風切り羽-124

死体

 満足したものを下着に収め、みんな、僕の後始末もせずに帰っていった。僕はベッドの上で、震えも泣きもせずに固まっていた。
 あのあと──おとうさんの目をドアの隙間に見つけたあと、何をされたか憶えていない。笑い声も感触も、痛みさえ忘れてしまった。心臓の周りが悪く騒ぎ、吐きそうな霧に神経も精神も支配されていた。
 おとうさんの目は、いっときしたら引っこみ、ドアも音もなく閉まった。僕以外は、誰も気づかなかった。僕はまばたきもできずに、硬直していた。みんなにどうあつかわれたか、どこまで言うなりになったか、憶えていない。
 あの目が離れなかった。憎しみがたぎっていた。
 緊張の糸がほどけない。みんなが帰ったからといって、今日はこれで終わりではない。
 これからだ。これから始まるのだ。畏怖のあまり、犯された軆を片づけることもできなかった。
 予測は的中した。みんなが帰ってしばらくすると、ドアが静かに開いた。一瞬、服も着ていないのを後悔したものの、どうせ、腕を持ち上げることもできない。
 部屋に入ってきたのは、言うまでもなくおとうさんだった。怒りのこもった息遣いが聞こえた。
「あれは何だ?」
 その声は、怒りのあまり震えをはらんでいる。表情は見れなかった。折れた首に僕の顔はうつむき、眼球を動かす力もない。
「どういうことだ。言い訳はいらん。説明だけしろ」
「……おとうさん……」
「お前が誘ったのか」
 かすれた喉に、声を発するのもつらかった。おとうさんは無言を肯定だと取った。
「そうなんだな。桃恵みたいにほかの男と──お前らはくだらんところまでそっくりだな。お前らの頭の中は、俺をバカにすることだけなのかっ」
 リビングのクーラーがドアの隙間から滑りこんできたのか、冷気が肌に触ってきた。熱された空気に、それはのんきにこころよかった。
「お前も俺を裏切るつもりなんだろう。俺を捨てて、別の男についていく気なんだな。許さんぞ。お前は俺のものだ。誰にも渡さないからな。桃恵みたいにうまくやれると思うなよ。いいな、お前は逃げたって必ず俺につかまるんだ。お前は桃恵じゃない、桃恵みたいに俺を逃げられはしないんだっ」
 桃恵じゃない。とうとう言われてしまった。おとうさんにとって、僕は僕になった。おかあさんではなく、僕に。
 だるく、視線を上げた。おとうさんは僕を睨み返した。黒いような赤いような、煮えたぎった目だった。
 そのものすごい憎悪の色は、僕の瞳の傷ついた混濁を見取ると、ふと、とまどった。おとうさんは僕の瞳を見直す。僕は虚ろな瞳を変えられない。おとうさんは、なおも僕の瞳を瞳に取りこみ──突然憎悪を緩めると、ベッドサイドに歩み寄ってきた。
 ついで、まくらもとにひざまずいて僕の頬をさすり、ゆっくりと問うてくる。
「無理やりだったのか」
 僕はおとうさんを見つめ、少しうなずいた。
「お前が求めたんじゃないんだな」
 またうなずいた。
「……そうか。それなら、いいんだ」
 睫毛を伏せた。それなら、いい。その言葉に死にたいぐらい絶望した。
 おとうさんはため息を許してもらえた安堵と取ったらしく、僕の虚脱した細い腕を取ると、ぼろぼろの軆を抱きしめる。
「ひどい奴らだな。可哀想に」
 おとうさんは、僕の頭を優しく撫でた。僕は傷にへらをさしこまれ、大切なものをくりぬかれている感覚がした。
 おとうさんは丁寧に僕の軆を抱きあげると、バスルームに連れていった。タイルに横たえた穢された軆を、くまなく清めていく。口移しでうがいをさせ、泡立てた素手をじっくり全身に這わし、はしたなく開かせて脚のあいだを洗う。ボディソープを塗りたくった指で、内部までも浄化された。
 僕は動けなかった。何をされても、横たわってじっとしていた。辱めるようなことにも、何とも思えなかった。嫌悪を超越し、死のような無感覚が細胞に蔓延していた。
 おとうさんは僕の軆を消毒するように熱いお湯で流すと、タイルの上から起こし、大判のタオルで全身の水滴を拭いた。そして服は着せずにタオルで素肌を包むと、また抱きあげて寝室に直行した。
 寝室は薄暗く、夕方であるのを初めて知った。おとうさんは僕をそっと冷たいシーツに下ろすと、自分も服を脱いだ。
 僕は何か言うことすら疎ましく、拒否しようという意思さえ芽生えなかった。おとうさんは僕の上に馬乗りになり、僕をおおっていた白いタオルを恭しく剥ぐ。
 理性はそこまでだった。次の瞬間、僕の肌にはおとうさんの肌がべったり密着し、胸苦しさに息苦しさが加わった。
 口の中になめくじがいる感触しか覚えなかった。僕はなめくじを口に含んでいる。その想像には吐き気がしたが、父親の唇を受けている事実を認めるよりマシだった。
 おとうさんは僕の軆じゅうに口づけ、べたべたと紫の刻印を残していった。
 今日は鳥肌もなかった。頭の中も目の前も真っ暗で、生きている心地がしなかった。心臓の音も遠い。生身である感覚がない。
 嫌悪を催せるだけ、マシだったのか。そう思うぐらいに、僕は何ひとつ感じることができなかった。完全に受け身だった。おとうさんは僕をうつぶせにし、舌でほぐした肛門に充血した性器を押しこんだ。
 やっぱり何もなかった。それはかえって空恐ろしかった。嫌悪や屈辱が湧くほうがよかった。
 父親に抱かれているというのに、僕は無表情だった。まるで死姦されているようだった。いや、まさしくそうだった。僕は死姦されていた。何も感じない。何も聞こえない。何も見えない。何もかも無感覚に葬られている。
 僕は死体だった。心の傷口の深度が致命傷に到達し、蝕むように軆に表出している。僕は死んでいた。気づくとすべて終わっていて、寝室は真っ暗になっていた。
 おとうさんは寝ていた。いつもそうだ。終わると寝る。いつもよりいびきがひどくなくて、その事実にぞっとした。
 そう、僕は酒抜きでおとうさんに抱かれたのだ。いよいよ近親姦だ。この人は、僕を息子だと認識した上であんなことをした。何をどうされたのか、いつも以上によく憶えていなくても、その事実だけで、じゅうぶんいつもより総毛立った。
 最中の心の空洞も怖かった。ぽっかりしていた。嫌悪も屈辱もなかったといって、受け入れたとか強くなったとかではない。無感覚だった。それが何を意味するのは知っている。
 死だ。僕は今日、また一歩死に近づいた。麻痺が激しくなった。何にも感じられない。すべてがだるい。頭から堕ちていくような絶望感がくだってくる。僕は、辱められるのを嫌がることすら鬱陶しくなってしまったのか。
 こめかみに、ぽろぽろと雫が落ちた。目をつむった。それでも涙はまぶたの中に収まりきらなかった。目尻から雫が生まれ落ちていく。僕はうつぶせになると、声を殺して泣いた。
 心のどこかがほっとした。泣けた。やっと泣けた。まだ感情がある。苦しいと思う。つらい。哀しい。
 よかった。僕は無感覚じゃない。感じられる。このひどい痛みを。軆も、心も。僕は痛い。すごく痛い。まだ、分かる。
 傷ついた軆を引きずって、寝室を出ていった。頭の重みや腰の痛みに、タイルに座りこんでシャワーを浴びた。空気の入れ替えに窓と部屋のドアを開けて風を通し、万一おとうさんが起きたときのために、夕食を作っておく。
 思い当たることをひと通り済ますと、のろのろと部屋に帰った。精液の臭いは染みついていた。ドアは閉めても窓は開け放っておき、荷物みたいにベッドに倒れる。
 鈍重に仰向けになると、まくらに頭を落とし、天井を見つめた。この部屋も悪い記憶の一環になってしまった。そう思うと、喉元がどんよりしていたたまれなかった。
 どうすればいいのだろう。どうやったら、この不条理な虐げを逃れられるのだろう。どこで安らげるのか分からない。安らぎがどんなものなのかも分からない。
 僕にはそんな場所は存在しないのか。安らぎを知る権利がないのか。だからこんな、死んだように生きろと、さもなくばとっとと死ねとでもいうような虐待をされるのか。救われたければ、消えていなくなるしか術はないのか──。
 涼しくなってきた夜風が、長い前髪を額から滑り落とす。目を閉じた。全身が鈍痛で重たく、沈むまま二度と動かせそうになかった。
 心臓のどくどくという脈拍は、心が傷口から血を流す音に聞こえる。
 この血を止めるにはどうしたらいい?
 どうしたら、このずきずきする呼吸をやめてしまえる?
 膿んだ傷の脈打ちを乾涸びさせられる?
 死ねばいいのだろうか。死んだら救われるのだろうか。
 それなら、僕は死にたい。もうたくさんだ。ここにいたくない。ここにだけはいたくない。
 だけどここにいるしかないのなら、もう僕は、いっそ死んでしまいたい……。

第百二十五章へ

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