオルをめくって僕の軆を味わい、僕はそれを受け入れた。弓弦が急ぐように布の介入を取りはらうと、僕たちは遍在する恋人同士と同じくそうしていた。言葉すらなく、高まった想いに満たされるまま、なめらかに溶けあって軆をひとつにしていた。
 弓弦が軆の中に分け入ってきたとき、僕は初めてびっくりした。びっくりしたけど、嫌悪はなかった。弓弦だ、と思うと言いようのない幸福感に満たされた。
 僕は弓弦の首に腕をまわして、弓弦のしっとりした瞳には僕が映る。そこに宿る渺々と凪いだ愛情に、僕の胸はいっぱいになり、瞳からその反映がこぼれおちる。弓弦は一瞬瞳を怯えさせたけれど、雫の温かい意味を察するとほっと微笑んだ。安定した鼓動に近い律動で弓弦は僕を確かめ、僕は昂揚に高まりながら安穏にやすらいでいく。
 弓弦が僕にそそぐ快感は、燃えるというより、ほてりが体内に広がる感じだった。じわりと広がる熱は、指先や耳たぶという軆の端々から蓄積していく。それからだんだん中央へと循環しはじめ、僕は目を閉じて感じたことのない快楽に夢中になった。軆が熱くなるごとに息づきが深くなり、搏動が速くなっていく。
 弓弦は最後まで、僕を揺すぶったり突き刺したりしなかった。絶頂に達しても、するすると冷めていくことはなく、余韻に重みがあった。編みものがほどけるようなほのかな手ごたえの中、絡みあった柔らかな熱は、眠るように体内に鎮まった。
 僕と弓弦は上と下で見つめあった。どう言葉を交わしたらいいのか分からなかった。弓弦が先に動き、言葉の代わりに僕を抱きしめる。僕も弓弦に抱きつき返す。
「すごい」と弓弦は言い、僕はうなずく。
「できたな」
「うん」
「すごいよかった」
「僕も」
「できるじゃん」
「うん」
「よかった──」
 嬉しそうに安堵する弓弦に、僕も嬉しくなった。僕が性を楽しめたことを、そんなに喜んでくれている。そんな弓弦に、僕の心は内界に溶けこむ愛情を感じる。
 けれど、本当だ。できた。違和感も恐怖も嫌悪もなく、ただ気持ちよかった。弓弦が中に来て、満たされたと感じた。汗も息も熱を高めるもので、僕は初めて罪悪感をともなわない射精をした。
 さっきはあんなにダメだったのに、どうしてだろう。弓弦の告白を聞いたからか──いや、あの雰囲気かもしれない。
 きっとそうだ。何の気遣いもなく疾走されるのは怖くても、立ち止まってばかりもダメなのだ。それは立ち止まって窺うもの、気遣うことが僕らのあいだにあると暗示している。
 僕も弓弦も分かっていなかったけど、僕の本能は、その落とし穴にかきむしられていたのだ。
 そんな僕の意見に、「そうだよな」と弓弦も同感した。
「被害者あつかいするのも、被害受けましたって言ってるようなもんだもんな。普通にすればよかったのか。って、普通すぎるのもあれか。ま、お互い欲しいって思いながらしていいんだ」
「弓弦、思ってなかったの」
「さっきは、怖がらせないようにしなきゃってほうが強かった」
「僕も弓弦を受け入れなきゃって、ほかのはなかった」
「それがダメだったんだな」
「あ、でも、弓弦が僕を気遣ってそうしようって言ってくれたのは、分かるよ」
 弓弦は僕を見、はにかんで咲う。やっぱり、自分がいけなかったと思いかけたようだ。
「雰囲気、か。要は紗月は、セックスのタイミングがつかみにくくなってるってことか」
「うん」
「じゃあこれからも、しようっつって、あっさりできるもんでもないんだろうな」
「……ごめん」
「何で謝るんだよ。それが紗月のセックスなんだろ」
「僕の」
「うん。普通にならなくてもいいじゃん。されたことは消せないんだ。だったら、それをひっくるめて、紗月だけのセックスを作ればいい。紗月が楽しくて気持ちいいって思えるような。突っ走って動物になるのだけが、セックスじゃないよ。ゆっくりが紗月に合ってるなら、俺も紗月にそうしてあげたい」
 僕は弓弦を見つめ、こくんとした。
 そうだ。みんなと同じになろうとするからつらいのだ。虐げられた僕の性は、一般的になるのはむずかしくなっている。でも、それは悪いことではない。性的虐待をされた人間として、僕には僕の性がある。焼きつきすぎた後遺症は、どうにもならない。僕の性には残像がどうしてもまといつく。
 そこから肯定していけばいい。その痛みを癒す、心に優しい性が僕には必要で、それはわがままな注文ではない。権利だ。僕の性にはゆとりがいる。僕にはそんな性につきあってくれる恋人もいる。
「気持ちが高まればできるんだよな。それはすごい発見じゃないか」
「そう、かな」
「そうだよ。どうしても乗れない奴もいると思う。乗れることに気づけないとか、乗っても落ちるとか。これから紗月にも、乗れなかったり落ちたりするときがあると思う。でも、最後まで乗れるときだってあるんだ。それを知れたのは、大きいよ」
「うん」と言った僕の髪を撫で、「無理に乗ろうとはしなくていいよ」と弓弦は冷静な言葉もくれる。
「紗月がしたいときにしよう。俺もそういうときにしたい。今、すごく良かったもん。ああなれないときにしても、俺もつまんないよ」
「はは。そっか」
「一緒に気持ちよくなれるときにしよう。な」
 うなずいた僕に弓弦は微笑み、僕たちは改めてお互いを抱きしめあった。
 この人がいてよかった。心からそう思った。この人と出逢っていなかったら、僕はどうなっていたか。弓弦さえいればじゅうぶん満足できる。弓弦がいれば幸せだ。単細胞だけど、そうだ。僕は、弓弦がいれば満たされる。
 僕も弓弦のそういう存在になれたらいい。弓弦だって、与えるばかりでは疲れる欠陥を持っている。いや、きっと僕よりひどい傷口だ。少しずつでも、弓弦のつらいことを埋めていってあげたい。
 すっかり引いた余韻が、心地よい疲労になっていく。弓弦の胸に頬を当てた。冷房もつけずに愛し合い、室内はずいぶん暑くなっている。でも、この室温や匂いを覚えておきたくて、冷やす望みは出さなかった。
 かいた汗が肌を密着させ、弓弦の匂いと愛し合った匂いがする。弓弦への愛情が滔々として、それに調和する弓弦の想いも背中にまわる腕で強く感じられる。僕は揺蕩う睫毛を伏せ、「眠たい」と弓弦の胸に甘えた。すると、弓弦は黙ってベッドスタンドの明かりを消し、僕の背中をさする。
 僕は静かな気持ちで、弓弦を心にそそいだ。匂いや熱や感触、今まで怖くて受けつけなかったものが、弓弦だと素直に流れこんでくる。それらがかたちづくるやすらぎが、ぽっかりした虚ろを癒し、僕の空白に弓弦が満ちていく。
 もう、僕は空っぽでも独りでもない。途方もなかった空虚さが解け、確かに光がこぼれてきている。
 僕は弓弦の愛撫に身を寄せ、揺りかごにおさまるように小さくなった。弓弦に愛情の詰まった言葉をささやかれた気がする。でも、それを受け取る前に僕は眠りこんで、浸透していく幸福感に心をあどけなくしていった。

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