風切り羽-112

親の気持ち

 夕食のあとは食器を洗い、約束通り、悠紗を風呂に入れてあげた。五分ほど湯を沸かしてバスルームに向かい、どうも悠紗は、ここで僕の前で服を脱がなくてはならないことに気づいたらしい。「沙霧さんに変わってもいいよ」と苦笑すると、悠紗は考えて、「いいや」と服を脱いだ。
 背中を洗ったり頭を洗ったりは手伝っても、軆を洗うとかバスタブに浸かるとかは、一歩下がって危険がないかを見ておくだけだった。
 が、個人的なつまずきで激しいシャワーの音にプールでの記憶が動き、めまいがした。しかし、悠紗がXENONの曲の旋律を鼻唄したり話しかけてきたりして、悪いところには堕ちずにすんだ。
 風呂から上がると、悠紗の軆をタオルに包んで拭いてあげる。悠紗はくすぐったそうに笑っていた。
 悠紗は自分で服を着て、頭にタオルをかぶってバスルームを出ていく。僕も、換気扇をつけて明かりを消すと追いかけた。
 沙霧さんはゲームをしていた。悠紗が先日買ったもので、自分のセーブで最初からやっているようだ。
「ドライヤーうるさいですけど」と断り、僕は悠紗の髪を乾かす。悠紗は沙霧さんのやるゲームを観ながら、鼻唄をしていた。
 タイトルは忘れても、今日聴いた『MORGUE』にその旋律があったと思う。どことなくぐったりした曲調だ。紫苑さんが作る曲も内的になってるよな、と思ったりする。
 悠紗の髪がほどよく乾くと、今度は僕が風呂をもらいにいく。
 今回は、シャワーの水圧は緩くした。四歳だったあの日以来、初めて、一ヵ月以上何もされずにいる僕は、蒼白い肌にべたべたしていた痣や口づけの紫を失っている。肌を走りまわる手などの錯覚も減っている。
 ここに来たばかりの頃は、ことあるごとにつまずいていたのに。来たばかりの頃、とはいってもひと月半前だ。僕はひと月半で、あの暗い方向しか見れない絶望的な状態を脱し、明るいほうを向けているのか。傍目には視線の方向が変わっただけであっても、僕にはすごい進歩だ。僕は一センチだけ視点転換してみることすら困難だった。
 変わったとは思わない。ここの精神的作用がすごいのだろう。軆に迫害されなくなっただけでも救いなのに、ここは精神的なものも救いあげてくれた。聖樹さんは分かってくれて、悠紗は気遣ってくれて、沙霧さんは話してくれて、あの四人は楽しませてくれる。
 向こうでは、そんなのは全部なかった。望むことさえ忘れていた。僕の心の裂けめは依然大きく深く、一生消えないものとしてのさばっている。
 その傷口に対して、僕は怖くて目をつぶっていた。ここで過ごしてみて、ちょっと直視してもいいかな、と思えている。触って治療に踏み切るのは当面とんでもなくても、具合を見てみるぐらいなら。今の僕は、そんな感じだ。
 とはいっても、自分の軆、特に股間を見おろすのは相変わらず怖い。僕の中に、自傷衝動の引き金は内在している。じっくり眺めずに軆を流すと、バスタブに浸かった。
 お湯に浸かるのは、意識すると躊躇はあっても、風邪をひいて迷惑をかけるのも面倒になる。もし風邪をこじらせて手に負えなくなっても、僕は病院に行けない。そういうのに気づくと、憂鬱は追いはらえずにやってくる。
 風呂を上がってリビングに帰り、髪を乾かすと食器を拭いた。沙霧さんと悠紗は延々と対戦して、勝敗を反転できずにいる。僕は微笑ましくなりつつ、こういうので自然に咲えるようになったのはこっちに来てからだなと思った。
 沙霧さんがいたので、悠紗は夜更かしをした。それでも二十二時頃にはあくびをしだして、僕が寝室につきそう。ベッドに横たわった悠紗は、「今日、僕、ここにひとりだね」と不安そうにした。「一緒に寝ようか」と僕が提案すると、「いいの?」と悠紗は瞳を輝かせる。
「床にふとん敷けばいいし。あっちには沙霧さんがいるでしょ。あ、沙霧さんに来てもらう?」
「んー、萌梨くんがいい」
「じゃ、寝るときはこっちに来るよ」
「へへ。あ、おとうさんのベッド使ってもいいと思うよ」
「え、いいのかな」
「うん」
「じゃあ、まあ、沙霧さんがふとん欲しいって言ったらね」
 悠紗はこくんとして、聖樹さんの話にも触れた。明日のいつ頃帰ってくるかとか、今大丈夫かとか。「悠紗と待ってるって言っておいたよ」と言うと、悠紗は僕を見つめ、「待っててあげなきゃね」と笑んだ。僕はうなずいて、悠紗の額をさする。まぶたを下ろした悠紗は、まもなくベッドに沈んで眠りこんでしまった。
 リビングに帰ると、沙霧さんはブロックゲームをやめてRPGをしていた。物音に僕をかえりみて、「悠、寝た?」と訊いてくる。僕はうなずき、沙霧さんの隣に腰をおろす。
「萌梨は、まだ寝ない?」
「あ、寝たほうがいいですか」
「いや。話したかったからさ」
「話、ですか」
「うん。何か──何かってわけじゃないけど。いろいろ」
 沙霧さんを見る。沙霧さんは決まり悪そうにして、コントローラーをいじってセーブポイントに来ている。
 ちょっと咲った僕は、何か飲むかを訊いてみた。
「いいのか」
「いつも、聖樹さんとそうしてますし」
「そっか。じゃあ、もらう」
「紅茶でいいですか」
 沙霧さんはうなずいてセーブの操作をし、僕はキッチンに行った。
 さっき食器を拭いたときに、生ゴミの処理をしてしまっていた。まあ、仕方ない。僕はティーバッグをふたつ開けると、紅茶を作る。そして、出がらしのそれは、別のビニールぶくろに入れてゴミ箱にやった。
 沙霧さんは片づけたゲームに背を向け、座卓に頬杖をついている。僕が食器棚にあった客用カップをさしだすと、「ありがと」と受け取った。僕は沙霧さんの正面あたりに腰をおろす。
「砂糖、ひとつでよかったですか」
「ああ」
 紅茶をひと口飲んで、僕たちは目を見交わした。沙霧さんはあやふやに咲って、カップをテーブルに置く。
 僕は紅茶に口をつける。暖房がきいている中で、温かい飲み物に軆がほてると、ぼうっとする。
 沙霧さんは紅茶の水面に目を落としていて、「知ってるんだよな」と不意に言った。
「えっ」
「電話で。聞いただろ」
「……まあ」
「俺、隣にいたんだけどさ」
「あ、そう、なんですか」
「うん。兄貴──俺のお節介で悩ませちまったな」
 親に話したほうがいい、と諭したことだろう。僕はカップをテーブルにそっと置くと、個人的に気になったことを言ってみる。
「僕もびっくりしました」
「え」
「沙霧さんが、そういうこと勧めるの」
「そう、か。兄貴も驚いたって言ってたか」
「ご両親のこと、気にしてるんですね」
 沙霧さんは愧色し、「まあ」と端的な返事を濁す。
「俺は、さ。ほら、兄貴がいなくなった家で、さんざん親が兄貴のこと心配しまくってんのを見てきたわけだし。まあ、兄貴がいたら、向こうも意地張って気にしてないふりしてんだけどな」
「ご両親は、けっこう、聖樹さんのこと想ってるんですか」
「けっこう、っつうか、かなりな。大切なんじゃない、やっぱ。兄貴が何も話さないんで、イラだってはいる。兄貴に対しても、自分たちに対してもな。気にしてないのは、ふりだよ。分からないから、どういう態度取っていいのかも分かんなくて、兄貴に合わせて無関心な親をやってる。下手なんだよ、感情表現が」
「はあ」
「兄貴はああ言ってたけど、俺は、親は兄貴のこと受け入れると思う。どれだけつらいかは俺も分かんないし、すくいとれないだろうけど、嫌いになったりはしない。親だし。打ち明けてくれたのにほっとするのが、真っ先に来るんじゃないかな。かあさんなんか、兄貴が泣き出したら一緒に泣くぜ」
 うつむいた。水面に前髪が揺れているのが映る。
 聖樹さん。そうなのか。思っていたより、賭けには勝ち味があるようだ。
「萌梨と悠が心配だし、俺がいたって邪魔だしって、ここに行くって言ったとき、兄貴は泣きそうにした。萌梨たちのことは、要さんたちに頼めばいいって。俺だってそばについててやりたくても、やっぱ兄貴が自分でケリつけることだろ。そう言ったら、しぶしぶ納得してた。親とサシになるのが怖かったんだろうな。怯えるのは無理もないよ。ほんとに俺たちの両親は、兄貴の前では完全無視してるしな。兄貴が向こうを信じられないのも当然だよ。で、そういうのはそろそろいいだろって思ったんだ。ほんとは分かりあえるくせにさ。で、話せって俺は言った」
 義理や縁での勧めかとも思ったけれど、考えれば、沙霧さんはそんな形式的な人でもない。聖樹さんのそばにいて、両親のことを窺って、沙霧さんはあいだにはさまれるかたちで家庭を見つめてきた。沙霧さんにも、話したほうがいい、という勧めは軽々しいものではなかったのだ。

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