風切り羽-115

そして、翌朝

 翌朝は、悠紗にひかえめに肩をたたかれて目が覚めた。
 遠慮しつつも聖樹さんのベッドに眠ったせいか、悪い夢にうなされたりもしなかったようだ。寝汗がひどかったり、息が切れたりしていない。内容を憶えていないときの、後味の悪いしこりもない。
 明かりをつけて、「おはよー」と言った悠紗に咲い返すのもむずかしくなかった。
「おはよ」
「へへ。ここ、寝れた?」
「うん」
 窓のカーテンの隙間はのぼった太陽の光をこぼしていた。「今、何時?」と悠紗に問うと「八時のちょっと前だよ」と返される。
「……寝坊だね」
「お休みだもん」
 悠紗は洋服に着替えていて、訊いてみると、七時半頃には起床したそうだ。「お腹空いたの」と言われ、僕は笑ってベッドを降りる。
「聖樹さん、帰ってきた?」
「んーん、まだ」
「あっちに泊まったのかな」
「たぶん」
 大丈夫だったってことかな、と目をこすって寝ぐせに触る。分かってもらえなかったら、いたたまれなくて夜中にでも戻ってきただろう。それか、別のところに泊まったか──まあ、今日分かることだ。
 リビングには沙霧さんがいて、ふたつ折りの敷きぶとんをまくらにし、毛布だけかぶるという暴挙で寝ていた。敷くのが面倒だったのだろうか。
 悠紗にフライパンや魚を出しておいてほしいのを頼むと、沙霧さんを起こさないように、トイレに行ったり顔を洗ったりする。ここのところ寒くなっているので、秋物の服を重ね着した。
 服の問題はいよいよ深刻になっている。風邪もひきたくないし、どうしよう、とは思っても、何にも言えずいる。
 熟睡する沙霧さんをよけてキッチンに行くと、悠紗はソーセージを食べていた。
「ごはん、食べないの?」
「食べるよっ。何で」
「それでお腹たまらない?」
「たまらないよ。ごはん、鮭だよね」
「うん。カレーは昨日なくなってるし。あと、たまご焼きでも」
「じゃ、入れるの出すね」
 悠紗はシンクの下の戸棚を開け、僕も冷蔵庫のたまごをふたつ取り出す。悠紗が出してくれた小さいボウルにそれは入れておき、炊飯器を覗いた。ぎりぎり、三人ぶんは繕えそうだ。
 まずは鮭の切り身の包装を開けた。僕がここで暮らすようになって、当初はふたり用をまかなっていたのが、いつしか三人用になっている。これもまた三人用で、聖樹さんのぶんを沙霧さんに当てていいのだろうかと悩む。何となく悠紗に問うてしまうと、悠紗は考えた。
「ダメかな」
「ていうかね、沙霧くん朝ごはん食べるかなあって思うの」
 閉ざされたカーテンがもらす光の下の沙霧さんを見やる。朝からしっかり食べるほう、とは何となく思えない。
「沙霧くん、おじいちゃんたちと喧嘩してここに泊まったことあるんだよね。いつも朝はこーひーしか飲んでなかったよ」
「じゃあ、沙霧さんが欲しいって言ったら焼こうか」
「うん」
 かくして、鮭は一枚残しておく。どのみち、沙霧さんはとうぶん眠っていそうだし、今焼いても冷めてしまう。僕はふた切れの鮭を焼いて、そのあいだにたまご焼きや味噌汁をこしらえた。
 できあがる頃に、悠紗に台拭きをしてもらい、ふたりでの朝食が始まる。
「沙霧くん、よく寝るねえ」
 鮭の皮をうまく箸で剥がす悠紗は、沙霧さんを見返って言う。
「昨日、夜遅かったんじゃないかな」
「いつ寝たの?」
「さあ。僕、先に寝ちゃって」
「そなの。ふふ、夜起きてて朝寝るの、梨羽くんたちみたいだね」
 うなずきながら、あの四人を思い出す。最後に部屋に行ったのは先週の火曜日で、ここのところ会っていない。要さんと葉月さんが仕事でいない、というのが大きいのだろうか。梨羽さんと紫苑さんだけだと、どうも侵しがたい雰囲気がある。
 こちらでいろいろありすぎているのもある。どうも、先週末の僕の悪夢から騒がしい。
 要さんと葉月さんの会話でも聞いて、めまぐるしさを気分転換したくもあった。
「梨羽くんたち、十二月の半分ぐらいで行っちゃうんだっけ」
「うん。いや、それぐらいにライヴがあるから、そのちょっと前って言ってなかった?」
「あ、そっか。じゃ、もう一週間もいないのかな」
 悠紗は寂しいようなつまらないような顔で、鮭とごはんを口に入れる。「また会っておきたいね」と僕が言うと、悠紗もこくんとする。
「明日、行く?」
「いるかな」
「要さんたちは仕事かな」
「うん。出かける前になると、いるものといらないもの整理したりするよ。特にここだとね、全部ざーっとするの」
「そっ、か。まあ、まだ二、三回は会えるよね」
「そだね。出ていく前は来てくれるし」
 四人が次回確実に来るのは、八月だ。それには塞ぎそうになる。四人は、今から十日かそのへんでここを出ていくだろう。それが最後で、僕は二度とあの四人には会えないかもしれない。
「もし帰ってこなかったら、梨羽さん、平気なのかな。聖樹さんと会わなくて」
「あ、梨羽くんのために戻ってくるかもね」
「みんながいなくなっちゃうの、一番寂しいのって聖樹さんなんだろうね」
「うん」と悠紗は味噌汁の豆腐をつつく。
「でも、行かないでとか言ったりしてないよ」
「それは、四人を尊重してるんじゃ」
「そんちょう」
「したいことを大切にするって」
「そんちょう、うん、してる。ほんとはいたのが安心なんだよね。けど、今は萌梨くんいるし、前より怖くないよ」
「そ、かな」
「うん。みんなも萌梨くんいるんで、おとうさん置いていくの心配しないと思う」
 ある意味、四人より僕のほうが聖樹さんのそばにいられる保証がないのだけれど、黙っておいた。
 食事が続き、今度は聖樹さんのうわさをした。「いつ帰ってくるかな」と僕はわかめが絡みついた豆腐を箸にすくう。
「朝ごはん食べたら、帰ってくるんじゃない?」
「じゃ、じき帰ってくるね」
 時計の針は、九時前をさしている。聖樹さんなら起きている時刻だ。同じく朝食を取っている頃か。どこで取っているだろう。
「おとうさん、おじいちゃんたちとお話できたかな」
「さあ。今、家にいるんだったらできたんだろうけど」
「そうだといいね」
「うん」
「おとうさん、疲れてるよね。僕が教えてほしいっていうの、あとにしたのがいいかな」
 ひと晩寝たんだし、と言おうとして、口をつぐむ。分からない。話しすぎたせいで記憶が開き、生々しさにうなされたのもありうる。
 悠紗は、僕を見つめて答えを待っている。「まあ」と僕は箸の先で鮭をほぐす。
「聖樹さんの様子見て、よさそうだったら試しに訊けばいいよ。それで、今度にしてって言われたらそうして」
「そっか」
「ご両親が分かってくれたなら、気持ちも楽になって話してくれるかもね」
「うん」と悠紗はお椀を手に包み、味噌汁に口をつける。飲みこむとまばたきをし、鮭を食べる僕にそわそわした顔を向けた。「何?」と僕は首をかたむける。
「あの、ね。何か、怖くもあるの」
「怖い」
「教えてって言うの。僕がそう言うのはいいんだよ。おとうさんが、話してつらいかなって」
「……うん」
「萌梨くんは知ってるんだよね。どんな話? 怖い? 痛い? 苦しいの?」
 僕は考え、「全部」と答えた。悠紗は眉をゆがめて、不安をあらわにする。何にも知らないところに投げかけられるのもショックでも、そうして半端に分かっているのも神経をかきたてるようだ。
 悠紗は、聖樹さんの傷の途方のなさは痛感している。それだけに、いったい何がそこまでの傷をつけられるのか、当てはまるものの予測がつけられないのだろう。分からないあまり、恐れることしかできない。
 その心理は、この裂けめの尋常のなさを明示している。本当にそうだ。いったい、何が、こんなにまで傷つけるのだろう。
 聞くだけだったら分かんないかもなあ、と思う。されていた聖樹さん自身だって、大したことはないとすべて忘れ、のちにその痛手を知った。
 僕もそうなる恐れはあった。苦しいとは思っている。でも、本物の苦痛は経験していない。僕が感じているのは、つけられたときの痛みだ。
 この傷口の真髄は、しばし麻痺したのちに現れる、にぶい痛みだ。それはちょうど、聖樹さんがあの女の人と生活していた頃に暴れた痛みだ。
 だから僕は、聖樹さんがあの人との生活で受けた痛みははっきりとは分からない。僕をさいなむこの痛みは、初期症状だ。刃物が刺さって、抜け、しばらく経てば、つけられた直後の鮮烈な痛みは薄れる。けして癒えたのではないのに、そこで僕は、何だ、と拍子抜けてすべてを忘れただろう。憶えていても仕方がないし、大したことではなかったのだと埋めていた。
 そして麻痺に惑わされ、いずれ時限爆弾に心臓をつらぬかれる──その打撃は、聖樹さんと知り合えたおかげで、僕は避けられると思う。代わりに、いつ再発するのかと怯えるようになったけれど。
 麻痺していたら、たとえば女の子に目を向けていただろう。そして誰かと親しくなって、関係を結ぼうとしたとき、傷口の本質が僕を打ちのめす。
 この傷は、子供の頃は潜伏し、大人になったとき本領を発揮する。自分でもよく見えないところを踏みにじられる虐待なのだ。とりわけ、子供のうちだったら、何をどうされたのか、何が──もしくは何か──残るのか、どれだけ重大かも分からない。めちゃくちゃにされた自覚さえままならないことだから、されたことのない人には分からないのは仕方がない、と思ってしまう。
 顰め面で考えていた悠紗は、僕に顔を仰がせた。たまご焼きを噛んでいた僕が見返すと、「おとうさんがね」と悠紗はまじめな瞳をする。
「嫌だな、って思うの言っちゃったりしたくないの。言うかも。萌梨くんは、どんなの言われたら嫌?」
「………、悠紗が感じた通りの反応しないと、逆に傷つけちゃうよ」
「えー。んー、分かんないんだもん。おとうさんが哀しくなるのはやなのにさ、僕、そうするかもしれないのが怖いよ。何やっても、おとうさん哀しくなりそう。訊かないのがいいのかなとかも思っちゃう。おとうさんが話してくれるの、待とうかなって。それのがおとうさんを傷つけないかな」
「知りたいんでしょ」
「……うん」
 悠紗は自己嫌悪に近い顔つきで、鮭の最後のひと口をごはんと共に口につめこむ。僕はふた切れめのたまご焼きを食べる。
 どういう反応されたら嫌か。僕のそれと聖樹さんのそれが同じだとは言い切れない。それに、諭してあげた通り、分からないといって教えられた通りに済ますというのは、聖樹さんを哀しませる。
「悠紗」
「ん」と悠紗は口の中のものを飲みこむ。
「分かったふり、しなければいいよ」
「え」
「きついけどね、今話してもらっても、悠紗にはたくさん分かんないとこがあると思う。だからって、今聞いちゃいけないっていうのじゃないよ。その分かんないのには、大人になれば分かるのも、大人になっても分かんないのもある。で、分かんなくてもいいんだよ。そしたら、素直に分かんないって言っていいんだ」
「そうなの」
「うん。それでも、悠紗は大切なとこは分かると思う。分かったところから、聖樹さんを想ってあげればいいんだよ」
 悠紗は僕を見つめ、こっくりとした。僕は微笑み、「悠紗ならできるよ」と言った。「そおかな」とたまご焼きに手をつける悠紗に、「聖樹さんの子供だし」と僕はつけたす。すると悠紗も咲って、「そだね」ともう一度うなずいた。

第百十六章へ

error: