虚貝-40

夢うつつ

 七月に入って一週間が過ぎた夜、僕は部屋にひとりだった。ミキさんにもらったお弁当を食べ、シャワーを浴びたり小説を読んだりしていた。
 外食したとき、弓弦に買ってもらった本だ。クラシックが好きだという話もして、そのうちCDショップに行く約束もしている。家事分担の相談も進んでいるけど、現在のヒマつぶしは読書ひとつで、眠くなるまでそれを読み、二十三時過ぎにベッドに入った。
 添い寝が増えたおかげで、シーツやまくらに弓弦の匂いがする。最後に弓弦に会ったのは、今日の寝起きだ。
 七時頃に物音で目覚めると、ベッドサイドに腰かけた弓弦がリュックをあさっていた。僕が目覚めているのに気づくと口づけをくれて、すぐに出ていった。
 平常の仕事なら、夜中か明日の朝に帰ってくるだろう。朝だといいけど、夜中だとひと休みしてまた飛んでいく場合がある。そしたら丸二日会えないなあ、と寂しくなりながら、僕は弓弦の匂いに包まって意識を薄めた。
 沈みこんだ意識が浮上して霞みがかったとき、薄目にさしこんだ室内は真っ暗だった。話し声がして、それが聴覚に引っかかる。
 何、と思っても、軆は動かせない。確かめようとするほどには、意識が覚醒しない。
 眠たかった。だが、熟睡に落ちこむには話し声が障る。僕は夢うつつの状態でその会話を聞いた。聞き取りにくくても、「弓弦が悪いんじゃないよ」というのが聞こえた。
「俺が考えなきゃいいんだ」
「無理だろ」
「考えちまうのは俺なんだからさ、弓弦が申し訳なくなることないよ」
 沈黙があって、ぼそぼそという声の続きは聞き取れなかった。弓弦、とぼうっと思う。低い笑い声がして、「気い使うなよ」とまた声がする。
「俺は、弓弦がどれだけ紗月くんを求めてたか知ってるし」
「……うん」
「捜してたもんな。正直、いつ弓弦がヤケになってやめちまうかって不安だった」
「しねえよ」
「いないかもってときどきへこんでたじゃん」
「まあ──。うん。逢えてよかったと思うよ。どっかではちゃんと信じてたんだぜ。お前にもいたんだし」
「うん」
「……こんなんでいい?」
 笑い声だ。弓弦──と、来夢さん。たぶん。
 意識がはっきりしない。聞こえない会話が続き、「気にしなくていいよ」という言葉が繰り返される。それが聞こえると、糸口をつかんだように話が聞き取れる。
「べたべたしろよ。俺だってそうしてたし」
「そうか?」
「してたよ。あの子ができたって報告したとき、やっとふたりきりになれたとか言ってたじゃん」
「ああ。そうだな、俺は俺なりに孤独を噛みしめてたんだぜ」
「その仕返しと思いなさい」
 短い緘黙ののち、「うん」と心許ない返答がする。静かになって、そうなると、うつらうつらが強くなる。頭の重みがいっぱいになったとき、「俺さ」と弓弦の声がして思わずはっとする。
「その、初めて寝たときに、紗月に自分のこと話したんだ。ガキの頃のこと。紗月は分かってくれたぜ。ただ──情けなくて」
「情けない」
「すっげえよく憶えてるんだよ。忘れてきてると思ってたのに。話しながら、いろんなこと思い出せた。怖かった。何でこんなに憶えてんだって。一生そうなんだろうな」
「……うん」
「もうすぐ六年経つんだ」
「うん」
「気にしないつもりだった。紗月ができて、怖くなってる。嗅ぎつけて、妹と同じことさらしてくるんじゃねえかって。今の俺には、完全犯罪ぐらい楽勝なんだけど」
 はりつめて黙然として、僕は徐々に覚醒にふれる。けれど、しぶとい眠気がその感覚を否定しようともする。
「殺すのか」
「さあ。分かんねえかな。完全犯罪って殺し屋に頼むとかだろうし。俺は、あいつを殺すならこの手で殺したい」
「……そっか」
「お前は」
「俺」
「ほっとける?」
「………、俺は、失くすもん失くしたし。新しいの持つ気もないし」
 弓弦は黙っている。僕は身動ぎしかけたものの、なかば聞いているのを悟られるもまずいかと動かずにいる。
 とはいえ、頭の中が取りとめなくて、聞いている会話は記憶に留められていない。思考回路は休憩に引き抜かれたままだ。シーツに沈んでいると、その安定がまた眠気を強くする。
「根本的には、同じことの延長線なんだよな。つっても、俺の中ではガキの頃とあのことは比重が違うんだ。ガキの頃のは、さんざんありすぎてどれってショックが決まってない。そのぶん考えるとぐったりしても、あのことの、あの日を思い出せば結集してがつんと来るのも──」
 話はつけっぱなしの音楽のようで、耳には流れこんでも、脳に届かず素通りする。声は聴こえても、僕はその言葉をまったく理解していない。
「──ガキの頃はあのことの伏線に感じる。きつかったけど、あのことを思ったら、ああそうって。でも、昔があってあのことがあったんだし、そのショックで忘れるってわけにもいかない。忘れられたらいいのに。つらすぎて全部忘れちまう奴いるじゃん。埋めるんじゃなくて、記憶から削除してさ。それができたらいいのに。忘れちまう奴よりマシってことなのかな」
「忘れられる種類のショックじゃねえんだろ」
 静かになって、それに飲みこまれそうに小さく、「うん」と聞こえる。室内に音が消える。覚醒によりかけた僕の睡眠の針は、静寂に再び熟睡へかたむきはじめる。
「前、紗月くんに言ったんだ。俺の過去はメロドラマみたいなんだよって」
「……聞いた」
「テレビの不幸自慢、楽勝で出演できるぜ」
「バカ」
「俺はそう思うよ。ほんとに、メロドラマだよ。あんな分かりやすい不幸あるかよ。みんな好きだと思うな。それで俺のために泣くんだ」
「俺は泣かない」
「分かってますよ」
 笑い声が重なり、数秒沈黙したあと、実感のこもったつぶやきがする。低い声とふやけた頭に聞きとりにくくも、苦々しい口調が耳についた。
「ドラマティックなんかくそくらえだよ。むごい経験をアンデイティティにするとか、負け惜しみで吐き気がする。俺はあんなのなくてよかった。あんな経験まで愛するほど、俺は個性にがつがつできない」
 沈黙が流れ、代わりに何か言葉以前の会話がする。「お前がいてよかったとは思うよ」と弱い声がして、「うん」と返事が続く。
「紗月くんって、十四歳だよな」
「うん。確か」
「俺、十四の頃って一番幸せだった。今思うと、夢だったみたい。夢だったのかな」
「……夢だったら、俺の仕返しはどうなるんだよ」
 また一瞬しんとして、笑い声がはじけた。「紗月寝てんだぜ」という笑いを含んだ声がして、「うん」という答えも咲っている。抑えられた笑いが落ち着いたところで、「そうだな」と前向きな口調がした。
「ほんと、いっぱい仕返ししろよな」
「うん」
「俺はそうしてくれるのが嬉しいんだ。自分のことは関係ない。弓弦には紗月くんを大切にしてほしい。で、紗月くんと精力溜めて、気合い入れて俺に構ってください」
「はは。紗月ができたって、お前も大事なんだぜ。紗月も分かってくれるだろうし、たまには遊ぼう」
「いいの」
「水臭いですよ。紗月といちゃつくのも好きだけど、お前とふざけるのも好きなんだ。俺はお前のもんでもある。忘れんなよ」
「恥ずかしー」という揶揄に、はたく音がする。でもふたりとも笑っていた。僕の眠気は限界だった。このふたり仲いいなあ、と思い、それ以降は真っ暗になっていた。
 次の目覚めは、睡欲が満ちた自然なものだった。カーテンが持ちこたえられない夏の太陽に、室内の陰りは淡い。身動ぎを抑えるものがなく、弓弦帰ってこなかったのか、と潤びた頭で残念になる。
 寝返りを打ってまくらに伏せったあと、上目遣いで確認した時刻は八時前だった。寝たなあ、とかかるクーラーのだるさにぐずぐずしたあと、シーツに手をついて起床する。
 見まわした室内には、誰もいなかった。夜中に話し声を聞いた気がするけど、あれは何だったのだろう。内容は憶えていなくても、話している音は聞いた。夢かな、と推断しかけたとき、カウチにきしめきがして、びくんとそちらを向く。
 こちらから見る限り、カウチには何もない。あのカウチに横たわれば、僕でも爪先ぐらいはみでる。来夢さんは僕よりは背が高いのだから──
 いや、思い起こせば、来夢さんはいつも軆を丸めて寝る。カウチの上で軆を丸めるのはむずかしそうでも、くせはくせだ。来夢さんかな、とベッドを降り、カウチを覗きにいく。
 果たして、そうだった。うつぶせになって、器用に身を守っている。この部屋では警戒しなくていいのに、身を守るのが習慣なのか──あれ、と憶測がよぎり、慌てて振りはらう。ただでさえ、弓弦が最悪のことに的中してたのに。
 顔を洗ったり着替えたりしても、弓弦は出てこない。朝食を作るついでに玄関を覗くと、靴もなかった。深夜の弓弦と来夢さんの会話が、夢か現実か区別がつかない。来夢さんがいるということは、現実だったのか。
 まあ、現実だったとしても、僕が割りこむことでもないか。そう心をくくると、ただ弓弦が帰ってきたのなら、接触できなかったのが寂しくなった。
 冷蔵庫に残っていたごはんで、インスタントと混ぜあわせてチキンライスを作る。これが、弓弦だとオムライスにしたりするけれど、僕がしてもたまごが破れるのがオチなのでしない。
 皿と烏龍茶を床に置いて座りこみ、今日どうするかを考えて朝食を取る。窓を仰ぐと、今日もすっきりと快晴だ。でも、明け方までいそがしかった場合は、弓弦は昼頃に上がってくることが多い。それに来夢さんもいる。僕と来夢さんが共に過ごしても何もないのだけど、放っていくのは悪い気がする。部屋にいるほうがいいかな、とチキンライスをスプーンですくう。
 食事が終わると食器を洗い、結局、部屋にいた。ベッドに横たわって本を読んだり、景色を眺めて考えごとをしたりする。家はどうなっただろう。学校はどうだろう。そう思っても、もう不安が陰ることはない。そこに戻ることはないのだから。そんな安堵で気力が溜まっていくから、そのうちバイトをして、本とかは自分で買いたい。
 でも今はまだ、この部屋でのんびりしよう──そう思い、窓の向こうの青空を瞳に溶かした。

【第四十一章へ】

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