虚貝-48

過去の裏側

「弓弦には、守らなきゃいけないところがあると思う」
「ないよ」
「あるんだ。弓弦は自分のこと分かってないんだよ」
「分かってるよ、自分のことぐらい」
「苦しいでしょ」
「苦しくない」
「原因が説明つかないもの、ない?」
「ない。俺は全部考えて行動してる」
「考えてることって、弓弦の意思なの。型通りになってない?」
「ないって。俺は自分のことぐらいうまくあつかってる。紗月より、俺のほうが俺のことは知ってるよ」
「弓弦は忘れてるよ」
「憶えてるよ。分かってる。俺は自分のことは全部知ってる」
 この切り口もダメだ。あまりだらだらやっていると、そのあいだに弓弦の殻が補強される。
「じゃあ、どうやって知ったの?」
「え」
「普通に考えたら、弓弦に自分の知識なんかないはずだよ。弓弦には、ずっと自分がなかったんだもん」
「ない……」
「妹さんを守って、来夢さんを助けて、僕を救って、弓弦にはいつも自分がない。なのに、いつ自分のことを考えて、憶えたの?」
 弓弦は緘黙している。僕を見つめてはいるので、拒否でなく狼狽だ。
「弓弦には、自分がないよ。人に尽くしてばっかりで、守ってばっかりで。いつ自分自身でいたことがあるの」
「俺、は、いつも自分だよ。守る、だって好きでしてるんだ。考えてる。意思だよ。それに支配されてるとかじゃない」
「何で守るの?」
「そんなん、好きだからじゃないのか。大切なら守りたいだろ」
「弓弦、それで相手がほんとに喜んでるかどうかは考えないの」
 弓弦は心外そうに僕を見た。開かれた目は打撃に乾いた。うつむいた弓弦は、まだ僕の手をつかんでいる。
「……紗月は、俺のやってることが鬱陶しいのか」
「そうは言ってないよ」
「言ってるよ」と弓弦は悪感情もちらつく険しい眼を向けてくる。
「何なんだ。どうしてこんなの言ってくるんだ。はっきり言ったらいいだろ。言えよ」
「………、」
「言えよ。俺、……分かってるよ。俺が嫌いになったんだろ」
「好きだよ」
「嘘つくなよ」
「ついてない。僕、弓弦は依存されてないと怖いんじゃないかって思ったんだ」
「……は?」
「守ることで、自分の存在を正当化してるんじゃないかって」
 弓弦はまぶたを押し上げた。その眸子は一瞬空を泳ぎ、ついで、突き離すように僕を睨みつける。
「俺はそんなの思ってない」
「そうやって否定してるだけだよ」
「思ってない。何だよ。そこまで俺のこと負け犬にしたいわけ。ふざけんなよ。俺といたくないんだろ。はっきり言えよ。言えないんならとっとと出ていけよ」
 僕は弓弦を見つめる。弓弦のそっぽは冷たい。僕は瞳は冷静にしていても、心はかなり深く傷ついていた。
 泣きそうだ。すぐに謝り、捨てないで、と言いそうだった。けれど、そうするわけにはいかない。
「そう」と小さく言って、僕は立ち上がろうとする。僕の行動に、弓弦の肩は揺れた。弓弦の手は僕の手を握っている。
「離して」
「えっ」
「離してくれなきゃ、出ていけないよ」
 弓弦は僕を嫌いになった目のまま、あっさり手を離そうとした。僕は迫った恐怖にすくみそうになり、でも、それは必死に押し殺す。弓弦もこんなふうに自分を殺してきたのかな、と思うと弓弦が愛おしかった。素直に手を離されようとする僕に、弓弦は手の力を抜くのを躊躇い、しばらく唇を噛む。
「……出て、いって、どこ行くんだよ」
「分かんない」
「分かんないじゃすまないだろ。家に帰るのか」
「帰らないよ」
「じゃあどうするんだよ」
「弓弦にはもう関係ない」
「………、俺、が、紗月とは別れたって言ったら、簡単に殺されるんだぜ」
「弓弦がいないなら、死んでいいよ」
 弓弦の瞳は再度泣きそうになり、緩みかけた手の力はまた強くなる。僕は黙って静かな瞳を保つ。「何だよ」と弓弦は能面の大人に囲まれた、怯える子供のような頑是ない声を出す。
「何なんだよ。どうしたらいいんだ。どうしてほしいんだ。はっきりしてくれよ。俺分かんないよ」
 僕は弓弦の前にひざまずいた。弓弦は瞳を雫を落としそうに揺らし、とうとう目をつぶってしまう。僕は弓弦の手の甲をさすった。
「弓弦、さっき、『守らなきゃ』って言ったよね」
「……ん」
「どうしてそう思うの」
「………、役に立ちたいから」
「何で役に立ちたいの」
「相手に、お前が好きだって、分かっててほしいし」
「ほしいし」
「……それだけだよ」
「そう」
 弓弦は薄目で僕をちらっとしても、何も言わずにうつむくのに戻った。僕は綏撫を止め、弓弦の手を包み直す。
「そんなに精一杯守らなくても、僕は、弓弦に想われてるのは分かってるよ」
「……え」
「僕、今まで何にも自信なかったけど、弓弦に大切にされてる自信ならあるんだ」
 弓弦は僕を見た。僕は少し咲って、「もう嫌いになったかな」と訊く。弓弦は即座に首を振り、「好きだよ」と言う。僕はほっとして咲い、不安に裂けた心もそれで治る。
「僕には今までそんな人いなかったから、余計、弓弦が初めての人なんだって分かる。だから、弓弦、僕には頑張らなくていいよ。頑張らなくても、弓弦の気持ちは分かってる。弓弦が思うより、僕は弓弦の愛情を感じ取ってる。学校でされたことは気遣ってもらったほうが安心だけど、ほかのことには普通でいいんだ」
「普通」とつぶやいた弓弦は、僕がうなずくと、困ったように眉を寄せる。
「普通、って、何? どういうこと」
「弓弦も僕を求めるってこと。僕、弓弦に求めてほしいんだ。与えてあげたい。弓弦が僕にしてくれるみたいに」
「してる、かな」
「してるよ。いっぱいしてる」
「ちょっとしかしてないよ」
「僕にはいっぱいなんだ。弓弦が守りたいって思ってくれるだけでも、僕は嬉しいよ」
「思うだけじゃ意味ないよ」
「あるよ。思うっていうのは、一番大切なことだよ。心がこもってるってことでしょ。だから、守ろうって思うのはいいことなんだよね。ただ、絶対守らなきゃってかたくなにはならなくていいんだ」
「何で」と弓弦の瞳は濡れ揺れる。
「守るって思うなら、絶対守りたいよ」
「決心はそれでいいと思う。でも、たとえば、病気でふらふらなのに無理するとかはダメなんだ。守れずに傷つけさせても、助けたり、癒したり、できることはいっぱいある。守るばっかりが気遣いじゃないんだよ」
「助けられなかったら? 癒せなかったら? そんなんだったら、最初から何にもないほうがいいよ。傷つくのはしょうがないって、傷のために何かひかえるなんて、そんなの間違ってる」
「傷つくのはしょうがない、とは違う。弓弦はきっと、大切な人が傷つかないように頑張った。『しょうがない』じゃない。抵抗しまくって、向こうが勝っただけ」
「そんなん──」
「戦う前から勝てるわけないって殴られるままになると、それは、違うでしょ」
 弓弦は口ごもる。
「守れなかったからって落ちこむことはないんだ。弓弦は助けるも癒すもできる。守るだけの硬い人じゃない」
 弓弦はうつむき、何か言いたそうにまた唇を噛んだ。僕は右手を弓弦の手から抜き出し、弓弦の綺麗な黒髪を撫でる。弓弦は苦しそうに目を閉じ、喉を躊躇わせる。
「……できない、こともある」
「え」
「できなかったことがある。知ってるだろ。守れなくて、死んだらどうするんだ。妹みたいに。助けるも癒すもないじゃん。守る以外で、俺は妹に何ができたんだよ」
「………、弓弦は、妹さんの死を生かしてないと思う」
「生かす」
「後悔ばっかりで、そこから何にも学んでない」
「何を学ぶんだよ」
「自分に何が足りなかったのか」
「俺が間違ってたのか」
「妹さんは守るほかなかったと思う。それぐらい、おとうさんが容赦なかったんでしょ。後悔も大切だよ。妹さんを悼むなって言ってるんじゃない。ときどき思い出して哀しくなるのも、妹さんの心には必要だよ。でも、囚われるのも正しいとは思えない。嫌でも囚われるのは分かるけど、それが正しいって弓弦は抵抗せずに順応してるでしょ。弓弦、妹さんのことには“傷ついてもしょうがない”って殴られるままになってるんだよ」
 弓弦は被膜を引き裂かれたように目を開く。
「弓弦が過去を過去にできないのは、子供の頃と何にも変わってないからだよ。妹さんに尽くして、自分を殺してたときのまま。妹さんの死が弓弦に教えたのは、壁として硬くなるのが強さだってことじゃないはずだよ。自分を殺し続ければいいって、そういうことじゃないと思う。その頃、弓弦は妹さんが第一にあって、自分のことなんか考えなかったでしょ」
「……うん」
「弓弦が僕とか来夢さんに尽くすのは、その頃が原因じゃないかって思うんだ。自分は殺して、守ってあげなきゃって。でも、それじゃダメだよ。弓弦、守っても守っても、僕たちを完全に守れてる気がしないでしょ」
 弓弦は弛緩しかけたまぶたをまたも開き、「何で」とかすれた声をもらす。
「何で、そんな──分かるんだよ」
「だって、同じやり方してるんだもん。弓弦の中にはおとうさんがいるんだ。負けないように強くなって、妹さんのときよりもっと強くなって、今度こそ守るって。でもいくら強くなっても、やってることは同じだから、いつか妹さんと同じことになるんじゃないかって、恐怖が消えない。平行線を変えなきゃ、弓弦はいつまでも逃げられないよ」
 弓弦は、震える前髪越しに僕を見つめる。その瞳はどんどん弱くなっている。幼く、子供で、弓弦は退化している。
「変えるって」と弓弦はかぼそく言う。
「どう変えたらいいのか分かんないよ。何を変えるのかも分かんない」
「自分のことも考えるんだ」
「考えて、どうなるんだ」
「僕、弓弦の子供の頃には、甘えがなかったと思うんだ。それが、妹さんのことで学ぶはずだったこと。僕、弓弦に甘えてほしいんだよ。絶対に守らなきゃとか切羽つまらずに、守ってほしい」
「絶対……」
「あと、自分を見るとか守るとかも、弓弦になかったと思う」
「守る、……見る、って何を見るんだよ」
「弓弦を」
「俺」
「弓弦は妹さんを見て、来夢さんを見て、僕を見てきた。もういいよ。ちょっと、自分の心を見てよ。ぼろぼろだよ」
「ぼろ……、何で。そんなん、俺には見えないよ。何にもないよ」
 弓弦はつたなく泣き出しそうになって、ぎゅっと目をつぶった。僕はもう一度弓弦の頭を撫で、低く強くささやく。

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