風切り羽-119

帰っておいで

「苦しくないです」
 梨羽さんは鈍いまばたきをする。一瞬、こぼれる涙の量が増える。
「大丈夫ですよ」
 梨羽さんは鼻をすすり、うなずいた。慟哭は収まっても、すすり泣きは長引いた。苦しくないです、と繰り返そうとした。が、嘘がつらくなってきていた。
 そう、そんなのは嘘だ。梨羽さんへの気休めだ。僕は大丈夫なんかじゃない。梨羽さんが安んじられていくごとにそんな自覚が芽生えて育ち、僕は真実に逃げた。
「梨羽さんのせいじゃないです」
 梨羽さんは、これには何も反応しなかった。ただうつむいた。悪いものがよみがえったのでなく、ばつが悪いためのようだ。梨羽さんは迷彩柄の裾で顔や床を拭くと、横たわって音楽を聴きはじめた。
 僕は梨羽さんを見つめていた。まくらに頭を埋めた梨羽さんは、断続的に鼻をすすっていた。やがてそれも落ち着くと、何もなかったような無表情になり、縮まって音楽に閉じこもった。
 何だったんだろ、と僕はテレビの近くに這い戻る。意味不明のまま、済んでしまった。
 僕が考えごとで、鬱を発したのが発端ではあるようだ。それを梨羽さんは感知し、苦しいのかと訊いて、答えられなかったら泣き出して謝り出し、『何にもない』と言ってもらうとぴたりと落ち着いた。たどってみても、梨羽さんの心理回路は謎だ。
 そもそも、何で梨羽さんが謝るのだろう。梨羽さんが抱える影に問題があるのかもしれない。それなら僕には詮索できないかとあきらめると、僕は梨羽さんを錯乱させたくないのと僕自身落ちこみたくないので、考えごともせず、虚ろにガラス戸のほうを見やっていた。
 さいわい、まもなく玄関のほうで物音がした。紫苑さんかなと振り返ると、案の定だった。いつものギターを背負い、別の包みも抱えている。ちらりと目を向けられ、僕は頭だけ下げた。紫苑さんは何も返さなかったものの、それはいつもの反応なので僕は傷つかない。紫苑さんは梨羽さんも一瞥したのち、無言で奥の決まった場所に行った。
 腰をおろした紫苑さんは、引き裂くように包みを破った。することのない僕は、それを見ていた。現れたのはやはり新しいギターで、紫苑さんはゴミはひとまず押しやり、それを抱きかかえて調律を始める。
 当たり前だが、説明書も何も使っていない。紫苑さんはおにいさんのギターを手にしてギターを始めたのだから、独学に違いない。何かに頼るより、つちかった勘と指に任せたほうが自分の音が作れるのだろう。そのギターで今度のライヴをやるのかな、と思ったりする。
 紫苑さんが来たおかげで、梨羽さんの殻の感触が薄れて、孤独を強要されなくなった。僕は紫苑さんのギターの調律を聴き、それがいつしか例の新曲になったのを聴いていた。
 あのときより、複雑になっている。要さんと葉月さんはこの曲を、おとなしい曲と評していた。素人の僕でも、それにうなずける色が出てきている。梨羽さんはもうこれに詩をつけたのかなと、僕はその旋律を耳でたどっていた。
 時間の経過から察するに、聖樹さんは悠紗にも話せたのだろう。何かほんとにお腹空いてきた、と転がる時計を見たときには、十六時になろうとしていた。沙霧さんや両親へよりはやや深く話していると思うし、泣いてしまっているとも思う。
 まだ帰れない。胃のあたりをさすり、どうしようと思っていたときだ。玄関でがちゃがちゃと騒がしい音がした。
 梨羽さんは音楽に集中していても、紫苑さんと僕は顔を上げた。要さん──いや、葉月さんだろうか。どっちかだよな、と思っていたら、「疲れたあ」とわめきながらやってきたのは、葉月さんだった。言葉通り疲れていた顔は、僕を見つけると一気に明るくなり、ついで元気のよさそうな声も上がる。
「嘘、萌梨じゃん。ひゃー。何か久しぶりねえ」
 覚悟、という要さんの言葉を思い出したときには、僕は駆け寄ってきた葉月さんに髪をくしゃくしゃにされていた。
「元気だったか。ずっと来なくてさあ。おにいさんのこと憶えてるかな」
「え、まあ、はい」
「よしよし。あ、髪が。いいなあ、こんな腰がある髪」
 葉月さんは責任を取って僕の髪を整えると、にっとしてそばに座りこむ。瞥視してきた梨羽さんとギターに戻った紫苑さんを確かめ、「要はいないね」と肩にかけていたナイロンの黒いデイパックをおろす。
「来たときに、お仕事に行くところとすれちがいました」
「あ、そお。同伴かな。あいつの取り柄って、顔か梨羽の世話だけだもんね」
「………、葉月さんは仕事終わったんですか」
「昼のはね。夜にまたあるよ。十七時には出かける」
 仕事の仕組みが分からない僕は、ぽかんとした生返事をしてしまう。葉月さんはデイパックを開け、コンビニのふくろを引っ張りだした。
 出てきたのは食べ物で、物欲しそうな顔をしかけてしまった。僕は空腹なのだった。目の前で食べられるのはつらいかもと焦っていると、「いる?」とツナマヨのおにぎりを眼前にぶらつかせられる。上目をすると葉月さんににっとされ、頬を染めながら受け取らせてもらった。
 葉月さんはハンバーグ弁当を開け、「悠は?」と割り箸を割る。
「家です。聖樹さんと」
「あらあら。萌梨ひとりで来たの。喧嘩したのかしら」
「え、いえ。違います」
 要さんも言ったなあ、と頭をかすめる。
「っそ。今のうちに喧嘩したら、もれなく全国逃亡に連れていってやるぞ」
 全国逃亡。それもいいかな、と思った。聖樹さんとたちと喧嘩するのは願い下げでも、全国逃げまわるというのは、あそこにいたくなければ本来している行動だ。
「しかし、萌梨は疲れるかなあ。っとに、ばたばたすんだよね。こんな、のほほんとしてんの、ほんとめずらしいのよ」
「そう、なんですか。あ、来週には行っちゃうんですよね」
「あれ、知ってんの」
「要さんが」
「そっか。うん、行くの。あー、そう、セトリ憶えなきゃ。やだー」
 EPILEPSY前の葉月さんの暗記がよみがえり、おにぎりの包装をといていた僕は少し笑ってしまう。
「つっても、今回は五曲が関の山か。それぐらい俺だって」
「五曲、なんですか」
「うん。他のバンドと持ち時間振り分けてんだもん。次行くとこはね、あの歓楽街よっかやばくて騒がしいとこなんだ。そのぶんおもしろいバンドも多い。一番よく行くとこ」
「仲いい人とか、いますか」
「別に。うひゃーって思う奴はいる。Bazillusとかさ。そのへん出身のバンドなんだけど、これが俺たちと正反対の奴らでね。金はなくても、音楽がなきゃ生きていけないみたいな。メジャーの話来まくってんのに、納得するまであえて下積みやってるという。ひょえー」
「仲悪いですか」
「んーん。うちみたいに屈折してなくて、みんな普通におもしろいよ。レベルも高いし。音楽的な種類は俺たちと通じてても、精神的なものは逆な感じ。俺たちは死で、向こう生。分かるかな」
 分かるような、分からないような。「あんまり」と答えると、葉月さんは笑う。
「一緒に来たら、たぶん会えるよ。来る?」
「えっ。あ──」
「嘘です。萌梨は聖樹たちといるのがいいんだよな。気が向いたら、いつでも巡礼つきあわせてあげるよ。こき使うけど」
「はあ。あ、悠紗がいつかついていきたいって言ってましたよ」
「マジ。聖樹が許すかな。あ、もう萌梨がついてるか。うん、いいんじゃない。こき使うけど」
「覚悟してるって言ってました」
「ええ根性じゃ」と葉月さんはハンバーグにかぶりつく。要さんは意外と食べ物をひと口ずつにしていたけれど、葉月さんはそうしないようだ。
「で、悠だよな。聖樹と家で何してんの」
「え、ああ──お話を」
「お話」
 口ごもった。いや、要さんに言ったのだし、どちらにしろこの三人にも知られる。結果は同じか、と要さんにした簡単な説明を僕は復唱した。「へえ」と葉月さんは感心する。
「聖樹の奴、会わないうちに成長したなあ。ああ、聖樹の両親といえば、俺たちすっげえ嫌われてんだよねえ」
「知ってるんですか」
「知ってますよ。まあ分かりますわ、大事な息子がこんな道徳的アウトロー集団と。話した、か。何か寂しいね」
「寂しい」
「もう俺たちが守ってやんなくてもいいってことじゃん」
「そんなことはないと思いますけど」
「そおかなー。ま、家族が分かった上で味方につくっつうのは、心強いよな。特に悠はでかい。俺、ひとりもいないんで痛感してるわけよ。めでたしめでたし」
 あっさり祝福してひとりうなずき、葉月さんは弁当箱を空にしていく。
 僕もおにぎりを食べ、そうなんだなと思った。聖樹さんは、本当の意味で家族に溶けこめた。両親や沙霧さんとの家庭にも、悠紗との家庭にも。
 僕が感じた痛みの要因はそれだ。僕には、家族がいないのだ。心強い場所がどこにもない。葉月さんと同じく、痛感していて──違うのは、あっさりと祝福できないところか。傷ついている、ということにかこつけて、僕は卑しい。聖樹さんは聖樹さんなのだから、僕も祝福すべきなのに。
 葉月さんは、一時間この部屋で僕相手にごろごろと時間をつぶすと、「うざー」とか言いながら部屋を出ていった。
 気づくと、ギターの旋律がやんでいて、見ると紫苑さんは雑誌を読んでいる。いつものギターはそばにいても、新しいギターの影はない。何で、と思って、奥の部屋に持っていったらしいという結論に行き着く。いつ持っていったのだろう。分からなかった。
 梨羽さんは相変わらず空を眺め、無表情に聴覚へ神経をそそいでいる。
 昼間の梨羽さんの奇妙な錯乱を思い返した。本当に、あれは何だったのだろう。あの梨羽さんと、この梨羽さんはかけはなれていて、夢だったのかとも思いそうだ。
 梨羽さんなりに、僕に心を開いてはいたのだろうか。梨羽さんは許さない人の前では感情をさらさない。ライヴのときは観客がいて、街には通りすがりの人がいて、溜めこんででも耐え、安心できるところに逃げこむとやっと泣き出した。梨羽さんは変なところで死力を出しそうだし、僕が許せなかったら死ぬ気で耐えていたと思う。
 梨羽さんは睫毛を伏せた。僕はガラス戸を向く。日は落ちて暗くなろうとしていた。活字が読みにくくなったのだろう、紫苑さんが部屋に明かりをつけてカーテンをひいた。そのとき、インターホンが鳴った。
 梨羽さんは無反応でも、紫苑さんは振り返った。僕もそうした。何となく紫苑さんのほうを見ると、紫苑さんも僕を見る。
「……要なら、鍵、持ってるけど」
 訳すと、要さんではないということのようだ。それには葉月さんもあてはまる。もとより、葉月さんは今出かけたところだ。
 ここに誰か来るというのもなさそうだし、聖樹さんか悠紗だろう。紫苑さんが動いてくれないので、僕が立ち上がる。ここに僕が怖がる誰かが押しかけることはないだろう。
 廊下への角にあるインターホンの受話器を取り、何と言えばいいのかに迷った。誰の名前を言おう。XENONです、なんてふざけた対応もできない。“どちら様ですか”でいいかな、と思ったとき、『梨羽?』と向こうで声がした。
『梨羽なら、萌梨くんに代わって』
 聖樹さんの声、だ。僕はほっとして、「僕です」と返した。
『萌梨くん?』
「はい」
『そっか。えーと、じゃあこれで話しこんでもね。帰っておいで』
「あ、はい。分かりました」
 聖樹さんの声に、怒ったり不愉快がっている色はなく、ひとまず安心した。僕がしたことは、最大級のお節介とも取れた行動だ。
 受話器を置いて、部屋を見返る。梨羽さんは言うまでもなく、紫苑さんも読書に戻っていた。それでも、「お邪魔しました」と頭は下げ、「鍵、かけてくださいね」ともつけくわえると玄関に行った。
 駆け足をしながら、荷物はないよな、と頭の中で確認する。靴を履き、ドアの前で何秒か逡巡した。
 声だけでは分からない。聖樹さんと悠紗はうまくいったのか。もし気まずくなってしまっていたら。僕が鈴城家を出ていくのは、暗黙の了解だ。
 そうなったら四人についていこうかな、なんて勝手な気休めで心を決めると、僕は思い切ってドアを開けた。

第百二十章へ

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