突然の拉致
翌日も、制服を私服に着替えて街におもむいた。駅前をそれて安全圏を抜け、昨日歩いた繁華街に出る。
昨日に較べ、びくびくせずにすんだ。あの人に会えるかなと思ったものの、会えなかった。男にナンパはされ、ナンパなら自殺願望も何もないので、反射的に弓弦さんの名前を出した。
驚くほど効果があった。馴れ馴れしく僕の腕に触れてきていたその人は、頬を引き攣らせて消えてしまった。その覿面な反応に僕こそ困惑させられたけど、助かったのは助かった。
一日時間をつぶし、帰り道にも三人組にたかられた。ここでも弓弦さんの名前で助かり、助かったあとで、死ねたのにと恥ずかしくなる。ともあれ、弓弦さんの名前の絶大な効果に僕はすっかり納得し、その次の日もさらに次の日も、安心して街で時間をつぶせるようになった。
すごいんだなあと感心する反面、あの人って何なんだろうと疑問もふくらんだ。未成年のようだったが、学校に行っているふうはなかった。陽桜の弓弦と出して、だからどうしたとないがしろにする人もいない。悪さを働く人間なら注意しておかなくはならない人なのだ。ここで育ったのかなあ、と眠る景色を仰ぎ、首をかしげる。
出逢った日以来、僕はあの人に逢っていない。どうしてるかなと思う。助けてもらっているお礼を言いたい。繁華街を進み、陽桜に踏みこんでみようかとも考える。そこなら会えるかもしれない。だけど、娼婦がどうとか言っていたし、ここ以上に危険な場所だろう。偶然鉢合わせて、お礼もそのときに伝えればいいか。結局、僕は繁華街をぶらつくのに留まっていた。
今週は、週末も家を出てこの街に来た。平日より休日は人通りが多めだった。登校拒否をしても引きこもりはせず、いったいどこにいるのだと家では怪しまれている。学校に行かなくなって二週間、この街に通うようになって一週間が過ぎていた。
その一週間で、何かに遭うたび弓弦さんの名前を出す子供として、僕はうわさになったらしかった。シャッターの降りた店の前の花壇に座っていた日の昼下がり、僕は鋭そうな男とたくましい男のふたり組に囲まれた。どちらも二十代の後半ぐらいで、ただのチンピラではないにおいがした。「弓弦さんの名前使いまくってんのお前か」と訊かれてどきっとし、その表情をふたりは肯定と取る。
「お前、ほんとに弓弦さんと知り合いなのか」
とっさに答えられなかった。知り合い、なのだろうか。あんまり自信がない。
「面見せるのはやましいんじゃねえか」
「うわさで聞いた名前、勝手に出してんだろ」
面識なら、ある。なので、かぶりを振った。鋭いほうが眉を上げ、「本当だな」と念を押してくる。僕はうなずく。「知り合いだってんだな」ともう一度訊かれる。知り合い──まあうなずいた。
「じゃあ来い」
腕をつかまれ、続いてもう一方の腕もたくましいほうにつかまれ、狼狽えてふたりを見較べる。
「耳にした名前を悪用する奴が、最近は多いんだよ」
つんのめりそうに引っ張られ、花壇に置き去りにしそうになったデイパックの肩紐を慌ててつかんだ。「知り合いなら、顔合わせてもやましくないだろ」とふたりは嗤う。
「違ってたらどうなるか分かってろよ」
勝ち誇った物笑いに不安になってきた。弓弦さん。忘れられていたらどうしよう。憶えていたとしても、あちらにとってあれは社交辞令で、本気にしたのが僕の独断だったら。冷静になってみると、一巻の終わりになる確率が高い。
どうしよう。いや、違う。僕は死んでよかった。殺してもらえる。死ぬためにここに来た。僕は死にたい。生きていてどうなる? なのに、臆病風が吹き荒れる。結局、命乞いに追いこまれてしまう。
無理やり引っ張られる感じが、何かに似ていた。気がついたものに、いっそう心が混乱した。学校だ。学校で、みんなやあの人に影に連れこまれたときに似ている。逃げられないよう腕をつかまれ、背中を押され、そうして連れこまれたところで僕は決まって──
嫌だ。もう辱められたくない。そうされないためにここに来た。やはり僕は居場所はないのか。死ねばいいのか。それで今、この人たちに殺されそうになっているのか。泣きそうなもろい気持ちは、足取りが引き攣りそうな絶望に蝕まれる。
高層のビルが遍在しはじめ、通りに面したショウウインドウが明るい喫茶店を一階に構えるビルの前を横切る。どこかの倉庫とか行くのかな、と落ちこんだとき、ふたりは僕をその明るい喫茶店に押しこんだ。え、とまごつく僕は、押されるままに〈POOL〉とある自動ドアを抜ける。
居心地のよさそうな喫茶店だった。床は木目調で壁はしっとりした白で、広い店内には四人がけの席とふたりがけの席がパーテーションを駆使して整列している。入口右手に会計があり、その会計を通じてカウンターがあった。スツールは空いていても、テーブルはところどころ埋まっている。
カウンターの中に、椅子に腰かける髪の長い美人がいた。こちらに目を向け、「いらっしゃいませ」と発された声は、艶めかしくも落ち着いている。「弓弦さんは来た?」と鋭いほうに訊かれ、美人は長い睫毛を一度しばたかせた。
「あの子に何かご用かしら」
あの子。何だ。親しげだ。もしかして恋人、と思って真実味に複雑になった。「こいつのことで」と言われると、美人は僕をちらりとし、「知らない子ね」と言った。鋭い人の目がにやりとゆがむ。
「あの子は明け方にごはん食べていったみたい。夕方前には来るんじゃないかしら」
鋭い人は僕を手前の席に押しこんだ。たくましい人は僕の隣に来て、正面に来た鋭い人がウェイトレスにコーヒーをふたつ注文する。
そして、店内の空気を害さない程度に、ふたりは僕をちくちくといじる。あの美人に存在を知られていないと、弓弦さんの知り合いではないことになるらしい。あの美人は何者だというのと、死にきれずに怯える私情と、頼みの綱の弓弦さんに祈りたい想いにぐちゃぐちゃになって、僕はデイパックを抱きしめた。
半分、あきらめていた。きっとおしまいだ。弓弦さんの何を知っている? 僕は死ぬ。これから死ぬ。数時間後にはこんな思索もできなくなっている。助かるわけがない。
ふたりは雑誌を読んで、僕はおののきをこらえて、泣き出しそうになっていた。腕時計は十六時過ぎだった。そろそろ帰っておかないと、帰りに同級生に遭ってしまう。杞憂か。どうせ僕は死ぬんだし。麻痺した感覚で思ったとき、後ろで自動ドアが開いた。
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