風切り羽-106

将来のこと

 毛布も干し終えると、部屋に入ってガラス戸を閉めた。「母親みたい」と沙霧さんに言われ、いささか複雑になった。
 事実、僕は向こうではおかあさんだった。家事も世話も、夜のことにさえ──。
 振りはらった。沙霧さんに、そんなつもりはない。他面、ここの空間になじんでいるという意味にも取れる。そう思って心を抑え、沙霧さんに咲い返した。
 悠紗は感知したようだ。数時間前に、僕の強烈な鬱を受けて敏感になっているのだろう。こちらをじっと見つめてきた悠紗に咲って、「何か食べてもいい?」と訊いた。悠紗はこくんとした。
 沙霧さんは、よく分かっていない悠紗相手に高校を愚痴っている。トーストを焼く僕は、笑いを噛む。沙霧さんも大変なんだよなあと思った。
 ここで知り合った人たちの中では、沙霧さんが一番平穏なように感じる。そうでもないのだ。破綻した過去もあるし、周囲とは反りが合わないし、受け入れてもらえないと予見して秘めている部分もある。なのに、相変わらず僕の瞳に平穏に映るのは、沙霧さんがここでなら息抜きができているためだろう。
 バターの染みこんだトーストと電子レンジではじけさせたウインナー、それとミルクティーを連れてリビングに帰ると、沙霧さんはいつのまにか私服になっていた。何で、と思ったのが顔にも出たのか、沙霧さんはカーキのデイパックをたたいてしめす。
「萌梨、今が朝飯」
「あ、はい。その、寝坊して」
「そっか」と沙霧さんは納得し、伸ばした脚に上体を折って憂鬱そうな息をつく。詮索しないというより、今は僕の寝坊より自分の周囲であるらしい。
 僕は悠紗の隣に座った。悠紗は困った顔でこちらを仰いで、僕はトーストをかじりながら苦笑いする。
 進路かあ、と考えた。来年は僕も受験生になる。現在のところ、僕は本気で将来が見えない。たぶん沙霧さんより見えない。来年どうしているか、冗談抜きで定かではない。
 昔はそうでも今はひとりじゃない、と聖樹さんは言ってくれた。が、未来は言い切れたものではない。僕は将来、またひとりぼっちに転げ落ちていないだろうか。これを断言して否定する要素は、僕が思いつく限り、ない。
 まあ、精神的にはひとりになることはないか。すぐ眼前に流される性質を投げ打って浅はかに思い、沈みそうになった心から目をそらした。
 僕のほうが深刻、ということもない。沙霧さんも本気で悩んでいる。どちらかといえば、行きたい方向を周りが許してくれないのが理不尽であるようだ。沙霧さんがそうしたいのならそうするのが最良なのに、そう思えないのが親であり、学校なのだろうか。
 トーストを飲みこんだ僕は、「大学行かなくてどうするつもりか、言ってみたらいいんじゃないですか」と言った。沙霧さんは僕に顔を向けた。
「つもり、ねえ。別に、働いて飯食ってるだけだろうし」
「それじゃダメなんですか」
「画期的な返事。ダメらしい」
「親に頼ろうとはしてないんですよね」
「そりゃあな。高校卒業したら、ひとり暮らししていいって約束だし。自分で食うよ」
「じゃあ、誰にも迷惑かからないんじゃ」
 沙霧さんは軆を起こし、「だよな」と言った。
「でも、それじゃダメなんだよな。何かしなきゃいけない。食ってくだけはもってのほか」
「サラリーマンの人とかも、食べていくだけですよね」
「なあ。違うのは安定かどうか、か。安定ってそんな大切か。学校の考えてることはよく分かんねえな。悠はいいよなあ」
「僕」
 悠紗は僕のウインナーをひとつつまんでいる。
「先公に物言わせなくて、好きなことに味方してくれる親がいて」
「そおかなー。おとうさんはそうか。おじいちゃんは、沙霧くんのしたいことをダメって言うの?」
「まあな。ありゃどんなに気張っても最終的には堅物だし。学歴コンプレックスもあんのかな。兄貴がコンピュータ系に行ったのも、とうさんが最先端に立ちたい自分の望みを託した感じだったし」
「そうなの」と悠紗が睫毛をぱちぱちさせる横で、そうなのかとフォークにウインナーを刺す僕も思った。
 でも、分からなくもない。聖樹さんにはしたいことなんかひとつもなかったと思う。むしろ、したくないことばっかりだったはずだ。人間関係、自活、そもそも生きていくこと。能動ができないし、言われたら断れない受動性もある。そのままになっておくしかなかったのだ。それでも周囲を無視してゆっくり考えるには、食べさせなくてはならない悠紗もいた。
 首席というのも分かる。目立たないよう“普通”に心血をそそぎ、なかば盲目的になって、結果必要以上のものまで生んでしまったのだろう。そのすりきれる蓄積が限界になって、例の壊れた時期がやってきたのかもしれない。
 何というか──つらいなあと思う。
 ちなみに、聖樹さんの仕事がコンピュータ系だということは、僕は今知った。ノートPCを仕事に使っていたのも、まとめやすいとかでなく、単にそういう仕事だったからのようだ。
「おばあちゃんも、どうするのっていうの?」
「かあさんはまだマシ。つうか、婉曲なのか」
「えんきょく」
「遠まわしってこと」
「とおまわし。ふうん。じゃ、気づかないふりしてればいいんだね」
「そう。まあ一番うるさいのは先公な。大学ぐらい行かなくてどうするだの何だの。高校のときと一緒。こっちとしては、行ってどうするって感じだな」
「言った?」
「言った。甘ったれてるだけだとさ。社会はお前が想像するより厳しいとか。俺、先公がそう言うの昔っから不思議なんだ。先公って、学校に閉じこもって一度も社会に出てないじゃん。何で社会がどうのって言えるんだろ」
「みんなが言ってるの真似してるんだよ」
「はっきり言う」と沙霧さんは咲った。僕も思った。
「沙霧くん、甘えてるかなあ。ほんとに甘えてるのって、外れないようにいい子にしてることだよ」
「そうか?」
「そうだよ。自分に優しいの。沙霧くんのは自分に大変でしょ」
 沙霧さんは咲い、「悠みたいな奴が、もうちょっといたらな」と言う。
「俺が分かんないのって、周りがとっとと将来のこと決めすぎなとこだよな。俺は今んとこ、サラリーマンだけにはなりたくねえっていうのしか分かんない」
「それ分かってたらいいよお。分かんない人が、先生とかおうちの言う通りになっちゃうんでしょ」
「分かってる奴もいるけどな」
「沙霧くん、分かんないからって周りと同じにしないからいいんだよ」
「そっか」と沙霧さんは気が楽になったふうに咲う。
 悠紗は音楽方面に進みたいわけだけれど、カウンセラーなんかも向いているのではないかとふと思う。が、よく考えたら悠紗は心を開き合った人にしかそうしないのだった。でも、音楽でそういうことを表現したら支持されるだろうなとまだ思う。
「悠はかなり好き勝手やってるよな。保育園からすでにばっくれてるし」
「へへ。萌梨くんがいてくれるし。そういえば僕、保育園お休みしますってなったんだよ」
「もう休んでんじゃん」
「そうじゃなくてね、こないだの土曜日、保育園に行って、辞めますって言いに行ったの」
「え、辞められるんだ」
「うん。というか、僕が行きたくなかったらずっとお休みしてますってなったの。で、もうあっちは何か言ってきたりはできない」
「辞めたも同然じゃん」
「うん。おとうさんがそうしてくれたんだよ。僕が嫌ならそうしなさいって」
「兄貴かあ」と沙霧さんはしみじみと床に瞳を流す。
「いいよなあ。俺も兄貴みたいな父親が欲しいや」
 葉月さんも言っていた気がする。
 僕も聖樹さんが父親だったら理想的だ。悠紗は実際に聖樹さんが父親で、いいよなあとつくづく思う。自分の父親が終わっていただけに、所感はひとしおだ。
「悠はそうしてんの無意味でもないんだよな。音楽したいんだっけ」
「うん。今、紫苑くんがいるんで、進んでるよお」
「紫苑さん、っつうとギターか」
「ちょっと弾けるんだよ。紫苑くんみたいにすごくはなくても、指は動くの。先にベースもしたからかな。今、じさつ、っていうの練習してる」
「自殺……。まあいいか。紫苑さんみたいになりたい?」
「んー。すごさはね。やることは僕だけのをしたい」
 沙霧さんは、うらやましいような情けないようなため息をつく。
 僕もその気持ちは分かる。沙霧さんも僕も、環境は違えど、未来が判然としていない。悠紗のように、何がしたいという指針が決まってるのには、羨望を抱かずにはいられない。たった六歳の子供も確立しているその指針を、自分は持っていないのにも、悠紗がいくら特別な子ではあれ、複雑になってしまう。
「まあ」と沙霧さんはその想いを自分の中でくくった。
「悠は悠か。決まってるなら、それに合うようにやってみるのがいいよな」
 沙霧さんの言葉に、「うん」と悠紗はにこにこした。悠紗は、好きな人に自分の信念を認めてもらうのが好きだ。悠紗は悠紗。それもそうだなと僕も納得して、ミルクティーを飲んだ。
 沙霧さんを追いかけてくる人も現れず、その日は三人で過ごした。
 昼食には、かくまってくれるお礼だと沙霧さんがピザをおごってくれた。僕はトーストを食べたばかりだったので、フライドポテトだけつまんだ。一応悠紗が、「お腹空いて食べたらいいよ」とふた切れ取っておいてくれる。
 昼食のあとは、沙霧さんがいるのでゲームだ。ふたりが対戦をやる隣で、僕はおとなしく雑誌を読む。
 ひたすらこの雑誌を読みこんでいた。意味は分からなくても、何にもしていないよりは頭を何かに紛らせておいたほうがいい。
 特に今日は、そちらが安全だ。鬱に堕ちこんでいなくてぐったり休むのは、かえって思索が動いて危ない。大仰にして悠紗たちを心配させたくもない。
 ついていけないノリの投稿のページをめくっていると、「何読んでんの」と沙霧さんが隣にやってくる。
「え、あ──何か、音楽の」
「萌梨もそっち目指すのか」
「いえ、まさか。買ってきてもらったんで、ヒマつぶしに読んでるんです」
「ふうん。あ、梨羽さんたちのこと載ってんの」
「載ってないです。あ、沙霧さんがお話してくれた人たちは載ってますよ。初めのほうに」
「え。ああ、サイコミミック?」
「読みますか」
「いや、そこまでの好きではないし。聴ければいいんだ。でも、巻頭か。出世したな」
 沙霧さんは咲い、僕の膝の雑誌を取ってめくる。どうしても沙霧さんに勝てないらしい悠紗は、対戦していたゲームを機械相手で練習している。

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