悪夢のあと【2】
「紗月くんは、俺と彼女のこと、どのくらい知ってるんだっけ」
「え、と。引き裂かれたとか。輪姦、とか」
「ああ。そう、俺たち、その輪姦で出逢ったんだよね。彼女が野郎ふたりにまわされてて。助けたんじゃないよ、情けないけど。俺、彼女の悲鳴で自分の子供の頃思い出して、吐きそうになってさ。ミカ──彼女の名前ね、ミカの前で泣いちゃって。それで近づいた。気持ちの確認は早かったよ。俺はそれまで恋愛ってダメだったんだ。ああいう家庭で、愛とか分かんなかったし、最近の恋愛ってまずセックスじゃん。いきなり受け入れられるか分かんなかった。で、ミカも似たもんだったし、心から許し合ってくのが俺たちには向いてたんだ。弓弦にはバカ笑いされたけど」
「弓弦が」
「理解した上でね。当時の弓弦は、今以上に軽かったんだ。紗月くんに逢って、大人になってきたよな」
「はあ。ミカさん、にそんなのをしたのは、何でもない他人だったんですか」
「いや、彼女の幼なじみ。そうだね、彼女すげえショック受けてたよ。兄弟みたくずっと一緒で、信頼する友達でもあって、そんなのがいきなりぶちこんでくるばっかの二対一だよ」
「引き裂かれたってことは、好きで別れたんではないんですよね」
「そうだね。今も好きだし」
「どうやっても会えないんですか」
「会えない。彼女、もういないから」
「いない」
「死んだんだ」
僕はぎょっと来夢さんを見た。来夢さんは冷めた顔をしていた。いや、それは、僕に感情をさらしてもどうしようもないけれど。
「死んだ、から、引き裂かれた、んですか」
「いや、引き裂かれたから死んだんだ。あと、つらかったんだろうな。死んで当たり前だった。俺だって、何で自分が生きてんのか分かんないもん。弓弦がいるからか。ミカには俺にとっての弓弦がいなかったんだ」
僕は無言でいる。死んだ。そうなのか。無意識にそれは除外していた。どこかに生きている、とはなぜか信じていた。
「俺とミカは半年後に結ばれて、そのあとはけっこうやったんだ。いつも生だったよ。何もないわけないじゃん。彼女、妊娠したんだ。俺も彼女も十三になったばっかだった。それで俺は男娼になったんだ。それまで引ったくりとかで生計立ててたけど、子供育てるにはそれじゃ足りないし」
「え、あの、育てる──」
「そう、堕ろさなかった。家があんなだったんで、早く自分のあったかい家庭が欲しかったんだ」
「あ……」
そっか、と大胆な選択の理解は通る。「生まれたんですか」と訊くと、「うん」と来夢さんはまだ影のない表情でうなずく。
「弓弦に用意してもらった部屋でね。俺は仕事行ってたんで、彼女ひとりで生んだ。女の子だったよ。三月八日。それにちなんでサヤって名前つけた。正式じゃなくて、勝手にだけど。かわいかったよ。俺似って言ったら分かるかな」
僕は来夢さんは見、納得しつつも、どんな顔を作ればいいのか分からない。話の先が読めない。生まれたのなら、その子は今どうしているのか。両親は引き裂かれ、ミカさん、すなわちおかあさんは亡くなっている。来夢さんがひとりで育てている様子もない。
「あの子といると、つくづく自分の両親が分かんなかった。何でぶったり踏んだりできたんだろ。俺はあの子にそんなのしようなんて思えなかった。虐待だけじゃない、ほかのいろんな苦痛からも護ってやりたかった。世界中の虐待を失くすことはできないけど、せめてこの子にはあんなの味わわせないようにしようって、思ってたんだ。ほんとに。でも、できなかった」
それは──来夢さんが同じことを繰り返した、ということか。それともミカさんのほうとか。さもなくば誰かが。というか、サヤちゃんは無事ではないのか。
「十四歳になる直前の冬だった。仕事終えて部屋に帰ったら、ミカが泣いててさ。揺りかご買う金がなかったんで、サヤのそれは大きめのバスケットだった。そこにサヤがいないんだ。そのときサヤは九ヵ月で、ひとりで歩きまわれるわけはなかった。『サヤは』って訊いたらミカは震え出して。殴られた痕があった。何だよって思ったら風呂場で音がして、見にいったら俺の父親がいて」
え、と僕のほうが胸騒ぎを覚える。
「何か、いろいろ言われたな。何だっけ。忘れたけど。自分が何も言えなかったのは憶えてる。動けなくて、でも膝はがくがく震えて。父親が下半身に何もつけてないんだ。精液の臭いもした。赤いものもついてた。ミカには何にもない代わりに、バスケットが空だろ。泣きそうになったよ。バスタブに血が流れてるんだ。中を覗きこんだら、サヤが、人形みたいに脚を無茶なかたちに曲げて死んでた」
僕は来夢さんを見た。来夢さんは顔をうつむけ、表情を窺わせなかった。柔らかそうな前髪は揺れているけど、泣いてはいない。いったん抑えつけた息を吐くと、来夢さんは話を続ける。
「そのあとは、よく憶えてない。座りこんで、何も思えなかった。父親に腕つかまれて、何か言われた。それはゴミと捨てればすむ、だっけ。ムカつけばよかったのに、頭は真っ暗だった。父親は俺を引きずっていって、泣いてたミカが俺にしがみついてきた。父親がミカを殴って、それでやっと動けた。彼女をかばって。ぐちゃぐちゃになってるうちに、アパートの住人とか警察が来てた。俺の父親は、今は刑務所。死刑じゃなかった。サヤはどうなったか分からない。俺とミカは精神病院に連れていかれた。ばらばらのとこ。彼女の親がそうさせた」
「親」と僕が小さく言葉を拾うと、来夢さんはうなずく。
「幼なじみにされたって言ったじゃん。ミカの親もそいつらと親しくて、それでミカは親に何も言えなかったんだ。そいつらが近所にいるんで、家にも帰れなかった。つっても、彼女が俺の女なのは有名で、ミカの両親は俺をめちゃくちゃ怨んでた。娘をぼろぼろにしたゴキブリだって。俺は寂れたやばい病院に送られた。話聞いて、親戚もビビっちゃってね。ただずっと、牢屋に閉じこめられてた」
「え、おかあさんは家にいるって──」
「俺が家出したあと、出ていったんだ。いても面倒なんか見なかっただろうしね。あのときの俺は幽霊みたいだった。真っ蒼で、生気がなくて、死ぬのも思いつかないぐらい死んでた。弓弦も面会に来なかった。閉鎖病棟で簡単に面会できなかったし、いそがしかったんだ」
「いそがしい」と首をかたむけると、「今の俺があるのは、全部弓弦のおかげなんだよ」と来夢さんはかすかに咲う。
「俺がそんなになったのは、すぐ弓弦の耳に入った。弓弦がいなかったら、俺は今でも──死ぬまで幽閉されてた。頭やばかったし、どうせ面倒見る人間も出てこなかっただろうし」
「弓弦が、引き受けたとか」
「まさか。脱走させてくれたんだ」
僕はまばたきをする。脱走。閉鎖病棟で、そんなことは首尾よくいくものなのか。
「面会に来なかったのも、それを準備をしてたわけ。俺は牢屋でぼうっとしてた。個室で、逃げないようにドアが頑丈で、自殺しないように窓にも鉄格子がはまった部屋。あの頃のことは、記憶にない。記憶するようなことがなかった。ただ真っ白で、発作的にあの日がよみがえって、真っ白が真っ赤になるだけで。正直、弓弦のことも忘れてた」
弓弦と来夢さんの友情の深みを想うと、その深みすら吹き飛ばす衝撃だったと窺える。
「弓弦の回し者が来たのは突然だった。白衣着てて、鍵開けて入ってきて、始めは病院の奴かと思った。弓弦にまわされた者だって耳打ちされて、あの日以来、初めて反射的に反応したよ。逃げるかどうかは俺の自由だって言われて、そんなんどうでもよかった。弓弦に会えるのか訊いた。外で待ってるって。逃げるとかじゃなくて、弓弦に会いたかった。そいつは、見張りつきの散歩みたいに俺を外に出した。そういうプロだったんだと思うよ。で、何ヵ月ぶりに外に出た。昼間で、すごいまぶしくて、目の前が真っ白になったっけ。夏だった。裏の駐車場にまわされて、植木のそばにあったふくろにあった服に着替えさせられた。で、白い車の助手席に乗りこまされて、隠れなくていいのかとか思ったけど。裏から出るときの管理人がグルだったんだ。だから、普通にさーっと」
さーっと──うまく、いったのか。来夢さんは少し咲う。
「実行するとあっけなかったけど、考えまくったって弓弦は言ってたよ。細かい問題を弓弦は丁寧にほどいていった。病院の仕組みもしきたりも、働く人間の性格も考慮して、最善策を練った。俺のためだけに、でっちあげでクビになった奴もいるんだよ。弱み握られた奴も、金と引き換えに通じた奴も、送りこまれた奴もいる。俺はあとで教えてもらったんだけどね」
弓弦。すごいな、と思った。そういう策略を思いつく頭脳も、実行できる権力も。
「病院は簡単に出れた。また、その病院が山奥でね。山降りても、景色は田舎。弓弦は外で待ってるって言ったのに、いくら走っても弓弦はいない。いつ会えるんだとか、騙されたのかとか思ってたら、車が止まった。今考えれば、ある程度離れなきゃやばかったんだ。遠くに高速道路が見えて、まわりは田んぼで、まだ昼だった。先に黒い車があって、それにもたれて煙草吸ってる奴がいて、俺が車を降りたら、『よお』とか言って。弓弦だった」
その弓弦の雰囲気は、つかめる気がする。きっと、いつもの弓弦なのだ。
「突っ立って動けない俺に、弓弦のほうが煙草捨てて近寄ってきた。俺は何て言ったらいいのか分かんなかった。弓弦も同じだったと思う。でも、あいつ世話好きだからね。いつもどおりにやにやして、『遅くなりまして』って──ずっとダメだったのに、やっと泣けた。あいつはずっと俺を抱きしめて、『よしよし』とかガキあつかいして。でも、あいつがどんな反応しようと関係なかったんだ。今、弓弦といるって、それでよかった」
来夢さんは睫毛を狭め、僕は言葉が翻訳した脳裏の映像に息を詰める。何というか──絶対誰にも真似できない友情だ。空白の瞳に色合いを息づかせた来夢さんは、「それで」と締めくくる口調を使う。
「俺はこの街に帰ってきた。しばらく弓弦の部屋に雲隠れして、今は俺はそこに住んでる。で、弓弦はここに越してきたんだ。ほとぼりが冷めた頃に男娼も再開した。またできるか分かんなかったし、弓弦も別の仕事斡旋しようかって言ってくれた。でも、まずはやってみるってやってたら、そのまま復帰してた。しょせん、天職だからね。で、だんだん今の状態に近づいて、こうなってるんだ」
来夢さんは僕に微笑み、僕のほうがカウチに脱力した。流石の弓弦も予想がつかなかったというのも納得できた。だって、つらいこと、なんて範疇におさまらない。弓弦だけが来夢さんの救いだったのだ。来夢さんに弓弦がいなかったら、と思うと深刻にぞっとする。
【第四十三章へ】
