風切り羽-121

傷口を乾かすように

 夕食ができあがると、聖樹さんは寝室に悠紗の様子を見にいった。すぐ帰ってきた聖樹さんに、悠紗はついてこない。「眠ってたよ」と言われ、僕はうなずく。
 昨日は沙霧さんがいて夜更かしもしていたし、体調的には釣り合っている。それを言うと聖樹さんも納得し、僕たちはふたりで夕食を取った。
 この場でエレベーターでしそこねた質問をしてみる。話して、悠紗は分かってくれたかどうか。聖樹さんは、うなずきながら口の中のものを飲みこむ。
「表面的な理解は、沙霧とか両親には届かなくてもね。内面的なことは、あっちには届けないぐらい分かってくれた。『悠はどうやって生まれたのか分かる?』って、そういう知識から教えていったよ。それがないと、ほんとに何なのか分からないからね。それから、好きな人とすることだってこと、無理にすることじゃないこと──説明しても、たぶん、よく飲みこんでなかったけど。僕もそうやって分からなかった頃に、分かんないまま、今教えたことを踏み躙られることをされたんだよって、話した。僕が泣き出したら、悠はぽかんとするより一緒に泣いちゃって。『分かるの?』って訊いたら、首振ってた。ただ、僕が苦しかったら自分は哀しいって。悠が泣いたのは、自分のためでもあったんだと思う。もっと、理解できなくて取り乱すか、ぼうっとするかだと思ってた。萌梨くんが、悠をいろいろ励ましてくれたんだってね」
 豚肉を噛んでいた僕は、首をかたむける。励ました、ことになるのか。けっこう、婉曲で心許なかったのだけど──
「あの子としては、萌梨くんが教えてくれたのが心のバランス取っておくのに役立ったみたいだよ」
「そ、ですか」
「最後に、『萌梨くんもそういうことされてたの?』って訊かれた。うなずいちゃった。よかったかな」
「はい。聖樹さんと似たことされてたっていうのは、話してたんで」
「あ、そうなんだ。どうりで」
「僕は、悠紗には知っておいてほしかったですし。聖樹さんの気持ちに整理がつけば、知られていいかなって」
「そう。萌梨くんのほうが、悠の気持ちすくいとってくれてたね」
「え、いや。悠紗が、聖樹さんだと傷つけたくなくて言うに言えなかったとこもあるでしょうし」
「そう、かな。うん。ずっと心配だったとは言われた。どうすればいいのか分からなくて、僕に合わせて嘘ついておくしかなかったって。『ごめんね』って言ったら、また泣いちゃったな」
 聖樹さんの迷い箸は、豚肉のあいだに隙間を作っている。
「あの子が不安がってたのは知ってる。予想以上だった。情けなかったよ。置いていかれる気がするって話されたときは、ほんとに、悠を忘れて自殺に走るのはなくなってほしいと思った。話してよかったよ。悠には早いかなって思ってたけど、ぜんぜん遅かったんだね。この子が自分の子供でよかったとか思ったよ。この子に自分がいなきゃいけないなら、死んじゃダメだなって」
 煮物の里芋を口にふくんでいた僕は、そっか、と息をつきそうになる。悠紗に打ち明けたのは、自殺願望を拒む力にもなった。僕もまた生死の境界をふらふらしているので、その重要さは分かる。悠紗に告白したのは、絆を強くするほうに動いたわけだ。
 聖樹さんは豚肉とごはんを食べていて、僕はそれを飲みこんだのを見計らい、沙霧さんや両親はどうだったのかを問う。
「分かってはくれたんですよね」
「まあ、うん。沙霧は──沙霧に聞いたかな」
「はい」
「何か言ってた?」
「ショックは、受けてました。考えてもなかったって」
「……悪いことしたかな」
「受け入れてましたよ。知らなかったほうがよかったって感じはなかったです」
「そっ、か」
「聖樹さんがどれだけ苦しいかとか、自分には分からないとこがあるのも仕方ないって、そのへんも認めてました。聖樹さんを傷つけっぱなしにしてたのが、個人的につらくはあったみたいです」
「そう。そんなことないのにね。落ちこんだときに、沙霧が声をかけてきて、目が覚めるのはよくあったよ。家にいるのも、沙霧がいてだいぶマシだったし。今度言ってあげないとね」
 首肯してお茶をひと口飲むと、「ご両親は」と訊いてみた。味噌汁の具をすくおうとしていた聖樹さんは、「分かってくれたよ」と言う。
「僕の痛手とかは、沙霧と同じでつかめなくても。沙霧以上に面食らって、すんなりともいかなかった。最初は信じてくれなかったんだ」
「そうなんですか」
「うん。かあさんが先に信じた。昔、洗濯するときに僕の服に精液がついたりしてたの思い出してね。その頃は僕自身の、夢か自分でしたものだって思ってたって。とうさんは拒否反応で、ほんとに夢精とかだったんだろって信じようとしなかった。でも、同じ男だから、彼女との生活で男としてぜんぜんダメだったの話したら、何もなかったわけがないって、信じた。それで、今までのことをざっと。沙霧は言ってこなかったけど、両親は何で話さなかったんだって言ってきたよ。正直に言った。信じるわけがないと思ったって」
「……どうでしたか」
「怒ろうと、したみたい。図星だったんだろうね。現に今、信じようとしなかったし。黙りこんじゃって、謝られたよ」
 味噌汁のえのきを噛み、またあの胸の苦しさを感じた。僕にそんな家族はいない。
「話せる範囲のことは、いくつか話したよ。それでも、向こうにはショッキングだったみたい。僕も沙霧の前で泣きまくったはずなのにまた泣けてきて、かあさんも泣かせちゃって。それしかなかったのかな、何回も謝られたよ。最初の、信じてくれなかったあいだは、話さないほうがよかったのかって思ったりした。最終的には、『話してくれてよかった』って向こうが言ってくれて、それで僕も、よかったんだって。後悔はしてない」
「そう、ですか」
「梨羽たちのことも話したよ。僕の両親、僕が梨羽たちとつきあうことにいい顔してなかったんだよね。話して、理解したってとこには驚いてたけど、そうなのかって。僕があの四人にすごく支えられてるのも認めたし、あの四人と友達になったおかげで、何にもなくなったいうのには複雑そうにしてね。今まで偏見で決めつけて、四人には僕から遠ざかってほしいと思ってたのが、恥ずかしかったみたい」
「はあ」
「何か、朝は照れくさかったな。沙霧がいなくて親と向き合うのって久しぶりだったし、この歳になって親に泣き面見られたのもあったし。前みたいに息苦しくはなくて、話してよかったんだなあとは感じられたよ」
 こくんとしながら、ごはんをいじるふりでうつむく。
 いいな、と思った。うらやましい。僕の親はそんなじゃない。そうなれる望みもない。おかあさんは消えて欠落し、おとうさんは狂って壊滅し、僕の家庭はがらくた同然だ。
 僕にはそんな居場所はない。帰れる場所なんてどこにもない。あそこはただの帰らなければならない場所だ。子供だから帰るほかない場所だ。僕の家庭への感覚なんて、磔みたいなものだ。逃げられない拷問だ。
 そのとき、不意に「萌梨くん」と呼ばれて、はっとする。
「あ、は、はい」
 いつのまにか、うつむくふりが本気でうなだれていた。聖樹さんは詫びた顔をしている。
「ごめん、ね。萌梨くんはおうちに、いい気持ちはないんだよね」
「あ、えと、平気です。聖樹さんは聖樹さんです」
 それでも聖樹さんは心苦しそうで、僕は話題を変えることにする。頭を巡らし、聖樹さんがひと月前から告白を考えていたというのを思い出す。それを言うと、聖樹さんは気がかりそうだったけど、愁眉をほどく。
「うん。萌梨くんといて、変わらないって思ってた気持ちがけっこう変わったしね」
「ぜんぜん、分かんなかったです。僕が言ったので悩ませてるって」
「萌梨くんは悪くないよ。言ってくれてよかったと思ってる」
「そ、ですか」
「相談しなかったのは、ひとりで考えたほうがいいと思って。萌梨くんも言ったでしょう、僕が決めなきゃダメだって。僕もそう思ったんだ。きちんと話せたら、あとで報告しようって思ってた」
 合点をいかせ、豚肉をひと切れ口に入れてごはんも続ける。お茶でいったん口内を飲みこんだ聖樹さんは、「最後には甘えちゃったね」と咲う。
「言い訳すると、両親にも話すとは僕もちっとも考えてなかったんだ。すぐ決められなくて、誰かに訊かなきゃ怖かった。沙霧にだってひと月も悩んだのに」
 うなずき、食べ物も嚥下する。
「それで、浮かんだのが萌梨くんだった。萌梨くんが賛成してくれたら、話してもいいことだろうって一番信じられそうだったんだ。でもごめんね、僕が甘えたせいで、あんな話させちゃって。萌梨くんにはすぐ子供になっちゃうな。悪かったなって思ってる」
 あんな話。一瞬分からなかったけど、そういえば僕は、聖樹さんを説得するのに自分の家庭を引き合いに出したりしたのだった。
「僕が勝手に話したんです。聖樹さんがあれでおうちとうまくいったんなら、よかったです」
 聖樹さんは僕を見つめ、少しつらそうでも微笑んでうなずく。
「萌梨くんには鬱陶しいと思うけど、僕にはそうやって甘えさせてもらえるの、すごくほっとするんだ。今までそんな人いなかったし、これからもそうだろうし。悠とか沙霧にはいくらかマシに接せられるようになるとしても、萌梨くんほどじゃないよ」
「そう、ですか」
「うん。こうやって普通にあのこと話したりできるのは萌梨くんだけだよ。こういうのを日常的に話すなんてつらいに決まってると思ってた。萌梨くんといて、ほんとにそうかなって思ってきてる」
「……日常的」
「今まで、ずっと押し殺して隠してた。そうやって守ってるのが、逆にあのことを忘れられないことだって強調してじめじめさせてたのかな、って。何でもなかったことみたいに話してたら、乾いていくかもしれないって」
 確かに、とお茶を飲んだ。どうでもいいことだったら話せる。ひどいことだから口にできない。やや荒治療だとはいえ、大事に守っているものを口にしてすりきれさせたら、傷口の湿りは乾いていくかもしれない。

第百二十二章へ

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