君の心から欠けたのは
たとえば、弓弦は訊かれなければ僕に過去を話さなかった。弓弦は告白すべきではないと思うどころか、自分には告白すべきことはないと思っている。傷つけた自覚がないのも面倒でも、傷ついている自覚がないのも厄介だ。
弓弦をそろそろ甘えさせてやってほしい。来夢さんはそう言った。僕も弓弦に甘えてほしい。守られることを知ってもらいたい。
僕には弓弦のような包容力はないし、語彙も寸言もないけれど、見つけたい。弓弦はいつも守ってきた。常に自分より人を優先し、自分を殺してきた。
僕はそれとは違わなくてはならない。僕も弓弦を守る。弓弦は生まれて初めて、僕に恋愛感情を持った。弓弦もきっと、どこかでは僕に甘えることを望んでいる。
弓弦は、感情表現が下手なのだ。取り分け、痛みや弱みをさらさない。せいぜい僕に過去を語って瞳を濡らした程度で、弓弦は弱さを表に出さない。僕を信じられないのでなく、弱い面は重いので、負担になりたくないと思っているのだろう。
でも、僕はその負担が欲しい。弓弦の深海にもぐる覚悟はできている。そこがどんなに光を失って暗くても、麻痺しそうに寒くても、どろどろに濁っていても、怖いものがひそんでいても大丈夫だ。それは弓弦が抱えている不安や恐怖なのだから、僕は共に体感する。弓弦が海底に隠匿した何かを見つけるためにも、僕は弓弦を守り、心を無防備に解放してあげたい。
弓弦は自己犠牲が最良だと思っている。でも、僕が欲しいのはナイトではない。僕には、弓弦は弓弦のままで価値がある。弓弦は、自信がないのだろうか。弓弦は自分を役立たずだと言う。弓弦は誰かの役に立っていないと怖いのかもしれない。自分を殺しててでも優しくして、価値を自覚しないと、怖い。
弓弦を支配する影が、幼い頃に形成された基盤であるのは確かだ。弓弦は“告白”を嫌がる。そこに何かの鍵があるに違いない。僕は弓弦に告白させないといけない。
けれど、どうやってそんな運びにするのか、そもそも何を告白させるのかは分からない。幼少期のことはすべて聞いた。弓弦は“それ”を埋めて忘れている。単に記憶をなぞるだけでは、弓弦の深奥は浮上してこないだろう。
弓弦に落ちる影はまさしく黒い影であり、正体不明なのだ。自覚されていない苦痛の素因──困難そうな発掘でも、負けるわけにはいかない。見つけて、告白させ、みずからの口によって弓弦を自覚にいざなってあげよう。
でも、それをどうしたらいいかには頭はまわらず、僕はいささか自分の力不足に憂鬱になる。
以降、僕は沈思するのが増えた。こちらの目論見なんか知らない弓弦は、沈む僕に心配そうに構ってくれる。髪を撫でたり抱きしめたり、そうされながら僕は情けなくなる。弓弦を救ってあげたいと悩み、見つからない出口に落ちこみ、それを弓弦になだめてもらうなんて、あべこべだ。しょせん、僕はそんなうつわなのか。僕には弓弦を助ける力はないのか。自分はこうして守られているのが能なのかと、弓弦の腕の中でタチの悪い自己嫌悪に陥る。
無言で縮む僕に、弓弦は懸念を強める。「何かあったのか」と問われ、ここで提案したらどうかと思う。
弓弦が心配で、もっと甘えてほしくて、弓弦は絶対子供の頃に妹以外の何かにも傷ついていて、それのせいで庇護の強迫観念に駆られていて──
ありのままに言うだけ、弓弦の気に障る気がする。婉曲はいらいらするし、それとなくなんて才智はないし、結局僕は何も言えず、「何でもないよ」と自分から軆を離す。弓弦は僕を見つめ、前髪の奥で瞳に湿り気を敷く。
弓弦の不安を減らすため、ときおり悩みを忘れて弓弦に甘えた。そんなときは弓弦は嬉しそうに僕を受け入れ、かわいがってくれた。何度か情交もしている。一度どうしても波に乗れず、中断に至らせたことがあった。そのとき僕は嫌悪よりも弓弦を想って泣いて、弓弦は僕が落ち着くまで言葉のみでなだめてくれた。落ち着いて、やっと肌を触れ合わせ、自分も弓弦をこうやって包んであげられたらいいのに、と再び哀しくなった。
ずるずる悩んでいると、七月はなかばを過ぎていた。僕は依然として弓弦の心を救えずにいて、昨日の深夜、久しぶりに打ち沈んだ弓弦をベッドサイドに見てしまった。朝になって目覚めると、ぼんやりしたかったのか、弓弦はカウチで寝ていた。
そのときこそ隣にいるべきだったのに、僕は眠気で強気になれず、しかもそのまま寝てしまった。情けない。恥ずかしい。どんなに弓弦を想っても、僕は理想だけで実行に追いつけない。
僕ではダメなのだろうか。弓弦が僕にしてくれるように、僕は弓弦を救ってあげられないのだろうか。弓弦がそうされなくてはならなくても、できないものはできないのか。弓弦にとって自分が無価値に感じられてきて、今のところは、慌ててその卑下を振りはらえているけれど──
冷風のそそぐベッドを這い出て、朝の習慣を済ます。弓弦がいるので、今日は〈POOL〉には行かない。朝食の食器を洗い終わっても、弓弦は眠っていて、僕はベッドの上に行きかけ、やめて弓弦のまくらもとに行った。弓弦がカウチで眠っても僕がそばに座っていられるよう、いつのまにか、床に敷くクッションが出現している。僕はそれに座り、弓弦の寝顔を見つめる。
大人びた弓弦も、寝顔は無邪気だ。あどけなくて、子供みたいで──
子供みたいかあ、とため息をつく。弓弦は子供のとき、そんなふうに眠れたことはあったのだろうか。大人にかたむいて、ようやく子供のように安眠できるようになったのではないか。弓弦は、子供のときには子供かしらぬ精神力で生き延びなくてはならなかった。そう思うと、弓弦の安息した寝顔がいじらしく、胸が痛む。
弓弦が埋めて僕が見つけられずにいる、弓弦を支配するものを想う。抽象的な光に、思索は風をつかむより手応えがない。暗中を無作為に歩き、ほとんど運に任せて落とし穴に当たるのを待っている。その落とし穴は、恐ろしく深い弓弦の空洞だ。壊死が弓弦の幼少期に芽生えたのは確実なのだ。弓弦も苦しかった。ただ自分の苦しみより妹への後悔が勝って、自分の苦痛を見る余裕がない。
自分の苦痛。弓弦の苦痛。妹の死。いや、待った。よく考えたら、それは弓弦の認識だ。弓弦の認識に沿っていてはいけない。妹の死も弓弦の苦痛だが、それだけではない。弓弦だって苦しかった。弓弦──自身だって、苦しかった。
一瞬、瞳を浮かせた。そうだ。弓弦自身だって、苦しかった。僕が受け止めたいのは、それだ。弓弦も言っていたではないか。自分がされたことはどうだっていい。はっきり言っていた。そうか。弓弦が深海の底に埋めたものは、自分自身の苦痛なのだ。
弓弦自身が苦しかったこと。それは当然、両親の暴力、取り分け父親からの存在否定だろう。弓弦が口にするのは妹のことだけだ。妹を守れなかった無力感。妹を守らなくてはならなかった使命感。そのふたつに押しつぶされ、弓弦は自分の苦痛を記憶していない。
でも、心は違う。親に理不尽に暴力を振るわれ、傷つかない子供がいるだろうか。一滴も愛情をもらえず、向けられるのは憎悪ばかりで。弓弦は甘えないのでなく、甘えられないのだ。
改めて、弓弦の子供のような寝顔を見る。子供の頃、この人はそんなふうに眠れなかった。殺されるかもしれなくて。そんなひどい抑制があるだろうか。
子供がやすらかに眠っていたら、普通、親はどうするだろう。親から与えてもらえなかった愛情こそ、弓弦を満たしきれない欠落だ。子供が眠っていたら、親は油断していると殺そうとしたりしない。毛布をかけなおすとか、優しく見つめてそっとしておくとか──
僕は、弓弦の額にかかる前髪をほどき、そっとそこを撫でた。弓弦は眉を動かしてうなったが、起きはしなかった。僕は丁重に、弓弦を起こさないように弓弦の髪に指先をすべらす。
弓弦は守られることを教えてもらえなかった。保護者の虐待に認識を混濁させられ、その理不尽からせめて妹は守ろうとし、自分の心は置き忘れた。
そろそろ自分の心を持ってもいい。その心は、膿みっぱなしのえぐれた傷を持っている。弓弦はそれに唾を吐き、ないがしろにして、存在を否定してここまでやってきた。
でも、もういい。弓弦には僕がいる。その傷の存在を認め、泣いていい。心のまま弱っても、僕が弓弦を護る。
頭を撫でる。手をつなぐ。抱きしめる。そういうことをしてあげよう。
弓弦がされるべきだったのに、されなかったこと──
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