修学旅行の夜
僕は逃げられないのだろうか。もうこんなのは嫌だ。なのに、みんな僕の悲鳴を踏み躙る。いつまであんな屈辱につまづきつづけるのだろう。一生? だったら、死んだほうがマシだ。いったいどうすればこの無力感をぬぐえるのだろう。光のない耐えがたい絶望を逃げ出せるのだろう。
とっさにつかんできた荷物の重さに、肩がだるく痛かった。走る律動に合わせ、重量のある旅行かばんは跳ねて強く腰を打つ。息は乱れ、暴れる心臓は胸におさまるのを嫌がっているようだ。下腹部には、内臓を押しつぶす圧迫が生々しく残っている。
鼻をすすった。涙も止まっていない。夜を否定するイルミネーションは僕の視界では滲んでいる。すれちがっていく人。前を歩いている人。たむろしている人。周りにはいろんな人がいる。早足のOL。酔った背広のおじさん。はしゃぐ若者のグループ。寄り添いあう恋人同士。僕はその人たちを追い越し、突っ切って、背後に流しやっていく。立ち止まるのは怖かった。
もう、あそこにはいたくない。
手の甲で目をこすった。そこには見知らぬ夜の街がある。せっかくの秋の澄んだ空気は、排気ガスや煙草の煙にまみれている。何本にも束ねられた道路は渋滞し、巨大な交差点に人がうごめいている。あふれる雑音もさまざまだ。甲高い笑い声、取り留めのない会話、並ぶ店がこぼすポップス、いらだったクラクションがときおり喧騒を一蹴する。都会の街は昼と夜で雰囲気が違う。僕も都会で生まれ育ったけれど、夜に出歩くなんてできなかった。こんな夜の匂いは正直怖い。喉と胸のあいだで、刺されて服に血が染み渡っていくような暗雲が広がっている。これは、あてがない不安のせいばかりではないけれど──そう思ってきしんだこめかみに、またも視界が滲み、ぬぐうヒマもなく涙は頬を伝っていく。
怖かった。不安でたまらない。ここがどこなのかも分からない。一時間後にどうしているかも分からない。あそこに連れ戻されているのだけは嫌だ。
たくさんだ。どうしてあんな辱めを受けなければならない? みんな怖い。全部怖い。もがれた心は空っぽだ。怯えることしかできない。あんな仕打ちをされる理由が分からない。何で僕は、あんなふうによってたかられ、心を躙りつぶされるのだろう。
小学校の林間学校や、修学旅行でも忌まわしい出来事はあった。今回の中学生としての修学旅行にも悪い予感はあった。
小学五年生の林間学校、飯盒炊爨の薪を取りにいって、慣れない場所で道に迷った。優しそうな、でも知らないおじさんに道を訊いて、案内すると言われて影で股間を触らせられた。代わりに道を教えられた。小学校の修学旅行では、夜の部屋での自由時間、同室だったクラスメイトに抑えこまれた。四対一だった。みんなにズボンと下着を下ろされ、陰毛もよく生えていない股間をもてあそばれ、肛門をボールペンでこねくられた。そして、この二泊三日の旅だ。予感は的中した。
昨日の夜にも、同室のクラスメイトの性器を舐めさせられている。五人という数をまわされた。その中にひとり、すでに女の子と経験がある人がいて、彼は男の僕に勃起できなかった。だから射精でなく放尿を浴びせた。吐き出そうとしたら「床が汚れるだろ」と顔を上げさせられ、無理やり飲みこませられた。みんな笑っていた。舐めさせられているところを、ケータイで写真にも撮られた。このあいだも僕は、下着をおろされたところを写真に撮られ、学校中にばらまかれている。写真は証拠にならない。すべてを遊びに錯覚させる。
夜中、みんなが寝静まったあとトイレで吐いた。胃が空になっても粘ついた胃液を吐いた。ぐずっていると、見まわりの女の先生とかちあい、部屋でされたことを言おうと思った。けれど、いつものように怖くて言えなかった。部屋に戻っても、眠れず震えていた。髪を鷲掴みにされて揺すぶられためまい、口いっぱいの脈打ち、重なった精液の臭い、いろんなものが鮮明なまま、離れなかった。空っぽの胃は吐き気さえ呼べず、吐くものを絞り出そうとする痛みが断続していた。周りののんきな寝息が、憎いより怖かった。
二日目の夜、つまり今日、ついさっき──みんな、やはり僕を放っておかなかった。無視してほしくて、隅で荷物を無駄に整理していた。そうしたら、腕をつかまれて敷かれたふとんに引きずっていかれた。小柄な僕は、急成長するクラスメイトたちに力が敵わず、あっさりふとんに抑えこまれる。ふとんに押し倒されて、組み敷かれ、嫌がろうとしても、虚脱した精神がそれを妨げた。声を上げようとすれば息苦しさに喉が渇き、身をねじって逃げようとすれば頭が暗転して力が入らない。どうせ口は塞がれ、腕はひねりあげられるのだけど。
ズボンと下着を剥ぎ取られる。みんな笑っていた。それと共に性器をもてあそばれるけれど、このとき勃起したことなんて一度もない。できるわけがない。眼前に雑誌を突き出された。それが何か把握した途端、目を背けた。ポルノ写真だった。ネットで取ってきたものだろうか。陰部のぼかしさえなく、生々しく男の人と女の人が絡んでいる。「この女と同じ格好してみろよ」と言われ、泣きそうになった。それがどういう意味かは知っていた。
何とかかぶりを振った。当然通用しない。自分でしなかったら、人にされるまでで、 “同じ格好”にさせられた。
それ以降は、よく憶えていない。真っ白だった。何度も犯された。侵入してはかきまわし、突き上げ、直腸を破ろうとする放出が幾度もやってきた。精液の臭いが充満していく。下腹部が裂けてしまいそうな圧迫感に僕は泣いた。そんなのは気にもされない。痛みが痛みを引き裂く。さっきのような写真が何枚も教科書となって、変な格好をさせられまくった。軆が精液にまみれていった。べたべたしていた。「やめて」と言ったって、聞こえないふりをされる。カメラの閃光をたまに受けた。何も感じられなかった。無感覚に激痛が放電されるだけだった。すごく永く感じた。実際は、一時間もされていなかった。
二十時の就寝の時間が近づき、みんな遊ぶのをやめた。僕は自分で自分を片づけなくてはならなかった。みじめにも事を案じて余分に持ってきていた服に着替え、脱いだものをごそごそと片づける。だんだん、屈辱や嫌悪感が浮き彫りになってくる。いつもそうだ。最中は、麻痺していて分からない。恐怖で気がふれそうになるのは、いつだって終わってからだ。焼きつく痛みや光景や物音が断片的によみがえり、心臓がおののく。白濁する脳裏に視線が彷徨い、細胞が冷たくこわばっていく。
背後では、みんな何もなかったようにお菓子を食べている。今日まわったところや、明日の帰りのバスでのことを談笑している。数分前に壮絶に僕を辱めていた名残など、ひと欠片もない。
突然、怖くなった。あの人たちがたまらなく怖くなった。信じられない。なぜ、そんなにほがらかに笑っているのだろう。さっきの笑みとは正反対だ。あの人たちが分からない。点呼が済んだら、また何かしてくるのではないか。明かりのない、暗闇の中で、もっと無神経なことをしようとまさぐってくるのではないか。いや、仕掛けてくる。決まっている。その笑顔を剥ぎ、無邪気に僕で遊ぶ。息をつめた。旅行かばんの持ち手を握りしめる。 ここにいていいのだろうか。切実に自問した。あんなことをされて順応していていいのか。さらに恥辱を受け、虚しい心の空洞を増やすのか。瀕死の心に、このままとどめを刺されるつもりか。そんな義務があるだろうか──
そんなわけない!
恐怖が白光に破裂した。立ち上がった。荷物をつかんでドアに走った。はっとした同級生のひとりが素早く僕の腕をつかもうとする。自分で驚く敏捷さで躍り、僕はその手を避けた。さいわい鍵のかかっていなかったドアで、難なく廊下には出られた。さっきまで笑っていた声が後ろで焦った声を出す。僕は脇目もふらず、目についた階段を駆け降りた。
ずっと僕を無視してきた神様が、このときやっと味方してくれた。階段や廊下は他校の修学旅行の宿泊生徒でごった返していた。その上、学校が私服許可で僕は体操服じゃない。重なった幸運で、僕は悪夢のホテルを逃げ出すことができた。
そして、こうして走っている。体力がなくたって、跳ね上がった息切れと動悸に立ち止まるわけにはいかない。こんな痛みは心の亀裂よりマシだ。あそこにいたらいけない。確実に死ぬ。この心はずたずただ。傷は数えるのも億劫なほど大量で、測るのも恐ろしいほど深い。もう、この痛ましい傷口をひとつだって増やしたくない。
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