風切り羽-11

ここにいたい

 髪に光がそそいでいる。その抑えられた強さが、ぶあついまぶたを軽く薄くして、潤びた脳がぼやけを流出していく。ぼんやりと目を開けた。鈍く仰向けになると、陰る光を浴びた白い天井がある。
 どこだっけ、と思った。ついで、昨日も思ったな、と思った。何秒か思案し、ここが鈴城家であるのを思い出す。そう、僕は昨日もここに泊まらせてもらったのだ。
 起き上がると、胸元の重みがぐっとみぞおちに食いこんだ。走った頭痛に、どさっとふとんに仰向けになる。また悪い夢を見ていたようだ。内容は憶えていなくても、この名残で分かる。軆を横に向け、口元を抑え、吐き気を後退させた。神経をとがらせ、しばらく心身のだるさと格闘する。ずきずきする頭蓋骨が、しくしくするこめかみに収まると、引き攣れた吐息をもらしてそろそろと起き上がる。今度は何も突き刺さらなかった。けれど、かきあげた前髪は湿っていた。
 すずめのさえずりや、外の話し声のほか、部屋はしんとしていた。作りがいいのか、ここは上の階の足音が頭上に障らない。部屋を見まわし、誰もいないのを確かめた。カーテン越しにも朝陽が燦々としている。秋気が澄んで肌寒くとも、その陽の光に当たれば暖かかった。
 時刻が六時半なのを知ると情けなくなった。僕は毎日この時間に起きる。昨日は早くに眠ったし、習慣が働いたようだ。とはいえ、朝を担う必要はなく、胸騒ぎを鎮める時間は持てた。これが家だと、目覚め直後に全部押し殺して立ち上がり、重たい一日を始めなくてはならない。こうしてくつろげる時間にいると、それが物凄く負担になっていたのが分かる。心の暗澹に僕の意思は及ばなくても、身体的な頭痛や吐き気は、感情を止めれば時間が鎮めてくれた。
 ふとんを剥いで立ち上がるとくらつきが襲った。だがそれは寝起きのおぼつかなさで、均衡が取れると視界は水平になった。ふとんを片づけて隅にやると、まだ使うことに躊躇いのあるトイレに行かせてもらう。リビングに戻って、ふとんの脇に座るとすることはなくなる。
 どうしようかな、と目をこすっていると、寝室で物音がした。そちらを向くと、聖樹さんと悠紗が揃って出てくる。合った視線に軽く頭を下げると、「おはよう」と聖樹さんは微笑んだ。
「おはようございます」
「起きてたんだ」
「今さっきです」
「そう。待ってて、すぐ朝ごはん作るよ。ほら、悠、離れて」
「うー」
 悠紗は、聖樹さんの脚に隠れてまぶたをこすり、部屋の明るさと戦っている。始動したそうな聖樹さんに、僕は悠紗の名前を呼ぶ。悠紗は顔を覗かせて僕を認めると、くしゃくしゃの顔のままこちらにやってきた。
「萌梨くん、泊まってくれたんだあ」
「うん。おはよう」
「おはよー」
 寝起きのせいか、悠紗の口調は幼く舌足らずだ。僕は悠紗の寝ぐせのついた頭を撫で、聖樹さんを見上げた。聖樹さんは咲って肩をすくめ、まずトイレに入る。悠紗はまばたきをして、朝陽を瞳孔に慣らしていた。
 朝の身支度を終えると、聖樹さんはキッチンに立った。目が慣れた悠紗も、トイレや着替えにうろうろする。僕は顔を洗わせてもらい、カーテンを開けるかどうかを聖樹さんに尋ねた。「お願い」と言われてカーテンを開くと、まばゆい朝陽が部屋に舞いこむ。青空は雲も少なく、よく晴れていた。僕はベランダに出ると、涼しい風に髪を揺らして、洗濯物の具合を見る。
 濡れてはいなくても、布はひんやりとしていた。腋や股といった要所は湿っている。これを取りこんでかばんに突っこんでも、カビが生えるのがオチだ。悩んでいると、後ろのガラス戸が開いた。
「わっ、天気いいね」
 悠紗だった。着替えも寝ぐせ直しも済まし、陽射しに目を細めている。
「乾いてた?」
「ううん。湿ってる」
「じゃ、まだ干さなきゃね」
「いいのかな。聖樹さん、洗濯するんじゃない」
「昨日いっぱいしちゃってたもん」
「そっか」と素直に受け入れると、部屋に戻った。焼き魚の匂いがしていた。今日は和食かな、と推していると、悠紗が僕の綿パンツを引っ張ってくる。
「萌梨くん、今日は大丈夫だった?」
 悠紗の懸念の表情にきょとんとし、ついで、昨日の朝を思い出して微笑んだ。うなずくと悠紗はほっとして咲い、「ありがと」と僕が言うと、笑みを照れ咲いに移した。
 聖樹さんは手早く朝食を作り上げ、「ごはんは昨日の残りなんだけど」と謝って食卓に並べた。焼き魚はくねったししゃもで、味噌汁と瓜の漬物がついている。僕は、相変わらず家族のひとりみたいに食卓につかせてもらう。
 その日も一日平穏だった。気分が暗くなりそうになっても、聖樹さんや悠紗が話しかけてきて、さりげなく引き上げてくれる。悠紗はゲームをして、僕はそれを眺めて、家事を片づけた聖樹さんはテーブルにノートパソコンを開いた。書類も隣に置いているから、たぶん仕事だ。昼食後もそんな感じで、ゆったりした時間に僕は無理なくいられた。
 ふたりとも、僕を追い出す空気は発さなかった。明日は月曜日だ。数時間後にはここを出ているのを覚悟しつつ、僕はここの空気に肌をなじませてもいた。この部屋は無条件に心地よかった。今まで得られなかったものが、確かに流れこんできて、枯れていた心をやわらげてくれる。喉が通って呼吸が楽になり、虚しさに真っ逆様にもならない。ここには僕に欠けたものをおぎなうものがただよっていて、それさえつかめば、傷口に溺れずに済んだ。
 日も暮れて夕食が終わった頃、何やら悠紗に落ち着きがなくなってきた。視線をうろつかせたり、クッションを座り直したり、「どうしたの」と訊くと、悠紗は曇った表情を僕に向けた。
「ん、………」
「何かある?」
「………、明日、月曜日」
「え、うん」
 悠紗は何か言いたそうにし、首を垂れて、口をつぐんだ。聖樹さんが食器を洗う音が響く。こんな悠紗は、ここにやってきて初めてだ。悠紗は僕に這い寄り、「明日もいる?」と上目で訊いてきた。
「えっ」
「萌梨くん、明日もいるよね」
「………、」
「いてよ。帰ったらいてね。いなきゃ嫌だよ。萌梨くんがいたら、やなことがあっても、やな気持ちにならないかも」
 そうか、と納得した。明日は月曜日だ。悠紗は保育園を案じているのだ。悠紗は僕を見つめる。いるよ、とは答えがたい僕は、言葉に迷って、仕様のない質問をしてしまう。
「友達、いないの」
「いないよ。みんな嫌い」
 冷たくすげない言い方に、どきりとする。これが例の悠紗の残酷な面だろうか。
「沙霧くん、とかは」
 頼りない記憶で言うと、悠紗はぎょっとし、「沙霧くんは保育園なんて行ってないよ」と言う。
「あ、そう、なの」
 行っていないのか。めずらしい──そうでもないのか。分からなかった。しかし、よく考えれば、仲良しの子がいたら毎朝泣きわめいたりもしない。
「萌梨くん、明日もいてね」
 答えられない。反応しない僕に、悠紗は不安げにする。
「萌梨くん、いたくないの」
「いても、いいの」
「僕はいてほしいよ」
「………、うん」
「萌梨くんは」
「僕も、いたい、けど」
「じゃ、いてよ」
 うつむく。人ひとり生きていくしみったれた現実など、悠紗にはまだないのだろう。この子は僕が厄介持ちだとも知らない。悠紗は僕の服の裾をいじった。
「せっかく萌梨くんに会えたのに。僕、こんなふうにできる人、少ないんだよ」
 睡魔に負けるまで、悠紗は僕を説得した。僕は自分でも嫌になりそうに、歯切れが悪かった。悠紗は明日の保育園と僕の答えを聞けなかったことで、落ちこんで寝室に行った。僕は罪悪感に駆られ、どうしたらいいのか分からなくなる。
「ごめんね。あの子、気に入らないものにはそっけないぶん、気に入ったものにはしつこくて」
 今日も紅茶を作ってくれて、そう苦笑する聖樹さんに僕は首を振った。
「僕もはっきりしなくて。傷つけちゃいましたね」
「保育園に行かなきゃいけないんで、いらいらしてるんだ。僕もできればやりたくなくても、昼間中、ここにひとりで放っておくわけにもいかないし。ほんとにごめん」
「いえ」
 聖樹さんは紅茶に口をつけ、「でも、僕もびっくりしてる」と瞳に笑みを混ぜた。
「悠、すっかり萌梨くんに懐いちゃったね」
「そう、なんですか。僕も悠紗、かわいいですよ」
「はは、取られそうだな。萌梨くんがそう思ってるのも、あの子の心を開かせたんだろうね」
「最初は怖かったですよ。子供と接したことなんてなかったんで。悠紗って、大人びてますよね」
「そうだね。あの子、大人としか接してないし。一番歳が近いのは萌梨くんじゃないかな」
 あれ、と首をかしげる。沙霧くん、という子はどうなのだろう。聖樹さんは知らないのか。そんなこともないだろう。悠紗は保育園に通っていないと言ったし、同年代の子供ではないのかもしれない。
「で、萌梨くん」
「はい」と紅茶をすする僕は目を上げる。聖樹さんはいつになくまじめな表情をしていて、僕はまばたきをした。
「そろそろ、話させてもらっていいかな。ぜんぜん、時間足りてないとは思うんだけど。僕、明日は仕事だし。どうするか、考えた?」
 頬をこわばらせ、息づめて身を硬くした。とうとう来た。いや、今日来る覚悟はしていた。だが、いざ来ると狼狽えて怖くなってしまう。
「家に帰りたくは」
「ない、です」
「………、そう」
 聖樹さんはかすかに睫毛を伏せ、テーブルに細い息をついた。僕は、その所作の意味を測りかねた。テーブルにカップを置くと、熱の伝わる陶器を手のひらに包んで呼吸を整える。
 甘えていたらいけない。僕はここの住人ではない。あの街や家に帰らないのが、ここにいる権利になるわけでもない。どんなに心地よく、落ち着けても、僕はここの人間ではなく、この心地よさも現実逃避しているせいのものに過ぎないのだ。
 痛くなるほど頭に言い聞かせて、僕は決然と顔を上げて、聖樹さんと瞳をぶつけた。
「いいです」
「いい、って」
「僕、自分が迷惑なの分かってます。出ていきます」
 聖樹さんは物柔らかな表情を潜め、カップを置くと鋭く真剣な眼で僕を射る。
「帰りはしないんでしょう」
「しない、です」
「どうするの」
「………、分かりません。でも、だからって、ここで甘えてる資格はありません」
「萌梨くんはそれでいいの?」
「聖樹さんたちに迷惑をかけるのが嫌なんです」
 聖樹さんは眉を寄せて考えこみ、僕は唇を噛んで心を引き締めた。「ひとつ、勘違いしないで」と聖樹さんはかたくなな僕に諭す。
「僕は萌梨くんが迷惑だとは思ってない。悠だって萌梨くんに懐いてる。僕としては、ここにいてもらってもかまわないんだ。いてもらったほうが助かる。今はそう思う。おとといは、そんなこと思ってなかったよ。何日かあとには、他人に戻ってると思ってた。僕も親だしね──悠が、萌梨くんに懐いたでしょう。僕はあの子が一種の人間不信になってるのを知ってる。誰か見つけたら、その人を失ってほしくないんだ」
 聖樹さんは息をつぎ、僕は手のひらでカップを抱きすくめている。
「悠を想って自分を殺してる、っていうのもないよ。僕も萌梨くんにここにいてほしいと思う。話すのも楽しいし、悠と一緒だよ。何でかは分からなくても、萌梨くんがここにいるのは波長が合う。萌梨くんだからだよ。ほかの人だったら、きっとこんなふうには感じない」
 慮外の聖樹さんの許容に、僕の締めあげた心は揺れそうになる。カップに目を落とすと、紅褐色の水面に嫌いな顔が映っている。
「ごめん。萌梨くんのほうが正しくはあるんだよ。僕と悠が変わってる。こっちこそ迫ったりできないのも分かってる。僕と悠に萌梨くんを引き止める権利はないんだ。萌梨くんが離れたければ、強制はできない。ここにいたいと思ってくれるなら、喜んでそれを受け入れるってぐらいで、」
「何で、ですか」
「え」
「何で、そんなふうに思ってくれるんですか。僕、他人ですよ。何するか分からない、とか思わないんですか」
 聖樹さんはいささか臆面し、僕は顔を上げてたたみかける。
「二日前に知り合った、見ず知らずの子供ですよ。気味悪くありませんか。疑うのが普通ですよ。変なことして蒸発するとか。だいたい、僕って面倒ですし。修学旅行放り出して、家も出て、変なかたちで見つかったら聖樹さんが犯罪者になるんです。僕の父親は僕が消えたら黙ってない人です。警察とか探偵とか頼りまくって、自分も探しにきて、そしたらほんとに、すごい大ごとになる迷惑がかかるんです。いいんですか。僕のこと信用しても、厄介になるだけなんですよ。何があるか分かんないんです」
 卑下が堰を切り、自分のことをめちゃくちゃに言いまくる。聖樹さんはため息をつき、「そんなこと思ってないよ」と、やんわり僕を制した。
「僕も悠も、そんなにお人よしじゃない。保身だってあるよ。萌梨くんは、僕たちのそれを働かせないんだ」
「僕自身はよくても、周りが」
 なおも卑屈になろうとした僕を、「それとも」と聖樹さんはさえぎる。
「僕と悠って、そんなに人を見る目がなさそうかな」
 とっさに口ごもる。
「萌梨くんは、そこにいて何かつらかったんだよね。たった十四歳なのに、何もかも捨てて逃げ出して、それで死んだほうがいいくらい。それとも、あれ、誇張かな」
「違いますっ。ほんとに──」
「だったら、何にも分かってないのに連れ戻そうとする周りが間違ってるんだ」
 聖樹さんを見つめた。聖樹さんは微笑む。
「萌梨くんのしてることがただのわがままだったら、さっさと警察に連れていってる。僕も悠も分かってるつもりだよ。萌梨くんの心には、守るのが正しいって」
 抵抗の言葉がさらさらとこぼれおち、軽くなった心に泣きたくなる。あふれた自嘲が恥ずかしくなる。邪推しているのはこちらだ。この人は理解してくれているだけなのだ。今までそんな人がいなくて、分からなかった。心を尊重してくれる人なんてひとりもいなくて、飢えることすら失くして、絶望でしか物を見れなくなっていた。
 そうだ。僕はあの場所が死ぬほど苦しい。成長も人格も自尊心も、何もかもずたずたにされた。そこを逃げ出して何が悪いのだろう。ありえないと見切っていた落ち着ける場所も見つけたのに、常識に縛られてここを捨てるなんてバカげている。
「ごめんね」
 悪びれた聖樹さんに、はたと顔をあげる。
「出しゃばっちゃったね。萌梨くんの性格なら、僕も少しはつかんだよ。ひとつ、区切りをつけておこうか」
「区切り」
「うん。萌梨くんの気持ちが落ち着くまで。落ち着いてる時間が増えて、嫌な気分が来ても押し返せるぐらいになるまで。ここにいたら、落ち着けるんだよね」
「……はい」
「利用していいよ。見つけられたんだ。わざわざいらないことで苦しむ必要はない」
 カップを抱きしめる手がのろのろと気張った力を抜いていく。そそがれる聖樹さんの視線は、柔らかい。
「今まで、そんなところ、なかったんだよね」
 視界がじわりと滲んで、弱くうつむく。素直にこくんとすると、聖樹さんはこれまでの誰とも違った手つきで僕の頭を撫でた。
「いていいよ」
「聖樹さん──」
「お金のことも気にしてくれてるんだよね。それは本当に構わない。ひとりぶん、浮いてるしね」
 口をつぐみ、睫毛を下げた。聖樹さんは僕の頭をぽんぽんとして手を引き、「どうする?」と改めて問う。僕は深呼吸すると、はっきりうなずいた。
「ここで、落ち着かせてください」
 そう口にすると、胸が軽やかに透いていった。それで自覚する。どうこう思っても、それが僕の本心なのだ。もちろん聖樹さんは微笑んでくれて、滲む視界をこらえ、僕もその笑みに咲い返せていた。

第十二章へ

error: