虚貝-39

翌朝に

 汗びっしょりで目覚めた翌朝、弓弦は無邪気な顔で眠っていた。上目で確かめた時刻は十時過ぎで、けっこう寝坊したみたいだ。カーテンの隙間で太陽は昇りきって、クーラーもついていない。
 室内は生温く蒸しているのに、弓弦は僕をはねのけることもせず、抱きしめている。僕も抱擁の腕を逃げるのがもったいなくて、汗に湿った肌を再び重ねると、僕は弓弦のまろやかな寝息と鼓動に耳を澄ます。
 僕も弓弦も、あのまま眠ってしまった。自分が全裸なのはもちろん、弓弦がそうなのも触れる熱っぽい肌で分かる。弓弦の無駄のない胸に頬をあて、したんだなあと思った。
 変な感じだ。じんわり染みこむ達成感もあるし、実感が蒸発してふわふわする感もある。でも、嫌ではない。弓弦にいっぱい愛してもらった。何だかひとりで照れ咲い、僕は弓弦の汗だくの軆に飽きもせず抱きつく。
 弓弦とのセックスはすごくよかった。あの人たちにされたとき、僕は死を見ていた。なのに、弓弦との交わりには僕は生を見た。弓弦との行為には、命が満ちていた。
 セックスで生を感じるなんて、ほとんどない。当たり前だからだ。だいたいの人の性は、生でできている。だが、僕の性は死だった。だが、その微妙な虹彩の歪曲のおかげで、僕は命の光を見ることができる。闇のおかげで光を見分けられる。死んだ性を知っているから、生きた性を感じられる。
 生きた性を感じさせる光がないと、この意義は成り立たない。生きた性を知れないなら、やっぱり死んだ性なんて知らないほうがいい。宝石は持たず、煤けたやすりだけ持っているようなものだ。煤にまみれて性に死を見ると、自分を死体──物あつかいするようになる。
 弓弦と愛し合えてよかった。弓弦と命を知れてよかった。昨夜が本当の僕の“初めて”だ。相手が男だったのも嬉しい。弓弦とつきあって、僕はゲイということにも誇りを持っていけそうだ。
 弓弦の汗にぴったりしていると、不意に頭上でうめき声がした。寝起きに何か抱きしめるのは、弓弦のくせであるらしい。今日も僕はぎゅっとされた。弓弦は抱きしめたあと腕の中を確かめ、僕だと知ると焦って反射的に謝る。僕は咲い、弓弦の背中に腕をまわした。弓弦は僕の行動にばつが悪そうにし、僕を抱きしめ直す。
「えー、と、おはよう、かな」
「うん。おはよう」
「起きてたんだ」
「今ね」
「そっか。大丈夫か。軆とか」
「うん。動くと腰がだるいかな」
「きつかった?」
「ううん。慣れてないからだと思う」
「そ、っか。慣れていかないとな」
「うん」とはにかむ僕に、弓弦も自分の台詞に照れる。何だかいつもと勝手が違う。
「今、何時」
「僕が起きたときは十時過ぎだったよ」
「え、嘘」
 弓弦はベッドスタンドの置き時計を見あげ、「マジかよ」とつぶやく。
「何」
「十二時には着いてないと」
「……あ、そっか」
「ごめん。キャンセルしようか」
「迷惑かかるでしょ」
「………、うん」
「じゃあ、いいよ。帰ってきてくれるよね」
「もちろん。っと、ちょっと待って」
 弓弦は僕と軆を離し、ベッドの下に上体をはみだした。
 湿ったシーツに残った僕は、仕事行くのか、とため息をつく。まあ、すっかり弓弦の稼ぎに依存する僕は、その仕事にわがままをできた義理ではない。
 広い背中に目を向けていると、弓弦がベッドに戻ってきた。どうもあさっていたのはリュックで、手にあるのは携帯電話だ。僕の髪に頬を当てた弓弦は、「たまに一緒の時間長く取りたいよな」と言う。
「え、うん。でも、できないでしょ」
「そんなことないよ。俺、今まではほかの仕事とかぶらない限り、はいはいって受けてただけだし。調整すれば、休みは好きに取れる。まあ、休みすぎると乾上がっちまうんで、ときどきだけど。一緒にいよう」
 こくんとした僕を、弓弦は携帯電話はベッドスタンドに置いて擁する。僕は弓弦の腕を受け入れ、その胸に顔を押しつける。ベッドを出たら、弓弦はシャワーを浴びるだろう。今のうちに、弓弦の汗の匂いやほてりをよく覚えておきたい。僕の髪を指で遊ばせていた弓弦は、「何か、色気ないな」と不意にため息をつく。
「え」
「やっとできた次の朝の会話にしては」
「そ、そうかな」
「どんな話したらいいか分かんなくて……紗月、今まで俺が抱いてきた奴と別だもん。応用きかない」
 弓弦を見上げる。そういえば、弓弦はセックスで相手との親交の合否を測っていた。僕は合格できたのだろうか。訊いてみると、「当たり前じゃん」と弓弦は咲う。
「紗月が寝たあと、紗月をずっと捜してたんだなーと思ってた。すごいよかったし、誰とも違った。あんなセックス初めてだったよ。俺、あんなんできるんだな。知らなかった」
「いつもは違ったの」
「うん。攻めまくるんじゃなくても、わりとリードするというか。紗月とは対等だった」
 そうかな、と思っても、まあそうだろうか。僕は受けていたけど、その受け方は支配されている感じではなかった。
「紗月は、どう」
「ん。うん。よかったよ」
「嫌なの、ないか」
「ぜんぜん。……またしたい」
「ほんと」
「うん。いつかは分かんないけど、また、できると思う」
 弓弦は嬉笑して僕を抱きしめ、軽く口づけてきた。僕は応え、淡く舌が絡む。煙草の匂いが軽く、弓弦の味が澄んでいた。
 満たされるまで唇を味わうと、弓弦はそっと軆を離す。見つめあうのが決まり悪い。「飯食おっか」と弓弦もベッドを起き上がった。
 服を拾い、それを着る弓弦を僕は見つめる。不規則な生活をしているわりに、弓弦の軆は綺麗だ。背中やこめかみには汗が伝って、それはこちらの胸元をざわつかせる。
 弓弦は濡れているのがよく似合う。シャワーを浴びたあとや雨に降られたときも、僕はどきどきしていた。
 この人が僕の恋人なんだよなあ、と嬉しくてまくらに頬を埋めると、ジーンズだけ穿いた弓弦が振り返る。
「何。どうした」
「ん、ううん。何でも」
「そう? 今日は休んでるだろ」
「え」
「軆、休めたほうがよくない?」
「そこまでひどくないよ」
「そうか? んー、まあ今日はここでゆっくりしとけよ。飯作っといてやるし」
 素直にうなずくと弓弦は微笑み、身をかがめて僕のこめかみに唇をつけた。弓弦の長い前髪が額にくすぐったい。弓弦は起き上がって、その前髪を邪魔っ気にかきあげると、クーラーをつけてシャワーを浴びにいった。残された僕は、深い息をついて起きあがる。
 横たわっていると感じなかっただるさが、腰から下肢にかけて疼いた。鈍痛や、圧迫の名残はない。さりげなく弓弦が動きを気遣ってくれたのだろう。だるさも重荷でなく、ただちょっと恥ずかしかった。
 服を着て用を足し、顔を洗ったあとに烏龍茶でひと息ついていると、弓弦が帰ってきた。「シャワー浴びておいで」と口づけと言われ、僕がそうしているあいだ、弓弦は食事を用意してくれた。湿った髪を降りそそぐクーラーにさらし、ベッドで遠足みたいに朝食を食べた。
 食べ終えて食器洗いをした弓弦は、汗が染みたシーツも取り替えた。カウチでおとなしくする僕は、乾したふとんを昼下がりに取りこむのを頼まれて請け合う。
 さまざまな用事を性急に済ますと、弓弦は出かけるまで僕といてくれた。十一時過ぎ、玄関先でじっくり抱きしめあったあと、僕と弓弦はしばしの別れに踏みこんだ。弓弦のいなくなったひんやりした部屋にたたずむと、何とも言えない息をついてしまった。
 僕も弓弦も恋愛初体験なわけで、しばらくは測りしれない相手への想いを持て余し気味だった。加減がつかめず、一緒にいるとくっついて、離れるときは捨て身の想いになる。
 ちょっとその落差に振りまわされた僕たちは、いつか引き裂かれるわけでもないし、とべたべたしまくるのは削ることにした。笑みを絡めたり見つめあったりして、こらえられなくなったときだけ、いっぱいお互いを感じる。それでも別れるときはつらかったけど、多少の耐久力で、死ぬ気になるのは減った。
 そういうふうに、手引きは引かずに、模索で関係を整えるのは楽しかった。
 僕たちの疎通は、来夢さんにもミキさんにも伝わった。僕と弓弦がいずれこうなるのは、みんな逆睹していたと思う。僕たちはひと目ぼれに近いものだったけど、相手の気持ちがつかめなくてやたら逡巡し、傍目にはもどかしいものだった。ミキさんにはいろいろ揶揄われたものの、最後にはまじめな瞳で、「あの子とずっといてやってね」と言われ、僕ははっきりうなずいた。来夢さんも祝福してくれたそうで、「手が早いとか言われた」と弓弦はむくれていた。

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