風切り羽-103

吐き出すように

 悠紗が僕の服を握ってきて、そちらを向く。リビングは真っ暗で、トイレがこぼす蛍光燈の明かりが頼りだった。が、それでも悠紗の瞳が、我が身に受けたように濡れているのは見取れる。
 僕は力なく咲い、「ごめんね」と言った。「え」と悠紗は狼狽える。
「うるさかったでしょ」
 悠紗は慌ててかぶりを振った。僕は悠紗を見つめ、その頭を撫でてみた。艶々の髪が指を流れる。悠紗はまごついた目をする。
「嫌?」
「ん、ううん」
「………、何かね、向こうでの夢、見ちゃって」
「ゆめ」
「うん。……学校、の。みんなの。それで、家のことも一緒になっちゃった」
 悠紗は僕を見つめる。僕はそっと悠紗を抱き寄せた。
「違う、よね。今は悠紗たちといるんだよね」
 悠紗は強くこくんとして、僕の軆にしがみついた。悠紗の体温が、僕の冷えこんだ軆を温める。
 悪いことしちゃったな、と思った。悠紗の感受性には、僕の苦しみは痛すぎたようだ。僕は悠紗の背中をさすった。そうしていると、僕も落ち着けた。
 そう、僕はひとりじゃない。悠紗も聖樹さんもいる。あのときとは違うのだ。悠紗の柔らかい体温や幼い匂いは、僕を今の安穏の現実へと引き戻してくれる。
 トイレを出てきた聖樹さんは、悠紗のほうが甘えているように見えたらしく、軽く苦笑した。手にしているタオルを片づけにいくのか、その足で洗面所に行く。
 悠紗は物音に顔を上げた。悠紗と僕は暗闇で視線を合わせた。気分は暗くても、呼吸や動悸は落ち着いてきている。
 僕はわずかながら微笑めて、悠紗の髪を撫でた。悠紗も咲い返し、隣にちょこんとしなおす。そこで聖樹さんがやってきて、後ろ手に引き戸を閉めると、真っ暗になるからか、トイレの明かりはつけっぱなしに歩み寄ってきた。
「ちょっと、落ち着いた?」
「あ、はい。ごめんなさい」
「構わないよ。ほら、悠は寝ないと」
 聖樹さんに抱き上げられそうになり、悠紗はもだえて嫌がる。
「起きちゃったもん」
「ベッドに入ったら眠れるよ。軆壊してからじゃ遅い」
「萌梨くん、ひとりにしたらダメなの」
「僕がいるよ。あ、萌梨くんは悠もいたほうがいいかな」
「えっ。あ──」
 聖樹さんの腕の中にいる悠紗と見合った。悠紗。いてくれるのならいてほしくても、そうなると、吐き出す告白ができるのか危うくなる。
 悠紗が聞けるというのなら僕は話してもいいけれど、ポルノだの輪姦だの耐えられるだろうか。行為自体は分からないだろうが、僕に残ったものでその手酷さは悠紗は感知できるはずだ。
 それに、悠紗は聖樹さんと僕が通ずる体験で傷ついたと知っている。僕の告白は、聖樹さんの傷口の漏出にもなる。
 悠紗は僕を見つめてきている。僕も悠紗を見返し、ゆっくり口を開いた。
「悠紗、ね」
「ん」
「僕の話、聞ける?」
「えっ」
「悠紗には、つらいかもしれない」
 悠紗はまばたきをした。そして小さくうつむいて考え、結論は聖樹さんを見上げての、「おとうさんは聞いてあげてね」という言葉だった。聖樹さんはうなずき、悠紗を抱き上げる。
 悠紗は僕をかえりみた。僕が謝ると、悠紗はかぶりを振る。
「萌梨くんが痛いのは、聞かなくても分かるもん」
 僕は少しだけ微笑んだ。そうだよな、と思った。話されても本能的な痛みしかまだ感じ取れない。でも、そんな痛みだったら、悠紗は話されようが黙っていられようが、とっくに察知しているのだ。
 ふたりは寝室に消え、僕はしばしリビングにひとりになる。
 寒さに身震いして、まくらもとに置いてある上着を羽織った。ため息をつくと、室内の静けさに気づかされる。
 呼吸はだいぶ落ち着いていた。心臓は左胸に収まっている。
 カーテンの向こうでは、深夜の暗闇の殻を破ろうとする気配がしていた。朝になっちゃうな、とうつむいて肩の力を落とし、もう一度、鼻をすする。
 何分かすると、聖樹さんは戻ってきてくれた。僕と顔を合わせると、聖樹さんは微笑む。聖樹さんは明かりでなく非常燈をつけた上で、トイレの明かりを消してきた。「寒くない?」と訊かれ、「少し」と答える。「あったかいもの作ろうか」と言われ、甘えさせてもらうことにした。
 聖樹さんはココアを作ってきてくれた。湯気の立つカップに口をつける僕の隣に、聖樹さんは腰をおろす。
 熱いココアを飲むと、気持ちも鎮まってきた。朝が来る、とはいっても、冬が近いのでその切り開かれ方はゆっくりだ。部屋は暗く、聖樹さんの顔は橙々の非常燈でぼんやり見える程度だ。
 聖樹さんは伸ばした脚をさすり、僕を向いた。僕は不明瞭に咲って、「迷惑かけちゃいましたね」と言った。聖樹さんは首を振る。
「迷惑じゃないよ。気にしないで。僕こそ、お節介じゃないかな」
「いえ、ぜんぜん。僕、危なかったですね。何か」
 自卑して咲い、ココアを飲む。聖樹さんはそれには口をつぐみ、言葉を選んだのちに、ときどきああなっていたのかを問うてくる。「向こうでは」と僕は答えた。
「こっちに来てからは、初めてです」
「そう」
「何でですか」
「いや、気づいてあげられてなかったのかって」
「我慢、してたところもあります。夜に泣いたことだったら、何度かあります」
 聖樹さんは僕を見て、「そう」とちょっと寂しそうにする。
「聖樹さんが、頼りないっていうのじゃないです。甘えていいのか分からなくて。眠ってるところを起こすのも悪いし。僕はここで毎日ぼうっとできても、聖樹さんには仕事もありますから」
「構わないのに」と聖樹さんは微笑む。
「疲れませんか」
「慣れてるよ。ひと晩ずっと眠れずに仕事、っていうのもよくあるし。それに、同じ眠らないでも、不眠症と萌梨くんと話すのは違う。萌梨くんに利用してもらえるのは、僕には落ち着くよ」
「………、そ、ですか」
「いないほうがいいなら」
「い、いえ。いてくれるなら、いてください。今、ひとりになるの怖いです」
 聖樹さんはうなずいた。僕はため息で水面を揺らした熱いココアを飲む。体内から温まっていくのは、肌からより発熱する。
 しばらく、聖樹さんも僕も黙っていた。僕がココアを飲みこむ音が、やけに響く。
 悠紗は眠ったかな、と思った。明日──というか今日、多少は説明したほうがいいのだろうか。
 朝の気配はあっても、なかなか明るくはならない。ココアが半分ぐらい減ったときに、僕は温まった吐息をついた。
「夢、見たんです」
 聖樹さんは、床に流していた視線をこちらにやる。
「去年の、一年くらい前の。一年生のときですね。十月の終わりで、文化祭も中間考査も終わって、学校がわりと落ち着いてくる時期でした」
 あの夢もまた、正確だった。欠落も脚色もない。語彙が足りる限りで、あの夢をたどればよかった。
 ぽつりぽつりと話していたのだけど、性器を口をふくまされたあたりから声が震えてきた。聖樹さんは、僕の背中をさすってくれる。
“同じこと”をさせられたのを語りながら、話してどうなるんだろう、とつらくて思わなくもなかった。でも、やめなかった。吐いたら楽になると思った。おかしくなりながらも、それは思った。言葉としてではなく、汚物としてだったけれど。
 いつだって、吐き出したくてたまらなかった。でも、できなかった。笑われるのが、信じてもらえないのが、ないがしろにされるのが怖くて。何よりも、そもそも聞いてくれる人がいなくて。
 認めてほしかった。苦しくてたまらない。そんなのを口にし、顕示するのは恥ずかしい。でも、誰かに聞いてほしかった。痛みの存在を認めてほしかった。
 僕が確かに傷ついているのも、あれが傷つくことだったというのも、せめて同級生やおとうさんが間違っていることぐらい。あの人たちのしたことが普通だと、当たり前の何でもないことだと定義しない人が欲しかった。
 聖樹さんはしない人だ。できない人だ。話してもいい、と思う。いや、話したほうがいい。この人に話さなかったら、いったい誰に話すのか。聖樹さんほど僕の苦痛を痛感できて、すくいとって、寄り添ってくれる人はいない。そしてそう確信できること自体で、僕には聖樹さんなのだ。

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