打ち明けた心
電話。まだ遅くなるということか、もう帰るということか。まだ遅くなるのなら、沙霧さんに送ってもらったほうがいいのではないか。
聖樹さんの成長を信じないような、やや失礼な心配をしつつ、引き戸を抜けてラックにバスタオルとフェイスタオルを分けて置く。「よし」と独白してリビングに帰ると、「あ」と悠紗が振り向いてきた。
「来たよ。──うん」
「何?」と首をかしげる僕に、悠紗は手招きしてくる。僕は小走りにそこに行くと、悠紗は耳に当てていた受話器を外し、僕にさしだしてきた。
「おとうさんがね、萌梨くんに代わってって」
「僕」
「うん」
「何で」
「さあ」
はぐらかしているのでなく、本当に分からないようだ。何だろ、と受話器を受け取り、耳に当てる。
電話で聖樹さんと話すのは二回めだ。「もしもし」と呼びかけると、『萌梨くん?』と聖樹さんの物柔らかな声がした。
「はい。あの──聖樹さんですよね」
『うん。ごめんね、いきなり電話して。びっくりさせた?』
「ま、あ。多少は」
『そっか。僕だって分かるような合図決めておかないとね。洗濯物、取りこんでくれたんだってね。ありがとう』
「いえ。えと、帰ってくるんですか」
『いや、その──それで電話したんだ。今日、そっちに帰れないと思う』
「えっ」
『で、ごはんとか戸締まりのこと言っておきたくて。何も言わずに帰らないのも迷惑だし』
「は、あ」
『急なのは謝るよ。僕も、朝にはそんな予定なかったんだよね』
「い、いえ、それは別に。でも、何でですか」
無意識だった僕の質問に、聖樹さんは口ごもった。
何だろう。今日は帰れない。聖樹さんが帰ってこない。ここにやってきて聖樹さんがいない夜なんて、初めてだ。
何かあったとして、悠紗と僕のふたりきりで大丈夫なのか。変な人が来たらどうしたらいいのか分からない。
正直とまどわされ、沙霧さんと何かあったのだろうかと狼狽していると、向こうで呼吸の整えが聞こえた。
『萌梨くん』
慌てて「はい」と聴覚に集中を戻した。『あのね』と聖樹さんのややこわばった声がする。
『僕、話したんだ』
「は?」
『沙霧に、話したんだよ。全部。昔から、今までのことを』
「えっ──」
反射的に言い、ついで緘黙した。即座に、その意味を理解できなかった。
悠紗はいつのまにか勉強に戻っている。聖樹さんの抑えられた息遣いが聞こえる。
まばたきを忘れた視線を下げる。途切れがちの吐息が出る。いや、以前そう勧めたのは僕だ。が、忘れられたと思っていたので、不意打ちを食らった所感は免れられなかった。
話した。聖樹さんが。沙霧さんに。あのことを。すべてを。
『……萌梨くん?』
聖樹さんの窺う声に、はっとした。が、何と言えばいいのか言葉が浮かばない。
『何か、悪かったかな』
「え、あ、いえ。その、いきなり、ですね」
『そう、かな。まあそうか。僕の中ではずっと考えてたんだ。萌梨くんが沙霧に話したって教えてくれたときから』
「はあ。あ、じゃあ僕がせっついたみたいな」
『ううん。自分で決めた。萌梨くんといろいろあったのが決心つけてくれたのは事実だけど』
「いろ、いろ」
『うん。夜、そばについててくれたり、昨日にはその逆もあったし。沙霧には、僕には萌梨くんが必要だってきちんと分かっててほしかった。萌梨くんなら沙霧は受け入れたっていうし、話したあとも昨日見たらぎくしゃくしてなかったし。大丈夫かなって思えてきて』
「そ、ですか」
『怖くもあったよ。身内だったら、ショックとか受け取り方も変わるし、ずっと隠してたのもばれる。萌梨くんが告白で仲良くなれたのは、不審がられてたせいでもあって、僕だったらその反対になるかもとか。考えてたんだ。ずっと。一ヵ月』
一ヵ月。そうだ。今は十一月の終わりで、あの話をしたのは十一月の初めだった。確かEPILEPSYの宣伝をした頃だ。
聖樹さんが悩んでたなんて、ちっとも気づけなかった。内心、情けなくなる。
「え、と。じゃあ、お話したんですか」
『うん。した』
短い答えには種々の想いが交錯していた。後悔の感触はない。それで沙霧さんとどうなったのか察知はできても、一応問うておいてみる。
「沙霧さん、どうでした」
『大丈夫、だった。かなり動顛はさせたかな。信じてもくれた。萌梨くんのおかげだよ』
「え、僕──」
『僕が他人の萌梨くんを部屋に受け入れてることでね。自分がそういうことされてたんだったら、それは萌梨くんを放り出せるわけないって。萌梨くんのおかげで助かったとこが多かったよ。ありがと、って言ったら萌梨くんには変かな。でも、ありがとう。早く言っておきたくて』
何と答えればいいのか測れない。どういたしまして、では恩着せがましいし、そんなことはない、では謙遜っぽい。「聖樹さんの気持ちがあったからだと思います」と妥当に言うと、『うん』と聖樹さんは咲った。
「え、と──じゃあ、帰らないなら、まだ話すんですか」
『いや。そんな長く話してもね。途中で泣いちゃったりして、それで時間がかかったんだ。やたら前置き長かったし。萌梨くんのこと、切っかけに使っちゃった。ごめんね』
「いえ、構わないです」
『よかった。で、その、会社の近くの公園まで行ったんだよね。そこ植物もあってすごく広いんで、遊具と離れたとこだったら人が来てもごちゃごちゃしなくて。そこで話して、話し終わって、さっきまでふたりでぼーっとしてた。そろそろ帰らなきゃ、ってなったら沙霧に止められたんだ。親にも話すべきだ、って』
僕のほうがどきんとする。
親。思いがけない提案だ。
『そんなこと言われるとは思ってなくて』という聖樹さんの言葉も、僕の感想があながちはずれていないのを裏づける。
『びっくりしたよ。断った。沙霧に知っておいてもらえばいいって。でも、食い下がられた。僕が思ってるより、親は僕のことで悩んでるって。とりあえず一回話して、見切りつけるのは理解してもらえなかったあとでもいいだろって』
「……とりあえず」
『そんなので話せるものでもないよね。そしたら、逃げてるだけだとかも言われた。親は僕が話そうとしないから無視してるだけで、ほんとは受け止めたがってるんだって』
いつだかの、悠紗と沙霧さんの話がよみがえった。聖樹さんの両親は、そっけなくしていても実は聖樹さんを心配していると。
『僕は、親が受け止められるかどうか分からない。そんな生半可なものでもない。気持ち悪がられるかもしれないし、それぐらいって決めつけられるかもしれないし』
聖樹さんの不安は感じられる。受け止めたがっている、とはいえ、聖樹さんの両親は聖樹さんの苦しみがそんなことだとは予測していないだろう。
イジメられたのではないかとか、あの女の人に何か踏みにじられたのではないかとか、そのへんだと思う。同性に性虐待を受けていたなんて、いくら想像を広げても引っかからない。いや、この時世でそういう虐待ぐらい知っているかもしれないが。
そうだったとしても、まさか自分の息子が、という想いが強いだろう。予想外であればあるほど、度量より反射が物を言い、受け止めてもらえる確率は不安定になる。
僕にはどう言えばいいのか分からない、というのもあった。聖樹さんの両親は普通で、おそらくどこにでもいる親だ。僕の両親は非常識で、あってはならない親だった。僕は普通の親の心持ちというのを知らない。
普通の両親が、子供が想像だにしなかったことを受けていたと知って、どう思うか。ぜんぜん推測できない。ごく平凡な神経が勝って信じがたさに拒絶するか、もしかしたら、いざというときの愛情が勝って受け止められるか。どちらだと言い切ることはできない。
僕は、家族愛がどれほどの力を持っているのかを、さっぱり知らない。
『沙霧には、彼女とダメになった話もしたんだけど』
聖樹さんの口調はどことなく幼い。僕は耳をかたむける。
『彼女に話さなかったのは正しいって言ってくれた。沙霧の彼女への厳しさを抜きにしてもね。で、彼女と両親は違うって』
話したいのか話したくないのか、聖樹さんがどっちなのかつかめない。ひとまずつかめるのは、聖樹さんがその不断で沙霧さんに押し流されそうになっている感だ。
「お話、するんですか」
『……沙霧が逃がしてくれなくて』
「聖樹さんが決めなきゃダメです」
思わず断定の口調を使ってしまうと、聖樹さんは黙った。そののち、「うん」と小さくつぶやく。
きつく言ってしまっても、これは絶対だ。流されて話すものではない。あやふやな心を揺すぶられて煽動されるなんて、子供の頃のままだ。それを言うと、聖樹さんはしばし沈黙して、「話すよ」と言った。
『僕、ずっと、どうせ誰も分からないから、溜めておくほうがいいと思ってた。知っておいて気にしてくれる人なら梨羽たちがいるし、いつかは悠もそうなるしって。でも、萌梨くんといて、共有っていうのかな。分かってくれる人がいると、どんなに楽になれるか分かったんだ。僕の気持ちに沿った言葉とかを知っててくれる。僕の親は、やっぱりダメかもしれなくても、でも、もしかしたら、っていう可能性もゼロじゃない。せっかく、絶望的じゃない人ないんだったら、賭けて話してみてもいいかなって──』
聖樹さんは口ごもり、再考する沈黙を流す。僕も待っていた。僕が押しつけることではないと思ったのだけど、その放任は聖樹さんを不安にさせてしまったようだ。
『……やめておいたほうがいいかな』
僕の無言に、聖樹さんは怯えた声を出す。
「聖樹さんは、そう思いますか」
『分から、ない。すごく、怖くはある。だって、僕──突然言えるか分かんないんだ。昔、男に犯されてたなんて、そんなの、……嫌われるんじゃないかって」
聖樹さんの声は泣きそうだ。
嫌われる。言いたくない、や、恥ずかしい、ではなく、嫌われる。
家庭崩壊で育った僕には、じゅうぶん諭してみるのに役立つ発言だった。聖樹さんが発破を求めているのなら、僕には言ってみる価値のある言葉が浮かぶ。
「聖樹さん、僕は両親に嫌われるかどうかなんて、心配したことないんです」
『え……』
「元から何とも思われないのを知ってたからです。僕がおかあさんに何にも言えなかったのは、聞く耳を持ってもらえなかったからです。おとうさんに言わなかったのは、それがどうしたって言われるのが分かってたからです。嫌われるかもとか、そんなんじゃなかったんです。嫌われるかもって怖がるのは、想われてるっていうのを聖樹さんも分かってる証拠だと思います」
聖樹さんは面食らって何も返さなかった。いや、電話なので顔は見えなくとも、聞こえる緘口で分かる。
僕は自分の両親を思う。嫌われたらどうしよう。一度も思わなかった。そもそも、僕のほうがあのふたりなんか大嫌いだった。あの家庭には、崩壊させたくない大事なものなんてひとつもなかった。
「両親に想われてない子供は、そんなこと、もう怖がらないんです。怖がらなくても分かってるんですよ。怖がるだけくだらない期待です。聖樹さんはきちんと怖がってます。怖がる、ものがあるんです。壊れたらどうしようって思うものが。たぶん、ですけど。僕、家族のことってぜんぜん分かんないんで」
含羞と自嘲を混ぜて咲った僕に、聖樹さん一時黙し、「ごめんね」と言った。
『ごめ、ん。ダメだね、いつも僕のほうが子供で』
「いえ。別に」
『ほんとはね、萌梨くんがどう言ってくれるのか訊いてから決めたくもあったんだ。ありがと。そうだよね。話すよ。話せる』
聖樹さんはそう言って、自分で自分を納得させる。
【第百十章へ】
