久々の1004号室
お昼時も手伝ってか、廊下は静かで人影もなかった。
この部屋をひとりで出るのは初めてだ。ここを出ていくことになったときもこんななのかな、と思いかけ、慌てて振りはらって右手へ抜けた。
エレベーターホールに出ると『△』のボタンを押して、無人だったエレベーターで十階に行く。
ほんとに四人がいなかったらどうしようと思う。まさか外には行けない。悠紗の言う通り、変な人に遭ったら僕は拒否できない。屋上は危ないし、一階の自動販売機のところは人が行き来するし、非常階段は迎えにこられたときに見つけにくい。
本気で悩んでいると、十階に到着していた。おずおずと地面に降りて、廊下のほうへ行く。
そしてまばたきをした。四人の部屋の前に、綺麗に身なりを整えて、煙草をくわえた要さんがいた。鍵をかけている。ということは、出かけるところなのか。じゃあいられない、と思っていると、「あ」と声がして顔を上げる。
「ぽちだ」
「……萌梨です」
いつもの訂正に、要さんは例の笑いをする。
「陰に隠れる具合がぽちっぽいぜ」
「はあ」
「どうした?」と要さんはキーホルダーを長い指に絡ませながら、こっちにやってくる。じゃらじゃらいっているので、家の鍵だけではないようだ。
「えと、その、いるかなあと。出かけるんですか」
「仕事な」
「葉月さんは」
「は、もう行った。そういやあいつ、何か吠えてたぜ。最近来ないって。俺が会ったって言ったら、またわめくな」
要さんは愉しげに物笑いをした。気にしてくれたのか、と心で申し訳ないのと嬉しいのが綯い混ぜになる。
「ちょっと、騒がしくて。ごめんなさい」
「いえいえ」
「梨羽さんと紫苑さんはいるんですか」
「紫苑はこないだのライヴで、利益の山分けが貯まったからギター買いにいった。あいつには、兄貴の奴以外はギターは消耗品だからな。でも、壊れてもコレクションしとくのは変だ」
「はあ。梨羽さんは」
「いる。あいつなりに、萌梨たちが来ないの気にしてるみたいだぜ」
「え、そうなんですか」
「うん。紫苑によると、来るだろう時間にはそわそわして、過ぎるとしばらくへこんでる」
そうなのか、と鼻白んでいると、「来る?」と訊かれた。ほかの選択肢がなかった僕はうなずき、引き返す要さんについていく。
「そういや、悠は?」
「部屋です」
「めずらしいな。喧嘩したのか」
「いや、何か、いろいろ」
「いろいろ」と要さんは煙草をふかす。
「聖樹はどう? あいつとも会ってねえな」
僕はいささか躊躇ったのち、要さん、ひいてはこの四人にならいいかなあ、と口を割っておくことにした。
「聖樹さん、おうちに帰ってたんです」
「おうち、っつうと」
「実家のほうです」
「実家。あいつ、あんまりうまくいってねえだろ。弟以外は」
「昔のことをお話しにいったんです」
部屋の前に着いた要さんは立ち止まり、僕を眺めると、「昔のことっつうと」と眉を寄せる。
「そういう、ことです」
「………、何でいきなり」
「気持ちに、変化があったみたいで」
「はあ。萌梨と会ったからか。ふうん。まあ、あいつがそうしようと思ったならな。今もいないのか」
「帰ってきました。ちゃんと話せたみたいです」
「そっか。ま、弟は分かるか。両親も」
「みたいです」
「よかったじゃん」と要さんは思いのほか素直に祝福する。要さんは両親には拒否されてるんだよなあ、と僕はふと思った。
「それで、悠紗も聖樹さんに話を聞こうとしてるんですよね。親子のことなんで、僕は席をはずして」
「ほお。しかし、悠には話していいのか」
「あの歳の子はむずかしいかもしれなくても、悠紗ならいいと思います」
「そっかな。むっつでセックスの観念ぶちこわされる怖さ理解できんのか。俺でさえ聖樹に聞くまで分かんなかったし。いや、考えなかった、というべきか。で、笑った。聖樹、まだあれ気にしてんだろうなあ」
「すぐ反省したんですよね」
「反省どうのの問題でもない気が」
要さんは鍵をさしこみ、「悠は俺たちのせいで、ませてるからな」とにやにやする。
「俺とか葉月みたいに女を愉しめないっつったら、何かもぎとられたってのはぼんやり分かるかも」
そうだなあ、と同感する。要さんも葉月さんも、明確な知識は与えていなくても、男と女には本能的なものがあるらしいというのは悠紗に知らせている。それを損なわれたとすれば、重大なものを失ったと漠然とつかめるかもしれない。
要さんは鍵を開けると、僕を部屋に招いた。僕を奥にやって要さんも入ってきたので、「時間いいんですか」と訊いてみる。「どうせ早めに出ようとしてたから」と答えられ、そっか、と胸で得心しておく。要さんは靴を脱ぎ、僕もそうしてリビングへとついていく。
あんなに散らかっていた部屋が片づきはじめているのには、思わず立ちすくみそうに驚いた。服やタオルはまだ転がっていても、ゴミや小物は消えていて、ごちゃごちゃした印象がなくなっている。
何で、と思って、訊かなくても気がつく。もうじきここを離れる、ということだ。隅にやられていた旅行かばんやデイパックが中央に引っ張り出されていることでも、それは窺える。
みんないなくなってしまう。そして、ともするともう会えない。いよいよ実感を強いられ、ため息をつく。
「何?」
「えっ」
要さんを仰ぎ見る。要さんも僕を見おろしていた。
「ため息」
「え、あ、片づいてるんで」
「で、ため息」
「もう行っちゃうってことじゃないんですか」
「ああ、まあな。来週の頭には発つよ」
「そうなんですか」
「うん。だから今週はいそがしい。俺と葉月は資金かきあつめて、梨羽と紫苑は部屋片したり必要なもんとか買いにいって」
じゃあ、遊びにきても邪魔なだけだ。さもなくば、誰もいないか。「発つ前には挨拶に行くよ」と言われ、うなずきながらも泣きたい気持ちになる。
初めての気持ちだ。酒と煙草が混じった不健康な匂いも、ぐちゃぐちゃの部屋も、おしまいになる。この部屋は、八月まで空っぽだ。何より怖いのは、自分がその空っぽのあいだに、いなくなっているかもしれないことだ。
梨羽さんは、隅っこに怯えて丸くなっていた。ストーブで室内は暖かいのに、すっぽり迷彩柄をかぶっている。隣にコンポがあるので、音楽関連のものがホコリをよけているようでもある。
また何かあったのかを訊いて、要さんも梨羽さんの状態に気づく。
「あー、いや、ありゃ勘違いしてるな」
「勘違い」
要さんは梨羽さんのそばにいき、腰をかがめる。
「ほら梨羽、聞こえるか。俺だって」
要さんに肩をたたかれ、梨羽さんはびくんとした。そして、そろそろと顔を上げ、要さんを認め、僕を認める。ふっと泣きそうだった顔がやわらぎ、無表情に落ち着いた。僕はいまだ、梨羽さんの表情は顰め面か泣き顔しか知らない。
「……あの」
「泥棒とでも思ったんじゃないか。ほら、みんな出かけたはずなのに、なぜか鍵を開ける音がしてさ。バカだなあ」
聞こえた上に図星だったのか、うなだれた梨羽さんは抱えた膝に顔を埋めて落ちこんだ。要さんは愉しそうに笑い、梨羽さんの肩をぽんぽんとする。
梨羽さんとしては、ここを離れることで神経がとがっているところもあるのだろうか。言ってみると、「それもあるかな」と要さんは梨羽さんのずれたヘッドホンを戻す。
「っと、じゃあ俺は、そうのんびりもしてられないし」
「あ、はい」
「梨羽は無視しときゃいいよ。雑誌でもゲームでもやって。あ、テレビは映らないぜ。契約してないんで。で、梨羽。聞こえるか」
梨羽さんは無反応にうなだれている。
要さんは息をつき、腕を伸ばしてヘッドホンをずらすと、「萌梨置いとくけど、いいよな」と言った。梨羽さんは僕を睨むように見たものの、眼つきに反して即座にこくりとした。「よし」と要さんは梨羽さんのヘッドホンを整え、僕に向き直る。
「だってさ。ゆっくりしとけよ。紫苑はそのうち帰ってくると思うんで、梨羽がどうかなってもそっちに任せとけばいいし」
「分かりました」
「じゃな。葉月が帰ってきたときには、覚悟しろよ」
「はい」と笑ってしまった僕に、にやっとしかえし、要さんは鍵をじゃらじゃら言わせつつ玄関に行った。ドアを開ける音がして、鍵をかけた音のあとは何も聞こえなくなって、ため息をついた。
【第百十八章へ】
