友達だから
「紗月」と呼ばれて、はっと顔を上げた。弓弦がテーブルに伏せって上目に覗きこんできていた。弓弦の瞳を瞳に感じ、濡れ落ちそうだったものが軽くなる。
「ごめん」と弓弦は言った。
「除け者にしたつもりは」
「え、あ──ううん。違うよ」
「でも、泣きそう」
弓弦のせいじゃない。悪い追想のせいだ。いつこんな思索に堕ちたのだろう。内界にいるといつもこうだ。心を覗こうにも、冷淡な内観ができない。
あと一歩で濡れそうだった頬に、弓弦の指が触れる。どきっと肩が揺れた。弓弦の指先の熱が肌に染みこみ、それでまた泣きそうになる。
「あ、あの」
「ん」
「大丈夫、だよ。何でもない」
弓弦は僕を見つめ、「そっか」と手を引いた。来夢さんがおかしそうに咲っていて、「何だよ」と弓弦はそちらを睨む。「いや」と来夢さんは咲いを含む目で僕を瞥視する。
「なあ、弓弦」
「ん」
「この子に話した?」
「え、何を」
「お前が夜な夜ないろんな奴──」
弓弦はぱっと軆を起こし、来夢さんの口をふさいだ。そして、鼻白む僕には気弱に笑い、来夢さんには責めるひそみをする。
「お前はいつからそんなデリカシーがなくなったんだ」
来夢さんは弓弦の手を剥ぎ、「お前はいつからそんなシャイになったんだ」と吐く。
「俺じゃねえよ。紗月がそういうのに免疫ないんだよ」
「気遣ってるじゃん」
弓弦はばつが悪そうにし、コーヒーに浸されたスプーンの柄をいじる。僕をちらっとし、こちらが見つめ返すと、弓弦はコーヒーの水面に目をそらした。
弓弦が夜な夜ないろんな奴──と寝ている、だろうか。知ってる、と弓弦の言おうかと思ったものの、あからさまに来夢さんの口をふさいだのだし、知られていたら弓弦は気にしそうだ。
来夢さんは弓弦の様子に咲うと、僕を向いた。
「弓弦と仲良くしてやってよ」
「えっ」
「俺も弓弦が誰かといられるのは嬉しいしさ」
きょとんとした僕に、わずかながら来夢さんは瞳を笑ませた。弓弦の視線に、「ほんとだよ」と来夢さんが言うと、「知ってる」と弓弦は返す。来夢さんは弓弦にはちゃんと咲った。
弓弦と来夢さんは、〈POOL〉で昼食と取ると一緒に出ていった。ふざけてやりあうふたりが、ショウウインドウを外れていく。昼食のオムレツがなくなった皿を持っていくついでに、僕はカウンターに移った。
ミキさんは昼食時でいそがしそうだったけど、時間帯を過ぎるといつものスツールに腰かける。僕が座るスツールも、そこに合わせていつつのうちの一番右だ。「会えたわね」とミキさんは咲い、僕はあやふやに咲いかえす。
「どうだった?」
「………、仲、良さそうでしたね」
「そうね。恋人同士みたいだわ」
「え、恋人、なんですか」
「だったらどうする?」
僕は口ごもり、困った上目遣いをする。ミキさんは笑い、「平気よ」と僕をなだめた。
「あのふたりは、あくまでも親友なの」
「親友」
「滅多にない親友ではあるわね。あのふたりは、お互いに支えられて生きてきたようなものなのよ。相手のためなら、死んでもいいかもしれないわね」
「……死」
「それでも親友よ。あのふたりが寝るところを想像しようとしても、できないでしょう」
弓弦と来夢さんが寝る。確かに、想像がつかなかった。あのふたりには、軽口が似合っている。
「弓弦は、恋人いないんですよね」
「そうね」
「来夢さんは、持つなら女の人ですよね」
「いたわよ、女の子」
「いた」
「一年とちょっと前だったかしら」
別れたのか。来夢さんは恋愛経験があるのか。来夢さんが女の人に不便しないのにはうなずけた。弓弦と同じく、あの人の容姿も男女問わず持てはやされそうだ。
「十一で知り合った、って言ってましたね」
「小学校で出逢ったって話してたわ」
「小学校、行ってたんですか」
「さあ。その頃は知り合いじゃなかったのよね」
「はあ。中学は行ってませんよね」
「どうかしら。私の部屋で制服を着替えてるときはあったわよ」
じゃあ、行っていたのか。よく分からない。
だいたい、家はどうしたのか。もしかして、知り合ってふたりで勇気を合わせて家出し、この街に来たとか。いや、そうだと制服が手に入らない。制服を持って家出というのも変だし、制服を持っていたということは、この周辺の家と当時は接触していたということだ。何せ、弓弦の家庭はいまいち透徹にならず、首をかしげさせられた。
弓弦は現在は家と接していそうにない。自活を始めてそうなったとしたら、そうとうだ。弓弦の自立は十三歳だという。十三で家出し、自活して、事実上、絶縁する。僕は家にぶつぶつ思いはしても、無能力者という立場に勝つ勇気はない。弓弦は勝った。そんなに家が嫌だったのか。何か耐えられないことがあったのだろうか。弓弦にそこまでの苦悩の影があっただろうか。
「あの子が本当に気を許してるのは、今のところ彼だけなのよね」
僕はミキさんを見直す。
「あれでもあの子はかたくななのよ」
「かたくな」
「誰も彼もににこにこする子じゃないわ」
ここで会った人みんなににこにこしていたけど──違う。あれは仮面だ。来夢さんには心を触れさせているとは感じた。しかし、だとしたら、なぜ弓弦はそうもかたくなに心を守るのだろう。深い影を窺わせる感触なんて弓弦にはなかったけれど、あの仮面を考慮すれば、僕にさらすわけがないという他面もある。
苦しいとしても、来夢さんが救ってあげられる。どうせ、僕はよりかかられたって自分でいっぱいだ。何もしてあげられない。そう、弓弦の心に僕はお呼びではないのだ。
週末が過ぎた五月最後の週の月曜日、弓弦とふたりで会えた。じき十六時で、帰宅が迫っていた。
朝食のホットドッグを食べる弓弦と僕は、来夢さんの話をしている。「来夢って名前変わってるね」と言うと、「ああ」と弓弦は口の中を飲みこんだ。
「あれは源氏名だよ」
「げんじな」
「男娼としての名前。本名は別」
「意味あるの。来夢って」
「ないんじゃない。果物から取っただけだし。あいつの男娼仲間にも、チェリーだのチョコだのいる。少なくとも本名は違うぜ」
「弓弦も本名で呼ばないんだ」
「昔は呼んでたよ。あいつ、自分の過去嫌ってんだよな。で、本名で呼ばれると気分悪くなるんだと。俺もあいつにはふさがないでほしいし、頭からあいつは来夢だって書き換えた」
過去を嫌っている。来夢さんは咲うのが自然にいかないようではあった。まあ僕が立ち入る部分でもないとあっさり流すと、それよりそうして来夢さんを細やかに気遣う弓弦に心は移る。「恋人同士みたいだね」と試しに言うと、コーヒーを飲んでいた弓弦は眉を顰めた。
「何だよ、紗月まで。よく言われるんだよなあ。違うって。あいつとは友達なの」
「そうなの」
「そうなの。俺、あいつとは寝たくないよ。紗月ぐらい信じてくれ」
「そっ、か。うん」
弓弦はカップを置き、一考するとこちらを正視する。
「もし、あいつと俺がそんなだったら、紗月は何かある?」
「えっ」
「気になる?」
「ま、まさか。ぜんぜんっ」
弓弦は僕を見つめ、「っそ」とホットドッグをかじった。僕は脈打つ心臓にほてって、うつむく。いささか突飛に否定してしまった。
本当に、そんなのじゃない。心配だったので、「弓弦は友達だよ」と念を押した。弓弦は僕を見、「うん」とひかえめに微笑んだ。
【第九章】
