閉じて落ちるように
今日の弓弦はゆっくりしていられるようで、空になったコーヒーのおかわりを頼んだりしていた。かきたてられていた意識過剰も、話をしているうちにおさまった。そもそも、どうこう思おうが、弓弦の僕への態度が“友達”だ。ならば、僕だって友達として応えるのが義務だ。
鎮まりゆく心理にほっとしたとき、自動ドアが開いた。その客へのミキさんの言葉が、「いらっしゃいませ」でなく、「こんにちは」だった耳慣れなさに入り口を振り向き、同時にそうした弓弦は、「あ」と子供っぽく破顔した。
「来夢ちゃん」
プリントTシャツにだぶついたジーンズという格好のその人は、弓弦の声にこちらを向いた。美少年だった。弓弦とは違う種類の美少年だ。
色素の薄いくせ毛、大きな瞳に白皙の肌、全身の骨組みがもろく細い。中性的というより、女性的に近い。弓弦と同年代だろう。繊細な容姿に反し、こちらにやってきたその人の所作や雰囲気は男っぽかった。
僕を一瞥しながら、「“ちゃん”ってやめろよ」と美少年はぞんざいに弓弦に言う。
「お前も“弓弦ちゃん”って返せばいいじゃん」
「やだね。昼間っからデートですか」
「へへ。そう見える」
「………、見つけたのか」
「あ、複雑そう」
からからとした弓弦は、初めて見る顔をしていた。子供っぽい、というより、ガキっぽい。笑われた美少年は、美に執着しない渋面をした。
「はは、ごめん。お前はお前だって言ってんだろ。デートでもないよ。友達ですかね」
「友達」
「紗月っていうんだ。こないだ話しただろ」
美少年は眉を顰めて考え、「ああ」と二秒で皺を解く。
「で、紗月。こいつは来夢っていって、ほら、話したじゃん。俺のゆいいつのダチという。タメだぜ」
僕は面食らい、この人なのか、と美少年を見上げる。美少年、もとい来夢さんも僕を見下ろした。長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、何かしら淡々としていた。
昨日、僕はこの人に勝手にもやもやした。思い出して勝手に気まずくなり、うつむいてしまう。「一般人の反応」と来夢さんは弓弦に向き直った。
「一般人だもん」
「お前、こんな一般人にも手え出すようになったのか」
「こんなって何ですか」
「お前のこと怖がらないのか」
「なあ。怖がらないんだよ。不思議だ」
来夢さんは息をつき、弓弦を奥をやるとその隣に腰をおろした。来夢。変わった名前だ。来夢さんはやってきたウェイトレスにコーヒーを注文し、あくびを噛んでいる。
「お前、この時間って寝てないか」
「ホテルで寝ちまってさ。今、帰るとこ」
「逃げられなかった」
「お前の傘下に、んなのする奴いるか」
「俺、そんな怖いかなあ」
「本性知らない奴にはな」
「お前、俺のこと怖い」
「お前ほど裏表ない奴いねえよ」
弓弦は嬉しそうに咲い、来夢さんも咲う。仲いいな、と思った。弓弦は頬杖をつき、僕に向き直る。
「紗月にも本性出てんのかな。俺、怖くないだろ」
こっくりとする僕を、来夢さんは運ばれてきたコーヒーをすすって眺め、「中坊ぐらい?」と弓弦に訊く。
「十四だって」
「……ふうん。こっちで暮らしてんじゃないよな」
「外だよ。登校拒否で初期アウトローはしてる」
来夢さんは僕に目を戻す。咲ったりはしない。表情が笑みに接続される気配もない。弓弦のように器用にひらけた人ではないようだ。とはいえ、大きな瞳に僕への敵愾心や不愉快はない。
「かわいい子」
「取るなよ」
「取るか。お前のじゃん」
「安心おし。お前も俺の。放ったりはしない」
来夢さんは白い頬を染め、そっぽを向いた。高笑いした弓弦は僕を向く。
「こいつとはさ、十一になるかならないかの頃から悪友なんだ。昔はさんざん一緒に悪さしたな」
「悪さ」
「万引きとか。今はしないぜ、働くようになったし。金があるならきちんとはらう。ガキって金ないじゃん。欲しかったら盗むしかなかったんだよな」
その論理はよく理解できないけど──。十三から働いているとミキさんに聞いたのを僕は言う。
「俺はね。こいつは少しあと。で、嫌いだって思わないでやってくれる?」
「え、うん」
「こいつ、男娼なんだよ」
「は?」
「男娼。男にオカマ貸して稼いでるんだ」
僕は目を開いて、来夢さんを見た。男娼。ということは、この人は──。
動揺する僕に弓弦と顔を合わせたのち、「オカマって意味分かる?」と来夢さんは初めてこちらに口をきいた。
「え、まあ」
「俺がホモだったら、そのままケツって言うんだよ」
「は?」
「つまり、女役のふりってこと。俺は売り専なんだ」
「うり、せん」
「金のためになら男とも寝る。プライベートでは男は問題外」
「早い話、ストレート」と弓弦が注釈し、僕は来夢さんにしばたく。ストレート、で──「できるんですか」とどもりがちに訊くと、「割り切ればね」と返される。
「割り切れるんですか」
「割り切らなきゃ死ぬもん」
拍子抜けだった。そんな男娼もいるのか。本当に僕は、そういう社会に疎い。みんなゲイだと思っていた。
「割り切らなきゃ死ぬ、かあ」
「昔お前が似たようなの言ってた」
「そうだっけ。さすが俺」
今度は来夢さんが弓弦を小突いた。弓弦は笑い、来夢さんも少し咲う。弓弦に対してだと、来夢さんは自然に咲う。来夢さんも、弓弦には心を開いているようだ。来夢さんが咲うと、何となく弓弦の笑みがやわらぐ。
割りこめない軽妙なやりとりに、おとなしく僕はミキさんがミルクティーにつけてくれたクッキーをかじった。来夢さん以外の人への信頼は“冷ややかな信頼”だと弓弦は言った。そうして来夢さんとふざける弓弦を見ていると、その発言がきわやかになる。
弓弦は来夢さんに心を開いている。揶揄ったり、小突いたり、咲ったり──そう、砕けている。それでガキっぽいのだ。心を無防備にして、来夢さんが自分を傷つけないと信じている。短期間でいろんな弓弦を見たけど、そんな弓弦は初めてで、それだけ来夢さんとの友情が察せて僕は口をはさめなかった。
弓弦は僕を守ってくれるけど、来夢さんへのような深い信頼はないだろう。来夢さんを一瞥し、いいな、と思った。弓弦といるとやすらげる。それを無限に与えられる保証があるのは、来夢さんひとりなのだ。
男娼ということは、この人も自活しているのだろう。買ってくれる人は多そうだ。しかし、金のためというだけで、軆が受け入れる性別を曲げられるものなのか。そうできる人なのか。僕はできない。傷のためと思っても、女の子は受けつけない。
軆を捻じ曲げ、女の子と恋愛できたら、どんなにいいか。屈折を真実にすりこみ、あのことは屈辱だったと自信が持てる。堂々と男同士は汚いと言える。僕はできない。根っからのゲイだ。
男同士は汚い、と僕は思っている。どこかでそれを受けいれがたくもある。自分で自分を穢れているというのは、やはり卑屈が過ぎる。同性愛は変態だ、なんて傷を守りたい言い聞かせだ。
僕の本心が責めているのは、自分の性質でなく、あんなことをされた理不尽だ。でも、誰もあの苦痛は分かってくれない。嫌悪と信じがたさに笑い飛ばす。僕がゲイだと知ったら、嬉しかったんじゃないかとまで言う。僕は内罰的になる。逆らえなかったのも、傷に自信が持てないのも、ホモのせいだ、この冒瀆的嗜好が全部悪いと。
自信がいっさい欠けている。そういうのをされて、嫌だとは感じる。感じるのだけど、心の底では愉しんでいたのではないか、と自責じみて猜疑する。痛いのに、その痛みが信じられない。犯されたという事実に合わせた体裁の痛みではないか、と思ってしまう。
実際、「男が好きなんだろ」と抑えつけられたこともある。小学校の担任ではなく、今の中学でだ。僕はあの中学では男好きだと有名なのだ。「君には愉しいはずのことだよ」とあの人に言われたとき、僕は何も言えなかった。
何と言えばいいのかも分からなかった。苦痛も、屈辱も、嫌悪も、虚脱も、ぐちゃぐちゃで、どんな言葉も見合わない。混濁していた。混濁すると受動体になる。感情が信じられなくなる。眼前に腫れた性器を突き出され、「舐めろ」と言われ、嫌なのか嬉しいのか分からなかった。
「これが好きなんだろ」とあの人は言った。苦しくても、そうだった。でも、これじゃないとも思った。心を分裂させる、決定的な亀裂を説明できなかった。かろうじて混沌に追いつけた表出である涙は、あの人の舌にべったりと切断されてしまった──
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