虚貝-5

この喫茶店で

「朝飯」という開口の声は、聴いているのがこころよい低音だった。あさましくも胸に射した一抹の希望に顔を上げ、続いてふたりも顔を上げた。
 あくびを噛みながら来店したのは、紛れもなくあの人だった。黒い大きなリュックを肩にかけ、こちらには目もくれずに、カウンターに一番近い四人がけの席にひとりで座る。
「あいつ来た?」
「彼は来てなくても、お客さんはいるわよ」
 美人は椅子を立ち上がり、カウンターに雑誌を置く。
「は? どこ」
 リュックを放ってカウチに行儀悪く引っくり返り、邪魔っ気に脚を組んだ弓弦さんは仏頂面で店内を見まわした。そして僕を見つけ、「あ」とちゃんと目を留めてくれる。顰め面は、子供っぽい嬉しそうな顔に打って変わった。
「嘘。マジ。って、何でタカさんたちと一緒なんだよ」
 立ち上がって駆け寄ってきた弓弦さんに、ふたり組は顔を合わせた。まず、心底ほっとした。たぶん、助かった。テーブルの脇に来た弓弦さんは、僕に笑みを向ける。
「見ないんで心配してたんだぜ。気い遣って俺の名前言わずに、狩られたかなとか。何にもなかった?」
 うなずくと、「よかった」と弓弦さんは微笑む。「あの」と鋭い人が割りこんできて、「ん」と弓弦さんはそちらに注意をやった。ふたりに対する笑顔も愛想はいい。
「あ、こいつ、どこで拾ったんですか。変なとこにいませんでした?」
「いや、そのへんに。知り合いなんですか」
「敬語やめてくださいって言ってんじゃないですか。ま、知り合いっつうか、ダチです」
「ミキは彼を知らないって」
「そりゃ、ここには連れてきたことなかったですし。え、こいつが俺のダチだったら困るんですか?」
 ふたりは再び顔を合わせ、「別に」と口を濁して僕に視線を移す。僕はうつむいた。そのさまに弓弦さんはきょとんとして、カウンターの奥で飲みものをこしらえる美人は状況を飲みこんだ苦笑をする。気まずいのは、言うまでもなくふたり組で、弓弦さんに近頃の仕事の具合を訊いておき、それが用だったと繕って店を出ていった。
 ふたりがいなくなると、弓弦さんの愛想のいい笑顔は消えた。何やら息をつき、たくましい人がいた僕の隣に腰を下ろす。そばに来られると、あの煙草の匂いがした。「大丈夫だったか」と弓弦さんは僕に懸念を向ける。
「え」
「あのふたりに、何かされなかった?」
 まばたきをした。とっさに意味を測れず、理解するとびっくりした。とっくに見通していたのか。
「あのふたりは有名なんだよ。権力者の下について、名前を勝手に使う奴をリンチする。ほんとに勝手に使ってる奴の掃除には役立つんで、俺はこっちはこっちで利用してんだけど」
「そう、なんですか」
「仲良しに見えた?」
「あ、はい」
「そっか。この街じゃ演技は大事な商売道具だからな」
「はあ」と少し恐怖がざわつく。ということは、僕はこの人にどう思われているのか。親しい笑顔だって信用ならないのだ──内含される事実はどこか哀しくても。
「で、何にもされなかった?」
「あ、はい」
「そっか。何でわざわざここ来たの」
「え、顔知られてるか確認するって」
「めずらしい。あ、口ごもらなかったんだ」
「え」
「俺の知り合いって言えたんだろ」
「……まあ」
「だからだな。ま、あいつらに知り合いって知られたら、信憑性も広まるよ。怖かっただろうけど、意義ありと思って」
 こっくりとすると、「よしよし」と弓弦さんは満足げに僕の頭に手を置いた。子供あつかいされてる、とは思っても、気に入られている証拠のようだし、悪い気はしなかった。権力面では怖そうでも、感覚は普通の人みたいだ。
「こっちおいで」と僕の腕を丁寧に取った弓弦さんは、さっきのカウンターに近いテーブルに連れていった。テーブルは明るい色の木製で、綺麗にワニスで仕上げられている。「何か食べたいもんあるならおごるよ」と向かい合った弓弦さんは僕にメニューをさしだす。
「え、いえ。別に」
「そう? ま、コーヒーぐらい定番だろ」
「あ、あの、コーヒーは──苦いと……」
 弓弦さんは、背後の美人に向けようとした目を僕に返す。僕は伏目がちに、「紅茶で」とかぼそく言った。弓弦さんは笑うと、「渋くない奴ね」と美人に注文する。
「なあ」
「は、はい」
「敬語やめてよ」
「え」
「あんなチンピラでもないんだしさ。俺にビビることはないだろ」
 怖いけど、という本音は伏せておく。確かに怖くとも、僕には怖くならないとも思えてきている。
「名前も呼び捨てでいいし。俺も君──そう、名前知らなかったんだよな。何ていうの」
紗月さづき、です」
「サヅキ。サツキではなく」
「ん、まあ」
「濁点に何か意味あんの」
「ないと思いますけど」
「“ます”っていらん」
「……思う、けど」
「そうそう」と弓弦、は、満悦そうにした。弓弦。変な感じだ。僕は誰かを呼び捨てにした経験がない。
「歳いくつ?」
「十三、あ、いや、十四」
「なりたてですか」
「……四月に」
「ふうん。俺は十六な」
「えっ。……十六、歳」
「秋には十七だよ」
 それでも、三つ違いだ。見えない。ずっと大人びている。
 テーブルに頬杖をついた弓弦は、こちらを観察する。「何?」と身動ぎすると、「おもしろい顔だね」と弓弦は含み咲った。
「えっ……」
「不細工じゃないよ。男前には欠けても綺麗だし──ぱっと見、きつそう。よく見るとおとなしい。何だろ。目かな。眉か。あ、眉だ。吊り眉してたら、きつい目に合って挑発的な美少年なのに」
「……はあ」
「はは、ごめん。俺はその顔好きだよ。一週間、声かけられたりしなかった?」
「声かけられたりは、あった。それで、あのふたりにも目をつけられて」
「あ、そうか」
「いっぱい、名前使っちゃって。助かったお礼は言いたくて」
「いやいや。俺の名前、通じた?」
 うなずくと、「そっかあ」と弓弦は感慨深そうにする。
「怖いな。俺、そんな偉物じゃないんだよ。勘違いすんなよ」
「え、そうなんですか」
「敬語」
「……そう、なんだ」
「うん。いろんな奴に信頼はされてる。俺もみんなのこと信頼してる。信用されたきゃ信用しないとな」
「友達、多いんだ」
「友達はひとりしかいない。ほかは全部、仕事上の冷ややかな信頼」
 弓弦は無造作に煙草を取り出し、「男娼と思われたりはしなかった?」と火をつける。
「え、だん──」
「男娼。紗月なら思われそう」
「だん、しょう、って」
「男に売春する男。客取ってるかとか訊かれなかったか」
 記憶を探ると、確かにいた。「そんなのに引っ張りこまれなかった?」と訊かれ、うなずくと弓弦はほっと息をついた。
 男に売春する男。そんな人がいるのか。男が男に。睫毛を伏せそうになる。
 そんなの汚い。でも抵抗感がない。それに嫌悪感が燻る。あんな唾棄すべきもので興奮する僕は、本質から穢れているのだ。男なのに男で、男同士の忌まわしさを体感しているくせに男で、性的に胸を溶かす。身を持って知らされているだけに、同性愛が耐えがたい変態趣味に感じられ、それを悦ぶ自分の体質がおぞましい。
「紗月は」と弓弦は煙をふかす。
「男は“嫌い”なんだよな」
 顔を上げる。弓弦はまじめくさることもなく笑っている。
「弓弦、は」
「俺は男も好き」
「も」
「女も好き」
「女、も」
「たぶん、バイセクシュアルっていうのかな」
 弓弦の端正な顔立ちを見つめた。男も女も好き。そんな都合のいい人もいるのか。
「男と女で、先に好きになったのは?」
「俺、恋愛したことないよ」
「えっ」
「初恋してない。恋人持ったこともない。初めては女だよ。そのあと、試した男でどっちもいけるんだって知った。男女の観念が薄いんだ。まずは人間。性別で接する人間を半減させたくない」
 弓弦は慣れた手つきで煙草を吸っている。たくさんの人と接したい、ということか。いちいち軆を入れなくてもいいのではないかと思ったところで、「ここは禁煙よ」とテーブルにコーヒーと紅茶、ついでフレンチトースト、おまけに灰皿も置かれた。
 弓弦と共に顔を上げると、いたのはウェイトレスでなくカウンターにいた美人だった。シャツにジーンズという、慮外の男っぽい格好をしている。近くで見たら、顔も深紅の口紅がさっと塗られただけだが、じゅうぶん美人だ。
「ごめんなさい。くせで」
 弓弦は灰皿に煙草を押しつぶす。
「ライター貸しなさい。出かけるまで預かっておくわ」
「ちぇっ」と弓弦はおとなしく美人にライターを渡す。恋人、とあのときは思ったものの、こうやりとりを見ると姉弟という感じだ。カウンターに戻ろうとした美人を、「ミキさん」と弓弦は呼び止める。
「こいつの顔、憶えてやってくれませんか」
 弓弦は僕をしめし、美人──ミキさん、は僕を向いた。すくんでしまったものの、ミキさんは気をほぐす笑みをしてくれる。
「こいつがここに来たら、つけさせてやって。俺がはらうんで」
「かわいがるわね」
 ミキさんにくすりとされ、「そうかな」と弓弦は肩をすくめる。
「分かったわ、弓弦の頼みなら。──名前、教えておいてくれる?」
「あ、えと、紗月、です」
「紗月くん。私はミキ。よろしくね」
「はあ」と間抜けに返しかけ、慌てて、「よろしくお願いします」と言い直す。ミキさんは微笑むとカウンター内に戻った。
 思わず緊張したのをため息でほどくと、弓弦に笑われてしまった。
「え、と、はらうって」
「学校行きたくないんだろ」
「う、うん」
「じゃあ、ここにいればいいよ。外にいたって、今日みたいなのがうるさいし。ここ、居心地悪い?」
 首を振る。それはない。第一印象からして、ここの空気は柔らかかった。
「じゃ、ここにいろよ。ここなら俺もちょくちょく来るし。部屋よりここにいるのが多いんだ」
 家、ではなく、部屋。ひとり暮らしなのかな、と思い、自分の家を連想した僕ははっと腕時計を見た。十六時半を過ぎていた。
 どうしよう。終業している。
 焦りはじめる僕を、「どうした」と“朝食”に手をつける弓弦は訝る。
「あの、僕、もう帰らなきゃ」
「まだ十六時半だぜ」
「学校行ってる時間のあいだじゃないと」
 弓弦は僕を眺め、「そう」と追求はしなかった。僕がデイパックを抱き上げて立ち上がると、「待て」と弓弦はコーヒーを半分飲んでトーストを手にすると立ち上がる。
「俺も行くよ」
「え」
「どうせお使いがあるんだ。途中まででも、並んで歩いておくと効果ありだぜ」
 突っ立つ僕に、「それに」と弓弦はリュックを取り上げる。
「そのまま行かせると、無駄に人にぶつかって逆に時間食いそう」
 にっとされて、僕は頬を熱くした。図星だった。
 弓弦はミキさんにライターを投げ返してもらい、代金は通りかかったウェイトレスに渡すと、僕についてくる合図をして歩き出す。
 僕は素直に弓弦を追いかけ、その日はその喫茶店──〈POOL〉をあとにした。

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