虚貝-50

海辺にて

 弓弦と手をつなぎながら、うらぶれた人影のない浜辺を歩く。
 僕はこういう海は初めてだった。親に連れていかれたことがある海は、国内にしろ海外にしろ、綺麗に整備されたビーチだった。波音が言いようのないこころよさを呼ぶのは同じで、それに種々の鳴きはじめた蝉の声もどこからか入り混じる。
 仰ぐ空は青く、何もしなくても強い陽射しが汗をかかせた。その汗に弓弦とつなぐ手がすべりそうになって、僕は慌てて握り直す。同時に弓弦もそうして、僕たちは思わずはにかんだ笑みを絡めた。
 今日は七月二十六日、前々から弓弦が仕事を入れていない日だった。この日だけは毎年そうなのだそうだ。弓弦の向こうの手には、花やお菓子が入っていたふくろがある。僕たちはたった今、それを供えてきたところだ。
 今日は、弓弦の妹さんの命日だった。
 おとといの夜、墓参りについてくるかを誘われ、僕は迷った。無論、妹さんのお墓は街の中にはない。それどころか、弓弦が以前住んでいた町にも行くため、電車を乗り継がなくてはならず、外に恐怖心のある僕は悩んだ。
「怖いならひとりで行くよ」と弓弦は僕の髪を撫でてくれたけど、結局こうしてついてきた。妹さんに挨拶しておくのもいいかな、と思ったのだ。それに、ひとりで出るわけでもない。街を出れば弓弦の権力は消滅するとしても、僕がもたれる弓弦の力はそれではない。「見憶えある人見たら隠れてもいい?」と訊き、咲って承諾をもらうと、僕は弓弦のゆいいつの恒例行事にくっついてきた。
 父親は監獄にいて、母親は蒸発している。それは妹さんにも通じることで、海のそばの霊園へ墓参りにきたのは、僕たちだけだった。お墓は親戚がはからってくれたものなのだそうだ。その親戚は来ないのかを訊くと、「もう六年も前だしなあ」と弓弦は咲っていた。
 掃除をしたあと、弓弦が妹さんに供えたものは、お菓子とかすみ草だった。墓石には“雪華ゆきか”という名前が刻まれ、「これが妹さんの名前?」と訊くと弓弦はうなずいた。弓弦と雪華。僕は顔も知らないふたりの両親を思い、ひどいことしたわりに綺麗な名前つけるなあと漠然と思う。
 供え物をしたあと、弓弦はまだ重みのある瞳で墓石を見つめた。隣にしゃがんだ僕も墓石を仰ぎ、遠い波音と蝉の声を聴きながら、妹さんを想う。
 たったいつつで、父親によって命を落としてしまった。僕は弓弦にばかり心をかたむけていたけど、一番ショックなのは、妹さん自身だろう。すぐそばで信頼する兄を昏倒させられ、引きずり出されて、踏みつけられて首の骨を──。
 そんな最期があっていいだろうか。僕は弓弦の綺麗な横顔を盗み見て、そういうことは忘れないでほしいなと思う。弓弦が眠らせるのは無力感への自責や必要以上の後悔で、妹さんが味わった痛みは憶えていてあげてほしい。弓弦にはつらいだろうけれど、忘れられて妹さんを心までひとりぼっちにはしてほしくない。
 じっと座っていて、僕も弓弦も汗をかいてきて、弓弦は不意に腰を上げた。「行くか」と言われて、僕も立ち上がる。
 弓弦はもう一度墓石を見つめ、僕もそうする。妹さんにどう想われるかは分からないけど、弓弦のそばには僕がいます、と心でつぶやいた。
 弓弦は僕の手を取り、僕は弓弦を追いかける。そして、帰るかどうかを訊かれ、どうせなので寄り道で浜辺に散歩に来たのだった。
「そういえばさ」
 弓弦の長い脚の大股に、僕はたまに小走りになっている。
「こないだ来夢に会ったとき、話したよ」
「話した」
「いろいろ、紗月が教えてくれたこと」
 僕は弓弦を見て、「そっか」と砂浜を踏む。歩くと、さく、と足痕が残っていくのが、アスファルトで育ったせいで不思議だ。
「紗月のこと褒めてたよ。そういうふうに導けるの、すごいって」
「来夢さんにもお願いされてたんだ」
「言ってた。んー、俺さ、紗月のこと必要だけど、あいつも要るよ」
「はは、知ってる」
「あいつも、新しい女、試しに作ったらいいのにな。むずかしいとは思うけど」
「……うん」
「むずかしい、っつうか怖いのかな。新しい女を作るのがミカへの裏切りになるとか、そんなふうには思ってないと思うよ。怖いんだ。また壊れるかもって」
 僕は視線を泳がせる。潮の匂いが強かった。水平線に向こう岸は見えずとも、小さな島がかすみがかって見える。
「あいつ、まだ十六なんだし。いい女出てくるといいよな」
「うん」
「たぶんそれが、乗り越えた、ってことになるんだろうし。乗り越えさせる女がいるといいな。紗月みたく賢いの」
 僕ははにかみ咲い、首をかたむける。
「あいつに惚れる女はいるよ。俺のダチだもん」
 そんな話をしながら、僕たちは緩やかに歩く。
 僕が弓弦に教えた弓弦の家族への想いは、来夢さんにも思いもよらないものだったらしい。「そうなのか」と問われ、「そうらしい」と弓弦は自信なく答えたそうだ。「ゆっくり認めて分かっていけばいいよ」と僕が言うと弓弦はうなずき、「あのときすげえ怖かったけど」と言う。
「怖い」
「紗月が」
「僕?」
「俺、あのとき、紗月に捨てられるって覚悟したんだぜ」
「はは、ごめん。どうしたらいいのか分からなくて。あれでも必死だったんだよ。でも、僕が出ていっても、弓弦は迎えにきてくれてたと思うな」
 弓弦はばつが悪そうにし、「うぬぼれかな」と僕は咲う。弓弦は首を振り、「ほんと、俺のが守ってもらわなきゃな」とつぶやく。僕は微笑む。
「弓弦は僕の話を聞いてくれたとき優しかったのに、僕は手荒かったね」
「俺にはあれぐらいがちょうどよかったよ」
「そう?」
「感謝してる。俺だって恥ずかしいんだぜ。あんなの、誰にもしたことなかった」
 刹那沈黙して、「僕にはいっぱいしていいよ」と僕は言う。弓弦はうなずく。潮風にその長い前髪が揺れ、僕は勝手にどきどきする。
「ほかの人にはしないでね」
 弓弦は笑い、もう一度うなずく。
「ほかの人には、いつもの軽い弓弦でいられるように、僕だけには甘えて」
「紗月も俺に甘えろよな」
「僕は、弓弦に甘えるのがなくちゃ困るよ」
 弓弦はまぶしいみたいに咲い、ちょっと足を止めた。「何?」と顔を上げた僕に、弓弦は一瞬口づける。すぐ顔が離れ、僕はおもはゆさに咲ってしまい、弓弦も笑む。
「紗月って、やっぱおもしろいよな」
「え」
「顔と性格似てる」
「顔」
「方向反対だけど。顔はさ、ぱっと見たらきつそうなんだよな。よく見たらおとなしい。性格は、もろそうなくせにけっこう強い」
「弱いよ」
「強いって」
「そう、かなあ。弓弦は強そうなのに、けっこう弱いね」
「はは。じゃあ、俺たちお似合いじゃん」
 僕は弓弦を見上げ、咲ってうなずく。弓弦も微笑し、僕たちは再び歩き出す。
 弓弦が向こうに持っているふくろががさがさいった。波打ち際を濡らす砂浜には、いろんなものが落ちている。乾燥した海草、空き缶、中身の抜けた貝殻がよく落ちていた。弓弦はそれをスニーカーの爪先で蹴る。
「ここさ」
「ん」
「妹と来たことあるんだ」
「え」
「親父が出ていけって言ったときとか、ひどすぎて逃げ出したときとか。つってもガキの足には遠いしな、何回かだけど」
「そう、なんだ」
 弓弦は僕とそっと手を離すと、蹴って渚のそばに転がった貝殻のそばにしゃがんだ。僕もそのそばに腰をかがめる。弓弦は貝殻を拾って、睫毛の角度を弱くする。
「家では俺の後ろで小さくなってたあいつが、ここではのびのびしてた。俺のがぐったり座りこんで休んでさ。あいつは波で遊んだり、こういう貝殻拾い集めたり」
 僕は、弓弦の長い指の中の貝殻に目をそそぐ。
「五歳の女の子だったら、友達とままごとでもしてる歳だよな。最近のガキはどうか知らないけど、あの頃はさ。でも、あいつには友達がいなかったし、ままごとの手本にするあったかい家庭を知らなかった」
 僕は弓弦の隣にしゃがみ、弓弦の肩に触れる。弓弦は僕を見て微笑み、手の中で貝殻をいじる。
「来夢に言ったことがあるんだ」
「うん」
「あいつら親だけど、家族じゃなかったんだって」
「……うん」
「分かんないや。あんなのでも、一応家族なのかな」
 潮の香りをただよわす波は、弓弦のスニーカーを濡らしそうなところまで来て、何もせずに去っていく。砂浜は水気を含んで濃くなって、染みこんではふっと薄くなる。
「弓弦は、家族になりたかったんだよね」
「……うん」
「でも、向こうがそれを壊したんだと思う」
 弓弦は僕を一瞥し、うつむいた。しばし沈黙して、波音と蝉の声がしていて、こめかみに汗が伝い落ちていく。「家族じゃなかったのか」と弓弦はつぶやき、僕は弓弦の肩を撫でた。弓弦は息をつく。
「ごめんな」
「え」
「俺ばっかり寄りかかって。紗月も苦しいことあるのに」
 僕は咲って、「大丈夫だよ」と言う。
「今は元気だよ。大丈夫じゃないときが来たら、そのときいっぱい心配して」
「来るかな」
「来るよ。……忘れられないもん」
 弓弦はつらそうな目を僕に向け、僕は痛く微笑む。弓弦は、貝殻を持たないほうの手で僕の髪を撫でた。
「ほんとに空っぽなのって、俺たちじゃなくて、あっちなのかもな」
「え」
「俺の親とか、紗月にそんなことした奴。そいつらのが、本物の空っぽなのかも」
「本物」
 弓弦は手の中に貝殻を転がす。
「こんな、殻だけでさ。中身がないんだ。守るものもない。で、俺たちのことも自分の虚しさに道連れにしようとする」
 僕は貝殻を見つめる。そうかもな、と思った。本当に空っぽなのは、僕たちでなくあちらなのかもしれない。殻だけで中身がない。守るものもない。だから、傷つく心理が分からなかったりするのだろうか。
「俺にも紗月にも、虚しいとこできちまったけど、守りたいとこはあるじゃん。だから大切な部分は空っぽじゃないんだよな。なのに、こういう虚しいのに取りこまれたら、あっちの思う壺だよ」
 弓弦は貝殻を砂浜に落とした。波打ち際に転がったそれは、次にやってきた波にあっけなくさらわれた。
 弓弦は僕の頭をいつも通りぽんとして、「帰ろっか」と立ち上がる。こくんとした僕も、弓弦に引っ張られて立ち上がる。潮の匂いに背を向け、また手をつないで、僕たちは浜辺をあとにした。
 弓弦の手を握りしめ、ときおり瞳を溶けあわせながら歩いていく。相変わらず日射しは強く、潮の匂いは消えても弓弦の汗の匂いがする。それは僕の何より好きな匂いで、心は蕩けた熱にいっぱい満たされる。
 弓弦の言う通り、僕には空っぽになったところがある。消え去るには深すぎる虚ろがある。
 でも、大丈夫だ。僕には弓弦がいる。この人がいれば守ってもらえるし、そばで守ってあげるために消えたくないとも思える。守るものがある限り、僕は空洞の深みに囚われるわけにはいかない。
 今後、僕は生きているのが楽しくないなんて言わなくなるだろう。弓弦がいれば、僕の大切なところにはおいしいものがつまっている。
 空っぽの言いなりには、もうならない。
 大切なのは、僕が今感じ取っている心だ。
 だから僕は、自分の好きなように、この人とこの存在を生きていってみせる。

 FIN

error: