悪夢のあと【1】
カウチで物音がして、本から顔を上げた。
来夢さんが身を起こす気配はなくも、うめき声が聞こえる。覚醒した、というより、本物の呻呼のような──。
焦っていると、不意にその声は止まる。沈黙があり、やがて舌打ちが聞こえた。寝返りを打ったようにカウチが重くきしみ、やっと色素の薄い髪の来夢さんの頭がもたげられる。
来夢さんは目をこすり、僕はそのこすり方にぬぐいとる感を見てしまう。まごついていると、来夢さんは息をついて部屋を見まわし、僕を見つけるとぎくりとした顔になった。
「え、あ──い、いたの」
「……まあ」
「何だ。ひとりかと思った」
来夢さんはうつむき、具合が悪そうにもう一度目をこする。弱くため息をつき、「聞こえた?」と出し抜けに問うてくる。
「えっ」
「女の名前とか」
「い、いえ」
「そっ、か。はは。ごめん。そういう夢見ちゃって」
「はあ」と何だか僕も気まずい。来夢さんは息をついている。
ぼんやりしているのがいたたまれず、僕はコーヒーを淹れるかを尋ねた。来夢さんは僕を向き、一考したあと、「お願い」と言う。
僕はベッドを降りた。今日もインスタントで、砂糖はふたつ入れる。持っていくと、「ありがと」と来夢さんは受け取った。来夢さんの長い睫毛は湿っている。たたずんでいるのも何なので、ベッドに戻ろうすると、呼び止められた。
「ちょっと、隣にいてくれないかな」
「え」
「ごめん。誰かにいてほしいんだ」
「………、」
「変なことするんじゃないよ。きちんと、今は現在にいるって分かってたくて」
来夢さんを見つめた。「ダメかな」と気弱にされて慌てて首を振る。別に来夢さんを疑ったのでなく、僕でいいのかと思ったのだ。来夢さんの隣に座り、それを確かめると、「弓弦の恋人だし」と返される。恋人、という語の不慣れに僕はやや頬を染める。
「紗月くんのことは好きだよ。時間が流れた象徴だし」
「象徴」
「あの頃、紗月くんはいなかったし、そもそも弓弦に恋人もいなかった。そういう、今と昔の違いって、変になりかけたとき重要」
そんなものか、と思っていると、「弓弦としたんだってね」と来夢さんは言った。どきりとしても、否定はできない。「まあ」と濁り半分で返すと、「早かったね」と来夢さんはカップに口をつける。
「です、ね。弓弦が、うまくしてくれて」
「ふうん。どうだった」
「えっ」
「あいつと」
「………、どう、って、よかった、と思いますよ」
「そっか。相手がいいもんな」
意地悪の質問でなく、こちらを心配しただけの質問だったようだ。来夢さんは恋人の人と半年かかった。まあ、壊れた性の改善はそれぞれだし、来夢さんの言う通り、僕は相手が最高なのもある。恋人の僕が言うとのろけに聞こえても、これは性虐待された人間としての意見だ。
「昨日訊いたけど、弓弦のガキの頃のことも聞いたんだよね」
「え、昨日」
「昨日の夜中、俺、弓弦とここで話してたんだ」
「あ、そうなんですか」
ならば、あれは現実だったのか。「じゃあ、弓弦は」と訊くと、明け方前に出ていったのだそうだ。一時間ぐらい僕の隣で寝ていたらしい。気づかなかった。昨夜の僕は、ずいぶん眠気が深かったようだ。
「で、弓弦の過去聞いたんだよね」
「あ、はい。弓弦にしたら、ざっと話しただけなんでしょうけど」
「それでもすごいな」
「すごい」
「弓弦は、自分の過去をいちいち語ったりしないんだよ。そんなふうに話したら、つらい過去でしたって感じじゃん」
「つらい、と思いますよ」
「あいつはそう思ってない」
「苦しそうでしたけど」
来夢さんは、僕と顔を合わせた。僕はあの日の弓弦を想う。間違っていない。つらそうだった。瞳の光が消えていた。僕を抱きしめて冷静を保っていた。来夢さんはふと咲い、「愛されてるんだね」と言う。
「あいつ、俺に告白するときはへらへら笑ってたのにな。そんなだから、俺は最初信じられなくて、造り話でバカにされたと思った」
「へらへら」と反復すると、「初めて会ったときに聞かされたんだ」と来夢さんは注釈する。
「俺があまりに暗くしてるんで、自分を引き合いにだして、不幸なのはお前だけじゃないって」
来夢さんはコーヒーを飲み、「きついよな」とつぶやく。
「あいつは、自分のことに傷つく余裕がないんだ。ほんとはあいつ自身もつらかったんじゃないかな。ただ、それより妹を守れなかったほうが強くて、自分に浸ってられない。誰にだってそういう奴なんだ。俺にも紗月くんにも、甘えるより甘やかすというか」
「です、ね」
「かといって、妹のことに傷つくなとも言えないし」
「え、そうですか」
「言える?」
「気にしなくていい、とは言えませんけど、囚われすぎるのも苦しいと思います。僕はそのうち、弓弦に甘えてもらえるようになりたいです」
「ふうん」と来夢さんは頬に笑みを孕み、コーヒーをすする。
「なれるよ」
「そ、そうでしょうか」
「なりたいと思ってるなら。そんなもんだよ」
そう、だろうか。なれるといいな、とは思う。
「弓弦が自分の家をすごくないって言うのも、妹さんに囚われてるからなんでしょうか」
「んー、それはありきたりな話だからって言ってるよ。安っぽいドラマの筋書きだって」
「……安っぽいですか」
「さあ。妹のことはショッキングでも、親に虐待されてたのはどうとも言えないな」
そうなのかなあ、と憂色した息をつきそうになる。僕が世間知らずなだけで、子供に暴力を振るう親は、そんなに蔓延っているのか。複雑になっていると、来夢さんは含み笑う。
「どうとも言えないのは、個人的なことだよ」
「え」
「俺もそうだから」
「は?」
「俺もそうなの。俺も子供の頃、親に虐待されてた」
僕は来夢さんを見た。来夢さんは軽く咲っていた。
親に虐待。来夢さんが。いや、来夢さんも。
どう思えばいいのか分からなかった。何で。本当にそんな家庭はごろごろしているのか。
「えっと……弓弦の家は、おかあさんがいないとか、おとうさんは働いてないとかって」
「あー、俺んとこは普通。父親はサラリーマンで、母親は主婦で家にいた。学校も行ってたよ。ハブにされてたけど。暗かったしね。言わなかったっけ、軆触られただけで震えてたとか」
「あ、はい」
「そういうので、変な奴だって言われてさ。気味悪かったんだと思うよ。笑わないし、しゃべらないし。俺、小学校に上がるまで、ろくにしゃべれなかったんだ。家で聞かされんの、罵倒ばっかだったから」
何かが生々しく、僕は口ごもる。
「幼稚園は行ってなかったし、学校での聞き取りと国語のお勉強で、やっとしゃべれるようになったんだ」
「そう、なんですか。弓弦は、おとうさんにもおかあさんにもそんなのされる理由、分かってましたよね」
「俺は分かんない。今も分かんない。憎まれてたのは確かだよ。特に父親は、難くせつけても俺を殴った」
僕はうつむく。
僕の父親は僕を傷つけたけど、そういうのとは別種だった。どんなに僕が哀しい目をしても、あの人は仕事だった。愛していたのだろうが、僕は愛されている自信がなかった。おかげで僕は家庭にだんだん冷めて、ときどきあの人に父親面されるのが疎ましくなった。
それはパーティ狂の母親にも言える。あの人は家事から僕の世話まで、一貫してメイドさんに任せっきりだった。僕に構うぐらいなら、友達と騒いでいるほうがいいみたいに。
母親はかばってくれなかったのかを問うと、来夢さんはうなずく。
「母親は父親の犬だったな。『あんたなんか生まなきゃよかった』が口癖で、ほんと、何で生んだんだろ。マジで謎」
僕は言葉に詰まる。そんな家庭で育った人がそばにふたりもいて、狼狽せずにいられない。
弓弦が正しいのだろうか。ごろごろしている。僕の両親は、僕を愛してはいたと思う。いや、正確には、憎んではいなかった。僕の家は、あれでものんきだったのか。
「ごめん」と来夢さんはカップにつけていた口を離す。
「くだらないね、こんな話。夢見て、いろいろ思っちゃって」
「あ、いえ。平気です。僕も、ときどきそういうのありますし」
来夢さんは僕にちょっと微笑み、コーヒーを飲む。睫毛が長い来夢さんの横顔には、よくはっとさせられるけれど、特にそうして半眼になると睫毛が強調される。
そうか、とひとまず心を落ち着けた。虐待されていた。来夢さんが身を守るように眠るのも納得がいった。幼い頃は、本当にあれで身を守っていたのだ。
弓弦も親に虐待されていた。妹さんを守るため、と方向性は異なっても、肉親に殴られていたのには変わりない。その弓弦が、来夢さんの体験を、自分が知る限りひどいことだと言った。
虐待だけなら、弓弦はそう形容しないだろう。凶器の種類を数多と知る弓弦は、事実には冷めている。僕にもそうだった。そんな弓弦が想像がつかなかったと認めるのだから、来夢さんの虐待のほかの傷は、そうとうすさまじいのだろうか。
心当たりはある。「あの」と声をかけると、「ん」とコーヒーを飲んでいた来夢さんはカップをおろす。
「もし、来夢さんが思い出したくないならいいんですけど」
「うん」
「絶対に知りたいとかではないんです」
「うん」
「どうして、恋人の人といられなくなったんですか」
来夢さんは僕に横目をした。不快そうなものではなかったが、ぶしつけな質問であるのを自覚する僕はばつが悪くなった。来夢さんは低く咲い、「気にしなくていいよ」という。
「知ってる人も多いし」
「え」
「俺が言い触らしたんじゃないよ。ちょっと派手だったんで。知らないのは、紗月くんみたく、俺が彼女と壊れたあとにこの街に入ってきた奴とか」
「はあ。派手」
「騒がしかったんだ。まあ、たぶん、きついし」
「きつい」
「うん」と来夢さんはコーヒーを飲み干し、「話してもいいけど」とカップを床に置く。テーブルは、弓弦曰くまだいいものが見つからない。
「紗月くんは、ショック受けそう」
「ショック」
「で、紗月くんに変なのが残ったら、弓弦が怖い」
「………、僕から訊いたんですし」
「紗月くんが、あいつにそう言ってくれる?」
「はい」
「よし」と来夢さんは体勢を直すと、「なるべくおもしろくするよ」と整理するように息を吹く。
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