風切り羽-12

行きたくない場所

 悠紗が発散する空気のどす黒さに、聖樹さんは困惑してこまねいている。そこをややずれて、食卓で朝食を取る僕は、その様子を一歩引いて見ている。現在鈴城家のリビングでは、これが毎朝かと思うと、複雑になる状況が続いていた。
「悠」
 僕がたまご焼きをつまんだところで、聖樹さんはパジャマすがたでうずくまる悠紗のかたわらに座りこんだ。聖樹さんはスーツすがたで、きっちり出勤の支度を済ましている。
「もうお迎えのバスが来るよ」
「知らない」
「用意しなさい」
「やだ」
「そのまま連れてくよ」
「ここにいる」
「甘えないの」
「甘えてないもん」
「行きなさい」
「行きたくない」
 冷静な悠紗が怖い。
 聖樹さんはため息をつくと、掛け時計を見上げた。八時前だ。僕の案じた視線に気づくと、聖樹さんは何とも言えない苦笑をもらす。怒ってるのではなく、融通のきかない親を演じるのがつらいようだ。悠紗を保育園にやりたくないとは、昨日も話していた。
「悠紗」
「嫌」
「また着替え持ってそのままバスに行くの」
「バス行かないもん」
「みんなに笑われるよ」
「行かない」
「悠──」
「行きたくないもん、行かないよっ。ここにいる。あんなの嫌。みんな嫌い。何で行かなきゃいけないの。やだよお」
 悠紗はわっと泣き出し、聖樹さんは参った顔になった。けれど、仕方なさそうにクローゼットに向かう。着替えを持ってバスに行く、のだろうか。
 悠紗は床に這いつくばって泣きわめいている。悠紗がここまで我をまき散らすなんて、たぶん相当だ。嫌な場所に行きたくない気持ちは、僕も痛感して知っている。
 リュックに悠紗の服をつめる聖樹さんに、僕はさしでがましくも声をかけた。
「あ、うるさいかな」
「いえ。その、僕、ここにいさせてもらうんですし、よかったら悠紗といても──」
 悠紗はがばっと起き上がって、こちらに来ると、僕にきつくしがみついた。聖樹さんも僕も面食らう。悠紗は僕の腰に顔を押し当て、再びうずくまった。
 数秒、沈黙が流れた。そののち、聖樹さんはあんがいあっさりリュックをクローゼットに戻し、こちらに歩み寄ってきた。
「悠」
「行かない」
「話を聞きなさい。いい子にしてなかったら、萌梨くんに言いつけてもらうよ」
 悠紗はぴくりとして、ついでそろそろと顔を出した。そばにかがんだ聖樹さんは、「分かった?」と悠紗に微笑む。こくっとした悠紗は、涙でぐちゃぐちゃの顔で咲った。
 聖樹さんは、悠紗の頭をぽんとすると、僕には謝る。
「よろしくね。この子、そんなに手はかからないし」
「はい」
「ありがとう。何かしたら、容赦なく報告して」
「しないもん」とふくれる悠紗に聖樹さんは笑み、腕時計を見ると、「来た先生に断るか」とつぶやいた。バスに乗ってくる先生だろう。
 悠紗が僕の服を引っ張って、「ん」と覗きこむと、「ありがと」と悠紗は涙をぬぐって笑顔になる。僕も口元を綻ばせ、寝ぐせの残る悠紗の頭を撫でた。
 僕に会社の電話番号や昼食は適当に食べていいことを伝えると、聖樹さんはリビングとキッチンの仕切りに置いていた眼鏡を取った。外に行くときはかけるようだ。ないほうがいいのに、と思っても僕が口出しすることでもない。
 聖樹さんはノートPCも入ったかばんを持つと、「じゃあね」と部屋を出ていった。
 ふたりきりになった僕と悠紗は、顔を合わせた。「着替えようか」と僕が言うと悠紗はうなずき、僕は朝食を中断して悠紗の朝の支度を待つ。素早く着替えたり洗顔したりした悠紗は、聖樹さんが整えていた朝食の前に座った。僕は悠紗と共に朝食を再開する。
「僕ね、みんなと同じにするの嫌なんだ」
 悠紗は味噌汁に浮かぶ豆腐をつつき、僕は食べかけだったたまご焼きをかじる。僕が作るのより、ほどよく甘い。
「にこにことか仲良しとか、あそこでさせられることも嫌いだし。僕、僕がしたいこと自分で知ってるよ。しなきゃいけないことも分かってる。でね、僕にはにこにこはなくていいと思うんだ。あったらダメだもん」
 悠紗は味噌汁を飲み、「いけないかな」と僕に上目遣いをする。「そんなことないよ」と僕は箸で鮭の塩焼きをほぐす。
「賢いよ。僕、そんなの今だって考えない」
「そうなの?」
「うん。考えてなかった、かな。悠紗たちといて、考えるようになってる」
「そっかあ」と悠紗は嬉しそうににっこりとする。
「嫌なことは、逃げていいんだよね」
「無駄なのはね」
 そう言った悠紗も和食では箸を使い、上手に魚をほぐしている。
「保育園にいる人も嫌いなんだ。みんなお友達って何か変だもん。僕の友達は僕が選ぶもん。同じ保育園に通ってるのってたまたまでしょ。なのにそれで友達って、そんなん嘘だよ」
 嘘──偽善、のほうが適切だろうか。悠紗が嫌悪しているのは、集団行動で発生する偽善だ。偽善は卑しいけど、あると便利だ。
「言う通りにしてるみんなは、僕が変って思ってるの。先生は僕を可哀想にするし。それ嫌い」
「可哀想」
「おかあさんがいないから、こんなになったって思ってるみたい」
「………、それはやだね」
 悠紗は顔を上げ、「そう思う?」と言った。僕がうなずくと、「やっぱり萌梨くんは味方だね」と満足げに咲う。
「で、僕が一番嫌なのは、可哀想って思うのが僕に優しいこと、って先生たちが思ってることだよ」
「思ってるのかな」
「思ってるよ。『おかあさんがいなくて、寂しいんだね』とか頭撫でてきたりするの。それを僕が怒ると、わけ分かんないって顔するしさ。じゃなかったら、負けず嫌いしてるとか。何で分かんないか、僕には分かんないよ。萌梨くんは分かる?」
 僕は箸に味噌汁のわかめを絡めて考え、「そういうふうに考えるのは分からないよ」と言う。
「そういう人ばっかりなのは知ってる」
「ばっかりなの」
「ばっかりだよ」
「やだなー」
 僕は咲った。むずかしい心理をつかんでいるわりに、結論は単純でかわいい。「なあに」と首をかたむける悠紗にはかぶりを振り、僕は粗熱の取れた味噌汁に口をつけた。
 朝食が終わると、悠紗は食卓を拭いて僕は食器を洗った。「ほっといてもいいんじゃない」と悠紗に言われても、慣れているのでぱっと片づけてしまえた。
 午前中、悠紗はゲームはせずに、テーブルに先日のノートや本を開いた。覗いてみると、音楽の授業のような記号や用語が並んでいる。「何してるの?」と訊いてみると、「お勉強だよ」と聖樹さんも言っていた通りに返ってきた。
「音符だよね」
「音楽のお勉強なの」
「音楽」
「僕ね、おっきくなったら、梨羽りわくんたちみたいになるんだ」
「りわ、くん」
「うん。あ、僕がなりたいのは、紫苑しえんくんだよ」
 梨羽くん。紫苑くん。初耳の名前だ。悠紗の数少ない友人だろうか。いや、十三日の金曜日に帰ってくる先生か。
「音楽したかったら、楽譜とかもちゃんと分かってなきゃいけないの」
「まあ、そうだね」
「分かってなくてやってる人もいるんだって。もとむくんと葉月はづきくんが言ってたよ。そういうのはくずなんだって」
「クズ」
「うん」
 分かっていない口調からして、“クズ”という単語のきつさを悠紗は理解していない。その、要くんだか葉月くんだかが吹きこんだのか。どんな人だ、と思ってしまった。
 悠紗が勉強するあいだ、僕は隅にやりっぱなしの荷物を整理した。しおりや筆記用具、水筒にはぞっとする。三日も放置していた。中はどうなっているのか、さらに放っておくのも恐ろしいので、あとで洗わせてもらうことにする。
 旅行に必要なものが出てきて、おみやげ代の一万円も出てくる。聖樹さんに渡そうか。ここにしばらくいるのなら生活用品に当てようか。聖樹さんに相談しよう。
 底から発掘されたおやつは、食べるヒマも余裕もなくてそのままだ。そうしてかばんを一度空にしたところで、「何してるの」と悠紗がやってきた。
「荷物、整理してるんだ」
 悠紗は顔を曇らせ、「行っちゃうの」と僕の服をつかんだ。僕が首を振ると、悠紗はひとまずほっとする。そういえば、悠紗にはここにいさせてもらうことになったのを話していない。
「悠紗」
「んー」
 座った悠紗はおやつのふくろを開け、「お菓子だ」と瞳を輝かせる。
「昨日、悠紗が寝たあとに聖樹さんと話したんだ」
「おとうさんと。あ、ポッキー」
「これからどうするか、って」
 こちらを向いた悠紗の瞳は、再度曇る。
「萌梨くん──」
「僕が暮らすと、お金もかかる。僕には家もあるんだし」
 悠紗は睫毛をまたたかせ、「おうち」とつぶやく。
「……そっ、か。あるよね」
「けどね、僕、そこを出てきたんだ」
「え」
「いたくなかった。僕んちはここみたいじゃなくて、いるとつらかった。学校も怖くて行きたくなかったし、僕、あっちにいると自分がどこにいればいいのか分かんなかったんだ。でも、そこにいるしかなかった」
「そお、なの」
 悠紗は繊細に睫毛を伏せ、手の中でビニールぶくろをいじる。
「僕の親は放っておく親じゃないんだ。捜しにくるよ。僕がここにいると迷惑なんだ」
「迷惑じゃないよっ」と悠紗は勢いこんで顔を上げる。
「萌梨くんがやなら、帰ったらダメだよ。僕は萌梨くんの味方するよ」
「………、うん。聖樹さんも、そう言ってくれた。お金も気にしなくていいって」
 悠紗は睫毛を上下させ、ここで僕が告げたい事実をつかむ。「ほんと」と破顔する悠紗に僕はうなずいた。
「ずっとではなくてもね。ここにいたい、って初めて思ったんだ。ここだったら、嫌な気持ちになるのも少ない。それが少ないじゃなくて、なくなるまで、って。いさせてもらう」
「そっかあ。元気になって出てっても、遊びには来るよね」
「それは、うん」
 悠紗はほっと喜色し、僕も安心した。やはり悠紗も、聖樹さんと同じく、僕の心に寄り添ってくれる人だった。
 開けたら何がどこにあるか判然とするよう、荷物をかばんにつめなおしていく。悠紗はしおりを拾い、読めるところを断続的に発音した。読めても意味の分からない言葉が多いのか、眉を寄せている。僕はそれを返してもらうと、一考し、細かくちぎった。
 悠紗はこちらを見る。僕は痛く微笑んだ。
「捨てたいんだ」
 悠紗は僕を見つめ、こっくりとすると、ゴミ箱を引き寄せてくれた。僕はそこに、自分があの忌まわしい修学旅行にいたのを破棄した。

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