受け止める心
「兄貴は、ななつだよな」
「あ、はい」
「何で何にも言ってくれなかったんだ、とは思ったよ。でも、物心もついてない一歳児に何が言えるって感じだよな。もちろんそれまでもつらかったんだろうけど、中学のときが一番ひどかったって兄貴は言ってて、そのとき俺はちょうど悠ぐらいの歳だった。で、梨羽さんたちと逢ってやっとなくなったのが、兄貴がそういうのされはじめた歳。そりゃあ、相談してくるほうが反対にやばいかって。十二、三のまあ分かるかなって頃は、俺は兄貴をあの女のことで拒否してて、めちゃくちゃになってた。あの女がいなくなったあとは、話そうと思えば話せなくもなかったんだろうけど、もうその頃は、ずっと黙ってるほうが重くなってたんだろうな。そんなの考えたら、何で言わなかったんだ、なんて責められなかった。親にはどうだか知らなくても、俺には好きで黙ってたんじゃないのかもしれない」
確かに、聖樹さんは両親には分かってもらえないと踏んで話さなかった。沙霧さんには拒絶されたくなくて話さなかった。いつだか、聖樹さんがそう言っていた。それを話すと、沙霧さんはちょっとだけはにかんだ顔になる。
「兄貴が、梨羽さんたちと友達の理由も分かったよ。あの四人とつきあうのはいいことだとは思ってたよ。どうやって知り合って、親密になれたのかはずっと分かんなかった。あの四人は、兄貴のことずっと分かってたんだな。兄貴も、四人には感謝してるって言ってた。どんな悪いことをしてた人たちでも、自分にはかけがえがないって。何となく分かった。兄貴には、分かってくれるってことで別のことは帳消しなんだろうな。そんな人間ほとんどいないから。……違うかな」
「そういうところもあると思います」
「そっか」と沙霧さんは少しほっとした顔になる。沙霧さんの中では、感じたことが聖樹さんの心に沿っていれば、ひとまず“消化”になるようだ。
「どういうことされたかっていうのは、そんなに詳しく聞いてない。いくつか話せる範囲のを話してもらった。あんなの一部で、マシなのに過ぎないんだろうな。そう思うと、何か、やりきれないっていうのかな。兄貴泣いたんだけど、それも俺にはショックだった」
「え、何でですか」
「泣かれてさ、気づいたんだよ。俺、兄貴が泣いてるとこ初めて見たって」
沙霧さんを見る。沙霧さんの瞳は緩く暗くなった。
初めて。初めて──見た。
「十二年は一緒に暮らしてたし、あの中学の頃を除けばちょくちょく会ってたんだ。なのに、初めてだった。兄貴はいつもおっとり咲ってるだけだった。ほんとに、今日気づいたんだ。自分でも信じられないけど、そうなんだ。何か、その、俺バカだなって、何にも分かってなかったんだなって思ったよ。生きてたら、何にもないわけないじゃん。なのに、兄貴はいつもそんな感じだった。よく考えれば、それがじゅうぶん俺たちへの兄貴の悲鳴だったんだ。何で気づけなかったんだろうって。兄貴が泣き出して、そういうのがどっと来て、重たくて。泣きたいみたいなショックだった」
沙霧さんの長い前髪は弱く震える。その痛みは、言葉より空気で伝わってきた。
僕は何も言えなかった。僕はそういう愛情が絡んだショックとは無縁で、それに対する言葉や態度に応用できる知識がない。息苦しさを無言で受けるしかできない。
沙霧さんは途切れがちに息をつき、紅茶で気を鎮めた。
「情けないっていうより、みじめだったな。初めてだったせいで、兄貴が泣いたときにどう応じたらいいかも分かんなかったんだ。見てるだけで、何にもできなかった。触ったら壊れそうで、何か言ったって兄貴の耳には薄っぺらいだろうって。兄貴がそんな、どうにかなるだろって適当ななぐさめじゃ効かない深いとこにいるのが、それでまたずしっと来て。俺だって、自分なりにいろいろあったつもりだよ。でも、兄貴ほどじゃないよな。深さも、そこでのひどさも、残るものもさ。俺は一歩も踏みこんだことがないとこに、兄貴はいた。俺にはそこがどういう場所か見当もつかないよ。何にもできなかったし、何にもしちゃいけないのしか分かんなかった。そんな、正当化の言い訳みたいなのが事実だっていうのが、つらかった」
僕は紅茶の水面を見おろす。
沙霧さんは、理解していると思う。聖樹さんの傷口に寄り添ってはいる。もし僕に沙霧さんのような人がいたとして、告白してそこまで気をまわしてくれたら、話したのを後悔はしない。
分からない、と沙霧さんは言うけれど、分からないのを自認しているのでじゅうぶんなのだ。
「で、梨羽さんたちすげえなって思ったりもした。あの人たちは、深さっていう面では兄貴に近いのかもしれないな。萌梨のこともすごいって思う。俺はどうやっても分かんなくて、役に立たないってはっきりしてたんだ。それでも兄貴は話してくれて。梨羽さんたちのことも、あの女のことも──離婚の理由は聞いたよ。具体的なことではなくても、セックスがダメだったとか、死のうとしてたの見つかったとか。で、悠の話して、萌梨のことに戻ってさ。萌梨がどういうっていうのじゃなくて、ここにいるのにそういうのが絡んでる深い理由があるって。ゆっくりだったけど、だいぶ話してくれた。俺には知っててほしかったって、最後にそう言って、嫌いになってないかを訊かれた。頭の中ぐちゃぐちゃで、どう受け止めたらいいんだろって状態でも、その質問がわけ分かんないのは分かったよ。『何で嫌いになるんだよ』って言ったら、やっと兄貴はちょっと咲って──それも初めて見た顔だったな。こっちを波立てないおっとりした顔じゃなくて、ほっとしてるっていう気持ちがよく出てた。それで俺の中も少しすっとしたよ。ずっと演技されてたのにムカつくんじゃなくて、やっと話してくれたのにほっとしていいんだって。で、ぼーっとして、そのあとは兄貴が話してたか」
こくんとする。両親に告白を勧めた理由は、僕の質問があったので先に教えてもらっている。
僕はふと、聖樹さんの今の状態を思い出し、時計をちらりとした。二十二時半だ。聖樹さんは、きちんと話せているだろうか。両親の反応はどうだろう。沙霧さんの話だと安心してよさそうでも、分かり方にもその表し方にもいろいろある。わがままだと言われようが、これはそうして滅入るほどの神経がとがりきった傷なのだ。
沙霧さんは冷めてきているだろう紅茶を飲み、つぶやく。
「俺、たまに萌梨と兄貴に何か似てるなあって思うときあったんだ。考え方とか、ぼうっとする感じとか。どっかで見たなあって思って、ああ兄貴かって。それでも、萌梨と兄貴が通じることされてたなんて、考えなかった。そこで、また情けなくなったり。何か、変だけど。俺は兄貴の話で、最後には情けなかった。ショックだったり苦しくなったりしても、今残ってんのは情けなさだよ。俺なんかにどうこうできるもんじゃなくても、もし気づいてたら、って悔やまずにはいられない。兄貴が苦しいのは分かっても、それがどれぐらいかは分かんないんだ。同情もできない。俺には感情移入できないよ。俺が持ってない視点で兄貴は物を見てる。どうやったって俺には真似できない角度で。兄貴の話聞いた感想は、結局、俺は何にも兄貴のこと守れてなかったんだなって、そんなのだよ。バカだけど」
沙霧さんは自嘲に嗤うと、紅茶を飲みこんで、カップを空っぽにした。僕はうつむき、沙霧さんがいたから家ではマシだったという聖樹さんの話を思い返す。話してみると、沙霧さんはあやふやに咲って答えなかった。
「兄貴に行き過ぎてる気持ちがあるかもって、話したよな」
「あ、はい」
「これで吹っ切れそうだよ。しょせん、俺は兄貴に何もできないんだって」
沙霧さんを見つめたあと、僕はぬるい紅茶を飲む。
そういえば、聖樹さんは沙霧さんに告白されたようなことは言っていなかった。それでも一応、聖樹さんには何も言わなかったのかを沙霧さんに問う。
「言ってないよ。一生、誰にも言わないよ。言うとしたら、心底好きになって、欲しくてたまんなくなった相手ぐらいだな。はは、そんなんできないか」
「僕は話してくれましたよね」
「萌梨は、そっちが感づいたんだろ」
そうだっけと回想し、そうだったと思い出す。沙霧さんの聖樹さんの話に、どうも兄弟間を越えたものを感じ、確かめたのだった。
「誰にも話さないんですか」
「面倒だし」
「抑えてるの、つらくないですか」
沙霧さんは僕をちらっとして、「まあ」とカップを座卓に置く。
「でも、慣れたし」
「慣れた」
「まだ、今の状態じゃホモは異常だろ。俺にしたら、女と寝るほうが異常なんだけど。異性愛のが病気だっていうのじゃないよ、ゲイの俺がそうするのはやっぱ変だと思うんだ。俺の中では、男を見るほうが正常。昔は何でだよってそれにイラついて、やたら女抱いて捻じ曲げようとしてた。ぜんぜんダメなんだよな」
沙霧さんが聖樹さんや僕の気持ちをはっきりつかめないのは、こんな気持ちなのだろうか。説明されることの表面は飲みこめても、その機微な内因は噛み砕けない。
僕は同性愛者ではないので、あのことを抜きにしても同性を好きになる気持ちは分からない。曲げられない性質の屈強さにも、そんなものなのかとぽかんとする。
「今は受け入れてるよ。それが俺ならって、誇りだし」
「でも、聖樹さんにも言わないんですね」
「気持ちにケリついたら、兄貴にぐらい言ってもいいかなとか思ってた。あんな話のあとじゃ、正直な。萌梨みたいにさらっと分かってくれんの、別に何もなくてもめずらしいんだぜ」
「……はあ」
聖樹さんに秘密する心理は、分からなくもない。
僕はわりと理性的にされていたことと同性愛は違うと判断できたが、聖樹さんもそうだとは限らない。どちらかといえば、聖樹さんでなくとも、そういうことをされた男なら、見境なしに男同士を嫌悪しそうだ。
「悠には口滑らすかな、とか思うよ」
「悠紗」
「うん。何かあいつ、ふうん、とかですましそうだな。ま、ガキの頃から、そういうのもあるんだよって教えとくのいいかもしれないし。気が向いたら」
そう言ったところで、沙霧さんはなぜか照れ咲いをした。僕が首をかたむけると、「何か話ずれてない?」と沙霧さんは言い、こちらも咲う。
「そう、兄貴のことなんだよな。兄貴──どうしてるだろ」
「話してる、でしょうね。ご両親、分かってあげてるでしょうか」
「嫌悪したりはしないよ。でも普通なんで、対処を変なほうにやるのはある」
僕は沙霧さんと顔を合わせる。
一理あった。なまじ愛情があったら、下手に先走る恐れがある。でもまずは、聖樹さんの傷口がいまだ傷痕になりえる状態ではないのを見取れたらいいのだ。
「大丈夫でしょうか」と心配すると、沙霧さんは苦笑いする。
「よかれと思ってしてる、って兄貴が冷静に思えるかどうかだな」
聖樹さんを想って、ため息をついた。沙霧さんの言う通りであるか、もしくは両親が賢いのを願うしかない。
聖樹さんも、平凡な両親を話すのを決めたとき、幾許かの心の犠牲は覚悟したと思う。話して混濁した頭に、それが紛れていなければいい。
そのあと沙霧さんと僕は、聖樹さんの心配をしたり、脱線で自分たちのことを話したりした。
二十三時もまわった頃、僕が眠たくなってきたのを切っかけに就寝することになった。寝室に行くのを悠紗と約束しているのを沙霧さんに説明し、ふとんがいるかどうかを尋ねる。「どっちでもいいよ」と言われ、迷った僕は、置いておくことにした。
沙霧さんはまだ目が冴えているそうで、「ゲームしたりしていいと思いますよ」と僕は言う。僕が寝支度をするあいだに、沙霧さんは本当にゲームを始め、「おやすみなさい」と残した僕は、悠紗が寝息を立てる寝室に消えた。
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