すりかえられて
翌日も“やりすごし”の麻痺がかかっていた。
僕はとまどっていた。いつまでもここにはいられない。その想いは日に日に強くなっている。ここに来たばかりの頃は常に思っていたのに、いつのまにか忘れていた。
それこそが麻痺だったのかもしれない。今、僕がこうなっているのは、ずうずうしく危険を忘却していた反動ではないか。
ここにいるのが一日ずつ伸びるほど、おとうさんとの距離が縮まっているように感じる。一日ずつ捕まる日が迫ってきている、そんなふうに息苦しい。そして、その不安を取り繕うために、麻痺が全身に行き渡っている。
麻痺が切れる前に、本当におとうさんがやってきたら。考えたくもないほど、克明に予想はつく。死姦されるか、もしくは麻痺を引きちぎられて生身を辱められるか。とりあえず、犯されまくる。
そのあとに怒って、罰して、連れて逃げるか、そこで殺すか。逃げたら監禁で、もう先は真っ暗だ。予想がつかないという意味でなく、本当に真っ暗──精神的な死に至る。
仮に許されて元の生活に戻っても、そうしたら学校と家庭にはさまれ、やっぱり圧死する。どのみち僕は、見つかれば殺される。
麻痺が切れたときも、ここにいたらどうなるか。これも簡単だ。自殺行為に走る。眼前の畏怖に捕らわれ、聖樹さんや悠紗への迷惑も考えず、おとうさんに捕まる前に決定的に逃げようと、さもなくば、ここで安らげて心地よい中で終わろうと、死んでしまおうとする。
僕はあっさり死のうとする。生と死の違いが分からなくなる。分からなくなって本能に添えば、僕にとって優しいのは死だ。焼きつく光景の閃光をはらんだ深海の鬱を逃げだせるのなら、命なんか安い。ひずみに足を取られて“普通”が壊れ、内界が宇宙になったら僕は死ぬ。
ここにいられるうちに。二度とのしかかられないうちに。回復だの挑戦だの、希望的なことは頭には浮かばない。とにかく、逃げるのが先決になる。
自殺するのはどうでもよかった。ここを抜け出してそうするかが心配だ。無自覚の最中、ここのバスルームあたりで死んだら、迷惑をこうむるのは聖樹さんと悠紗だ。なぜここから、少年の自殺死体が出てくる? おとうさんや学校の人によって、その少年が僕だと知れたら、聖樹さんに嫌疑がかけられるのは絶対だ。
誘拐した。暴行した。それを苦に自殺した。
警察は、都合さえつけば冤罪だろうが何だろうが気にしないだろう。遺書を書いておこうか。でも、死にたくなったときの僕が、そんなものをのんびり書いているとも思えない。僕は死ぬとき、何も持っていきたくないし、何も残していきたくない。
今のうちなのだろうか。麻痺がきいているうちにどうにかしておいたほうがいいのか。切れてバカバカしいことになったら、聖樹さんたちに、最もかけたくない迷惑をかけるハメになる。今日一日、悠紗の隣で鬱々と熟考していた。
そして夜、悠紗が眠ってしまって心を決めた僕は、「お話があるんですけど」と寝室から帰ってきた聖樹さんに切り出してみた。
テーブルに散らかる書類をまとめようとしていた聖樹さんは、僕を見てちょっと咲った。その咲いの意味が分かって、僕は頬を染める。昨日は、突っ張った上に何事もないようにも装ったのに。
僕の様子に聖樹さんは笑みを噛んで謝ると、「なあに」と集めた書類を銀色のクリップで留める。
「聖樹さんには、鬱陶しい話かもしれないですけど」
聖樹さんはくすりとして、「聞いてみなきゃ分からないよ」と僕の気をやわらげる。僕は少し首をすくめ、「いまさらって話なんです」と片づけられていくテーブルのそばにいく。
「いまさら」
「まだそんなの気にしてるのかって」
聖樹さんはかばんにノートPCや書類をつめこみ、僕の表情を見取る。
「ここにいて迷惑じゃないか、とか」
「……まあ」
聖樹さんは咲い、「ほんとにいまさら」と言った。
「けど、分かってるよ。萌梨くんがそういうの捨てて、厚かましくなれないのも」
「ん、けど、最近は忘れてました」
「あ、そうなんだ。それでいいのに」
聖樹さんはかばんをコンポが乗ったチェストにもたせかけると、「飲み物、持ってこようか」と言った。僕はうなずき、手伝うか否かに迷う。「ひとりで作れるよ」と聖樹さんは気遣ってくれて、僕は甘えてそのあいだに頭で話の整理をする。
べつだん、答えが欲しい話ではない。漠然とした不安の愚痴だ。おとうさんに捕まるとか、ここにいられないとか、将来どうしているのかとか。聞かされる側としては退屈でも、聖樹さんなら吐き出せばマシになることに重きを置いてくれるだろう。
聖樹さんは、紅茶とお菓子を持ってきた。「仕事で頭使ったしね」とお菓子について咲い、僕も含笑する。
「じゃあ」と聖樹さんは僕の前に腰を下ろすと、こちらを正視する。
「忘れてたのを思い出させたことがあった、ってこと?」
「まあ。そう、ですね」
「僕の、せい?」
「え、何でですか」
「いや、何かとんとん拍子になっちゃって。僕の気持ちはまだ追いついてないんだよ。あと、昨日言ってくれなかったのもあるし」
「あれは、聖樹さんには鬱陶しい話だと思って。聖樹さんに話すのもつらいかなって」
「………、僕が訊くのが、っていうより──」
「僕が口にするのが、です」
聖樹さんはパイの個装を破り、気むずかしそうに眉を寄せる。心当たりに閉口させられている様子だ。「おとうさんのこと?」と問われ、僕は息を飲みこみうなずいた。「そっか」と聖樹さんはパイをふたつに割る。
「それじゃ、僕は頼りにならないね」
「そんなんじゃないです。ただ、おとうさんのことだと、説明もしなきゃいけませんし」
「そう、だね」
「誰にも分からないってひがんだつもりはないんです。でも、そんなでしたよね。ごめんなさい」
「ううん」と聖樹さんは僕を制し、「当たり前だよ」と続ける。
「分かってもらえないかもって思いながら口にするのって、大変だよね」
僕が上目をすると、聖樹さんは一笑する。
「僕も親にはそういう感じだった」
その言葉に、そっか、と素直にこくんとできた。
そう、こういういうところは分かってもらえるのだ。何にも分かっていない人と、ある程度分かっている聖樹さんとでは、おとうさんのことを話してみる価値も変わってくる。
そう思うと、心強くなれた。
「僕、昨日と今日変でしたよね」
「え。ああ、うん。悠も心配してたよ」
「悠紗」
「お風呂で聞かされて」
ばつが悪くなる。やはり悠紗は、騙されているふりをしてくれていたのか。明日謝っておこう。作用や原理は経験が強くとも、僕が何を抱えているかは悠紗は知っている。
「あれ、前のところのなんです」
「前の」
「僕、ほんとはいつも泣いてて、ぐったりした気持ちなんですよ。だけど、それを外に出したままじゃ生活できないんで、全部押しこめて隠して、普通になるんです。向こうの僕はそれで毎日やりすごしてて、何か、それが今」
「隠したほうがいい、みたいな気持ちがあるってこと」
僕はうなずき、甘い紅茶で喉をいったん潤す。
「僕たち、引っかきまわしたかな」
「いえ、最近ごちゃごちゃ考えてるのが悪いんです。もうここに来てひと月半も経ちましたし、限界なんじゃないかって」
「限界」
「見つかるのはもうすぐなんじゃないかって。怖いんです。忘れてたのは、おとうさんがここに来るわけないって信じられてきてたのもあると思います。でも、だんだん怖くて信じられなくなってきて。そんなに簡単にあきらめる人かな、って頭を離れなくて」
聖樹さんは僕を見つめ、何も言わなかった。
「昨日、夢見たんです。うなされてたんですよね。おとうさんの夢でした」
「え、そう、なの」
「はい」
「分かんなかった。ぜんぜん取り乱さなかったね、って──あ、で、その、向こうでのが動いたんだ」
「だと思います。ショックすぎて。あれでもっと怖くなってきてます。僕、おとうさんにはっきり言われたこともあったんですよ。絶対逃がさない、逃げても捕まえてるやるから憶えてろって」
聖樹さんは口をつぐんだのち、「おかあさんと思って」とゆっくり訊いてくる。僕は唇を噛むと、首を振った。
「え、だって──」
「ここに来る直前、おとうさんは妄想を抜け出してきてました。僕をおかあさんだと思わなくなって、僕は僕だっていうのを認識してきてたんです」
「なくなってきてたの」
「……僕、だって分かって、息子相手って理解した上でしてきてました」
聖樹さんは何も言わなかった。言うべきことが見つからないようだった。
こちらのほうが、家庭内の性的虐待としてはありがちだとは思う。なぜかいきなり肉親を犯す。僕の家庭のものはそれとはやや異なり、屈折が介入していた。
「はっきり言ったら」と僕は言った。
「おとうさんは、僕を新しい恋人にしたんです」
聖樹さんは僕を見つめた。傷ついたような、苦しい視線だった。
「最初は、おかあさんを失くしてないっていう妄想のために僕を抱いてました。失ったって認めたくなくて、僕で現実を否定してたんですね。そうやって代わりにしてるうちに、僕の軆に慣れていったんだと思います。おかあさんってしなくても、僕のままで気持ちよくなって、それでおとうさんの中では、僕はおかあさんを吹っ切るための新しい存在になったんです。で、おとうさんにとって僕は僕になりました。もちろん嬉しくないですよ。僕は僕になったって、肉体関係とかはふくまれたままで、幻覚から現実になっただけです。息子っていうのは、おとうさんには何の牽制にもなりませんでした。おかあさんを埋めるだけの執着を持てるなら、子供とか男同士っていうのは、何でもなかったんです。おとうさんは、ほんとに何の疑問もなく、僕のことを息子であり恋人だって思ってて──」
「いいよ」と不意に聖樹さんは僕を止めた。僕は口をつぐみ、聖樹さんを見た。聖樹さんは息をついた。
「それは、分かったから。萌梨くんがどんな気持ちをどれだけ味わったかは分からなくても、おとうさんに気持ちの変化があったのは分かった」
「……何か、うまく言えなくて」
「言ってるよ。もういいよ。その、おとうさんの夢を見たんだね」
僕はうなずき、ひとまずあの夢の内容を棒読みでたどった。ドアの隙間におとうさんの目を見つけたくだりには、聖樹さんもこわばった瞳になる。「黙って行っちゃいました」と言うと、聖樹さんは一度うなずいたが、「またそれもひどいね」と言った。
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