好きな子ができる頃
「悠紗、聖樹さんに話聞いたんだよね」
味噌汁を飲んでいた悠紗は、話題を振られて慌ててそれを飲みこむ。
「ん、聞いたよ」
「意味、分かった?」
悠紗は睫毛をぱちぱちとさせ、「よく分かんなかった」と正直に言った。
「萌梨くんが言ってたんで、分かんないときは分かんないって言ったよ」
「そっか。聖樹さん、それで哀しそうにした?」
「ううん。言われるの、ふたつあったよ。大人になれば分かるよ、っていうのと、こんな気持ち知らないままでいいんだ、っていうの」
「……そっか」
「僕、おとうさんがどんなのされたかもちょっと聞いたの」
「うん」
「やっぱね、何でそれが苦しいのか分かんなかったな」
「……うん」
「おとうさんをそうした人たちみたいな分からないじゃないと思うよ。そういう、軆を触られるとかね。どうしてそれであんなになるのかはよく分かんない。僕、お風呂入ったらおとうさんに軆洗われたりするしさ。それとは違うんだよね」
「うん」と僕が言うと、悠紗はむずかしい顔になる。
「僕、軆に触られるってなったら、そういうことで触られるっていうのしか知らないからかな。おとうさんは、今分からなくても、大きくなったらおかしいっていうのが分かるって言った。ほんとにそんな、大人になったからって分かるものなの」
「うん。というか、大人にならないと分かんないんだよ。本来、大人がやることで子供は無縁なんだし。大人がすることを、子供に『しなさい』って命令するのは変でしょ」
悠紗は考え、うなずいた。
「子供だったらしたらいけないんだ」
「うん。でも、何が何でしたらいけないのかとか、お風呂で軆洗われるのとどう違うとかは──」
「んー、分かんない」
「僕もそうだったんだ。分かんなかった。分かるようになったのは、されてる僕でも十一か十二だったし」
「されなきゃ分かんないってことじゃないんだ」
「どれだけの痛手かはされなきゃ分からなくても、ひどいことだっていうのはね。悠紗はひどいって分かる人だと思う」
「え、分かんない人もいるの」
「いるよ。笑ったり、それがどうしたんだっていう人もいる」
悠紗は不安げにして、「そういう人、嫌?」と訊いた。「苦しいっていうの否定されることだよ」と僕がうなずくと、悠紗は思いわずらう顔になる。
「僕、分かんない。それがどうしたんだって人になるかも」
「ならないよ」
「分かんないよ。今、そう思うもん」
「それがどうしたんだ、っていうより、それはどういうことだ、って感じじゃない?」
悠紗は僕と顔を合わせ、「何か違うの?」と首をかしげる。「違うよ」と僕は悠紗の不安をなだめた。
「大人だったら変でも、子供ならそう思って当然なんだ。僕だってそうだった。で、されてることを嫌だって思っていいのかも分かんなかった」
悠紗は黙り、お茶を飲んで考える。どんな説明をしようが、当面、年齢や知識、眠っている本能が隘路になってしまう。性的なことを知らない子供には不可解すぎる。聖樹さんに説明を受けたといっても、それを飲みこむこと自体、悠紗には困難だろう。
僕としては、何にも分からない悠紗に個人的に少し気が楽になる。あの頃、僕がわけが分からなかったのは仕方なかったんだな、と。僕がおかしかったのではない。子供ならみんなそうなのだ。
カップを座卓に置いた悠紗は、「むずかしいね」と箸を持ち直す。
「大人か子供かって、そんなに大切なの? おとうさんがね、たたかれたりはなかったって言ったの。僕、大人と子供が力違うのは分かるし、それがあったら大人と子供なのが悪かったの分かるよ」
「まあ、見ためで分かることじゃないんだよね。見ためで分かったら、僕だって小さい頃に嫌だって思うぐらいはできてた。ああいうのって、軆には何も残らないぶん、精神的なほうが重いんだ」
「せーしんてき」
「心のほうってこと。傷つくっていうより、壊されるんだ。見ためは何でもないままで、中身だけぐちゃぐちゃにされる。それで、ほかの人には僕が苦しいのが不思議なんだ。何も傷はないのに、何に苦しんでるんだろうって。それでまた、つらいのがひどくなるんだよね。自分が苦しいのは変なのかとか思う」
「僕、萌梨くんに傷あるのは分かるよ」
「うん。だから悠紗は、大きくなったら分かる人になる。表面しか見れなかったり、表面しか見せてもらえないような人だったら、一生分かんないよ」
悠紗は、外面しか見ない人間がくだらないのは知っている。なので、そういう人間が分からないというのには、納得したようにうなずいた。とはいえ、自分が理解できるかには自信がないのか、その点頭は危うげだ。
僕は昨日要さんが言っていたことを思い出し、引き合いにしてみる。
「要さんたち、いるじゃない」
「うん。要くん」
「女の人の写真見てるでしょ」
「ぽるの」
「うん。あれね、普通の男ならたいていは要さんたちみたいに愉しいって思うんだ。僕とか聖樹さんは思えない」
「うぶだからでしょ」と悠紗はそれは分かると言いたげに得意そうにした。
「葉月くんが言ってたもん」
「ん、まあ。それと、ああいうことをされてたせいでもあるんだ」
「え、そなの」
「うん。何でそうなるのかは悠紗は不思議なままでいいんだよ。知らないほうがいい。説明だけじゃ分かんないし、体験するのはきつい」
悠紗はふてくされたような、つまらないような顔になる。「知ったって傷つくだけなんだよ」とたしなめると、悠紗は僕に上目遣いをする。そして素直にこくりとして考えこむと、ひとまず自力で理屈をつけた。
「じゃ、そういうのはぽるのを愉しいって思うとこを壊すんだ」
ポルノは何か違うかな、と思った。が、どう言えばいいのか分からなくて伏せておいた。広義ではポルノも壊されたものには入る。
「んー、何でかは分かんない。それは大人になってから、かな」
「悠紗、そんなふうに大切なことは分かってるから、そこを大事にしてくれたらいいんだよ。知らないうちに嫌なこと言うなんて、悠紗はないよ」
「そ、かな」
「いずれ分かる範囲のことはね。分からないところは、言っちゃって仕方ない。そこは聖樹さんも僕も分かってるし、言われても悠紗に悪気があるとは思わない。暗くなるかもしれなくても、そしたら悠紗はそこでそれを感じ取って、謝ってくれたらいい。理解できるほうが、悠紗にも何かあったのかって怖いよ」
「そっか」
「大きくなれば分かるよ。悠紗に好きな女の子ができる頃には」
「えっ」と悠紗は面食らい、ついで、「そんなんできるか分かんないよ」と含羞した顰め面になる。僕は咲い、「できるよ」と言った。
「そしたらね、聖樹さんとか僕に何が欠けてるのかっていうのが一番分かる。そういうことだから」
「そういうこと」と悠紗は頬の紅潮を残して眉をゆがめる。僕はうなずくと、ちょっと気にかかり、「子供あつかいしてごめんね」と言った。これには悠紗は首を振る。
「それは分かってるよ。ほんとに子供あつかいしてたら、何にも言ってくれないもん」
僕は微笑み、ししゃもの最後の一匹を食べる。悠紗も経験には抗えないのを認めたのか、朝食に戻る。
悠紗に好きな女の子ができる頃、確かにその頃、悠紗は今与えられた知識を紐解けるだろう。成長して、誰かを好きになって、欲しいと思った暁には、そういうことに嫌悪がある聖樹さんや僕に重大な欠落があると理解できるはずだ。
その頃には僕はいなくなってるかな、と心の底で思った。悠紗が初恋を迎える頃、きっと僕はここにいない。初恋──思春期、と言ったほうがいいか。悠紗が十二、三になる頃、成人している僕が依然ここでぬくぬくできていたら奇跡だ。でも悠紗の恋人って見てみたいな、なんていう所感もなくはなかった。
朝食が済んで食器を洗った僕は、気分転換に洗濯でもしたかった。天気は悪くなさそうでも、あいにくそんなに量がない。洗濯物がなければ洗濯はできないので、僕は勉強を始めた悠紗のそばに座って、普段通り雑誌を読むことになる。
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