取り残されて
きっと俺は贅沢なんだよな。とても満たされて、その充実が当たり前になって、だんだんかえってつまらなくなってきた。
人と違うところが欲しかった。もはやそれが、病気や狂気でも構わないくらい、「普通じゃない」自分を求めるようになっていた。
勉強がよくできるとか。スポーツに才能があるとか。そういうものがあればよかったのかもしれないが、残念ながら俺はけっして優秀ではないのだ。
普通。ほんとに普通。そんな俺が、同性愛なら自分にもできるんじゃねって思ったんだから、確かに同性愛者には失礼だったなと今なら思う。
きっかけは、SNSのトレンドに流れてきたLGBTのニュースだった。同性間でも結婚に近いパートナーになれる法律が整いはじめたという記事だった。
見たときは「ふうん」という程度だったが、学校に行くとクラスの腐女子がCPの結婚式を想像して騒ぎ、それを男子どもがうんざり眺めていたので、まあ実際ストレートにとってはその反応だなと思った。
俺は同性婚もいいと思うけどなあ──何となくそう思って、自分のその無意識に覚えた感覚で、もしかして自分は男もいけるのではなんて想像が始まった。
でも、普通の高校生活の中で同性愛を試す相手なんてなかなか見つからない。どういう男が好きなのかなんて基準もない。だから、高二が終わった春休み、ネットで知ったセクマイのバーやクラブが密集する裏通りに通いはじめた。
こっちから話しかける勇気がなくても、わりと話しかけられる。そうして慣れていくと、少しずつ、かける声も出るようになる。そして、たまにその場でキスをする。
けれど、どうしてもそれ以上の発展がなかった。話しているうちに「そろそろあっち行くね」と立ち去られたり、会話が噛み合わなくなって「じゃあまた」とどちらからともなく離れたり、いい雰囲気になっても「出ようか」のひと言はなかなか出せないまま終わったり。
同性愛ってこんなにむずかしいのかよ。そうあきらめかけていた頃、俺は美晴に出逢った。
美晴の友達である凛那さんと琴生さんというカップルを見て、俺はめちゃくちゃかっこいいと思った。男同士でも、しっかり愛しあっている。そう、俺もああいうふうにしてみたいのだ。
そしたら、美晴が俺をホテルに誘ってきた。美晴は髪をさっぱり切って、くせ毛が跳ねないようにしていて、眉がしっかり描かれて、どこか艶のある瞳を持っていた。鼻筋や顎の線は無駄なく削がれ、肩幅も筋肉も力強い。
かっこいいな、と思って、こんなかっこいい男なら大丈夫かも、と俺はどぎまぎするのをこらえてうなずいた。そしたら、近くのモーテルに連れていかれて、シャワーを浴びながら、頭の中が溶けてしまいそうな快感を与えられた。
美晴は俺に経験がないのを気遣って、その日から中に入ることをしなかった。とにかくすごく優しくて、俺はひと晩では終わりたくないと思った。
この人なら俺も受け入れられるかもしれない。そう思ったから、俺は美晴につきあいたいと言った。告白なんて女にもやったことがないのに。美晴は告白を受け入れてくれて、ついに俺は同性とつきあいはじめた。
美晴はふたつ年上で、俺をかわいがって愛してくれた。俺も美晴に素直に甘えられるようになった。軆もゆっくりほぐしてもらい、美晴を受け入れられるようになった。
美晴とのセックスはすごく気持ちよくて、美晴に会えないときは、俺はそれを思い出してマスターベーションするときもあった。軆にも心にも、美晴の存在が染みこんでいく。俺ほんとにゲイだったのかも、と思うくらい、美晴との恋は幸せだった。
でも、その恋は突然切断されてしまった。夏休みに入って初めて美晴に会った日、急に彼に触れてほしくないところに触れられた。
ほんとはストレートなんじゃないか。興味本位の同性愛じゃないのか。女とつきあったほうが幸せなんじゃないか。
もうそんなの、どうでもよかった。自分がゲイじゃなくても、美晴とつきあいたかった。美晴を心から愛するようになっていた。美晴以外なんて、考えられない。でも俺はそれをうまく説明できず、美晴は立ち去ってしまった。
カウンターに残された俺は、渡されたドリンクチケットを美晴がいつも飲んでいたと言っていたジントニックに変えた。さわやかな香りのライムスライスが飾られた、透明なカクテル。少し舌を浸したら、炭酸の中にほろ苦い味がした。
まだ俺には強くて飲めない、と残っていたオレンジジュースで口直しをすると、息をついてスツールを降りた。
「ねえ、いつも彼氏と一緒だよね?」
帰ろうとしていると、不意に肩をぽんと叩かれて、俺は振り返った。そこには金髪と口元のピアスがチャラい感じの男がいて、俺に向けて笑みを作っていた。
話したことはないけど、このバーで見かけたことはある気がする。俺はとっさにどう答えたらいいのかとまどい、その隙にそいつは俺の腕をつかんで顔を寄せてくる。
「さっきも一緒だったけど、彼、先に帰ってたね。喧嘩?」
「……別に、関係な──」
「なぐさめてあげようか?」
見透かした口調で微笑まれ、それが気に障って、俺はそいつの手を振りはらって歩き出した。「待ってよ」とそいつは追いかけてきて、いきなり後ろから抱きしめてくると、耳元でささやく。
「ひとりで泣くより、誰かと一緒のほうが楽だよ?」
「………っ、あんたに、何が分かるんだよ」
「分かるよお。俺も失恋したばっかだもん」
失恋。俺はうつむいて唇を噛んだ。
そうか。俺、失恋したのか。美晴のこと、失くしちゃったんだ。
「俺の彼氏、本命がいたんだよね。俺のことは、軆だけの遊びだったんだって」
「……え」
「ひどくない? それなら、初めから話して割り切らせろっての。俺ばっか本気になってたんだよね」
「そう、なんだ」
「君は? 彼氏、まじめそうに見えたけど」
「………、同じだよ。俺も軆だけだったみたい」
「マジで? ひどい男いるよねえ。俺たち、そんな軽い奴じゃないのにさ」
俺は視線を足元に落とす。割り切れなくなった、と美晴は言っていた。今のうちに、マジになる前に、引き返したいと。
つまり、今まで美晴は遊びで俺に接していたということだ。男は遊びだとは、確かに言われていた。けれど優しかったし、そんな言葉はゲイとしてちょっと卑屈なだけで、愛されていると思っていた。
違った。いや、これから美晴の中で俺が始まりそうではあったのだ。しかし、本当にゲイなのか怪しい俺に賭ける勇気は、持ってくれなかった。
「ねえ、俺のことなぐさめてよ」
そう言って、そいつは俺のうなじに顔を伏せ、甘えるようにつぶやいた。俺はしばらく考えていたけど、きっともう美晴は取り戻せないし、ほかの男を探さなくてはならないのは同じだから、「いいよ」と彼の手を取った。
彼は顔を上げ、「ホテル行こ?」と隣に並んで俺の肩を抱いた。その笑顔にかすかに気味の悪さを感じたけれど、俺はこくんとして彼とバーを出た。
美晴とはいつも同じところだったから、行ったのは初めてのモーテルだった。由樹と名乗った彼は、部屋に入るなり俺を壁に押しつけ、乱暴な口づけをしてきた。
早急にかきまわすようなキスで、ぜんぜん気持ちよくない、と思っていると、その場で由樹は服を脱ぎ、俺にしゃぶるように言ってきた。
「……あんまりやったことないよ」
そう断ると、「歯は当てないでね」と言われただけで、やっぱりやらされるみたいだった。美晴は、俺が少しでも躊躇うとやめてくれたのに。
俺は由樹の勃起しかけたものを口に入れ、わずかに陰毛からただよう小便の臭いに吐きそうになった。好きでもない奴の汚臭なんて、まったく愛おしくない。なのに奉仕をする俺は、何だかまるで売りをやっているみたいだ。
どうしよう。したくないな。こいつのこんなもん、軆に挿れてほしくない。てか、こいつ、ゴムつけるんだろうな。いや、口も生では危ないとどこかで読んだ気がする。やばいじゃん。病気移されたら、たまんねえんだけど。
そんなことを考えているせいか、俺のほうはまったく勃起しなくて、その気配のような腰の痺れもなかった。俺の舌のたどたどしさに由樹は露骨な舌打ちをする。そして、不意に俺の腕を引っ張って立ち上がらせた。
「何、」
「壁に手ついて」
「は?」
「挿れるから」
「え、いや、まだ──」
「フェラさせたから興奮したでしょ?」
眉を寄せた。何言ってんだ、こいつ。こんな臭いで誰が興奮するんだよ。
「ケツ向けてよ」
「ま、待ってよ。まずゴムを」
「俺、別に病気なんて持ってないし。そっち心当たりあんの?」
「ない、けど」
「じゃあいいじゃん。ガキができるわけでもないし」
「いや、それでも」
「大丈夫だよ。ほら、ジーンズ脱いで」
「や……やめろよっ。やっぱ嫌だ、したくない」
ジーンズの前開きをつかんで、ジッパーをおろされないように守り、俺は由樹を睨みつけた。俺の拒否に、由樹は「はあ?」と訳が分からない顔をする。
俺は苦々しい気持ちになった。こいつ、何かおかしい。ついてきた俺がバカだった。早く逃げないと。
「確かに、お前ならまともに相手にされないだろうな」
「あ?」
「こっちを便器みたいに思いやがって。彼氏に本気になってもらえなかったのがよく分かるよ」
「何だよっ、くそ、じゃあもういいからとりあえず一発──」
「ふざけんなっ。自分の右手で我慢してろっ」
俺はわめいて由樹を突き飛ばし、奴がよろめいた隙に部屋を飛び出した。「待てっ」と聞こえたから、ボタンを連打しながらエレベーターを待つよりも、隣の非常階段のドアを荒々しく開けて駆け降りた。
三階だったから、エレベーターより早く一階に着いて、モーテルを脱出することができた。息を切らして走った。ネオンの色彩がざわめく夜の街に混ざり、やっとほっとした。そして、そのまま人波をふらつく。
真夏の熱気があふれているのに、軆は冷たいような感覚が背筋に伝っていた。口の中にはまだあの汚臭が残っていて、俺は道端にたっぷり唾を吐いた。それでも気持ち悪くて、不意にさっき少ししか飲めなかったジントニックのほろ苦さを思い出した。
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