血という鎖
「そっちのがマシだったとは思います。入ってこられたら、みんなにおとうさんとの関係がばれちゃってましたし」
「そっ、か」
「みんなが帰ったあとにおとうさんが来て、お前もおかあさんみたいに裏切るのかって怒ってきました。僕があの人たちと浮気をしたと思ったんですよ。そのときに、さっきの、逃げられないとか言われたんです。おかあさんとも違う、ともはっきり言われました。おかあさんみたいにうまく逃げさせたりしないって。そのあと僕が無理やりされたっていうのが分かって、僕が求めたんじゃないっていうのも知ったら、……それならいいって」
「……それなら、いい」
僕はこくんとして、壊れた笑いをもらした。
「この人、親じゃないなあって思いました。自分の支配下にいる確信があれば、僕がどんなにされたっていいんですね。軆を洗われて、寝室に連れていかれました。あの日は、いつもある嫌悪とか屈辱とかもなくて、ほんとに何にも感じられませんでした。ショックでしたよ。嫌だって思うことも分かんなくなっちゃったのかって。昨日起きたとき、その死んだみたいな感覚が残ってて、それで泣けもしなかったんです」
「……そう」
「あの夢でおとうさんのこと思い出して、それで怖くなってます。お前は逃げられないって言ったとき、おとうさんは逆上してましたし、あれは本音です。あきらめるとは思えないんです。おとうさんのこと、遠くなってたんですよね。それがあの夢で引っぱたかれたみたいに生々しくなって、ほんとに来そうで。忘れたふりしておかないと怖いんです」
聖樹さんは黙り、手の中で止まっているパイを口にする。僕も紅茶で喉を濡らした。
「おとうさんが生々しくなると、僕がここにいると聖樹さんたちに迷惑がかかるのも迫ってきて」
「迷惑」
「僕をここに置いてたら、洒落にならないんですよ。ほんとに、僕はただの子供じゃないんです。頭が変な人に追いかけられてるんです。見つかったら最悪ですし、ここで自殺しちゃったりもありえます」
聖樹さんは面食らい、ついでうつむき、「死にたくなるんだ」と言う。
「今は、ありません」
「今は」
「押しこめてるのが弾けたら、反動は分からないです。視野が狭くなって、向こうに戻って壊れたくないのしか見えなくなったら。おとうさんに見つかる前に、ここで安らいでるあいだに死のうってなるかもしれません」
「そう」と聖樹さんは突っ込みはしなかった。意思の届かないところで死のうとしてしまうのは、聖樹さんもよく知っている。それによって、悠紗さえ打ち捨てそうになったこともある。
「夢を見る前にも、ここにいられなくなるかもっていうのは考え出してたんですよね。そんなの考えてたんで、あんな夢見たってところもあると思います」
「そうなんだ」
「はい。あの──ごめんなさい。聖樹さんがみんなに理解されていくんで、僕なんかいらなくなって放り出すかもとか」
聖樹さんは鼻白み、「そんなのしないよ」と言う。
「どこかでは怖くて。あと、聖樹さんがそうやっていろんな人に受け入れられて落ち着いていくなら、問題のある僕は消えたほうがいいのかとか。ここにいて下手なこと起こして、聖樹さんが落ち着いていくのを壊すのも嫌なんです」
聖樹さんは苦笑し、「そんなことないよ」と言った。
「だいたい、僕は萌梨くんのことを問題だなんて思えないよ。あっちに帰すほうがつらいんだ。萌梨くんが帰りたければ文句は言えなくても──」
「い、嫌です」
「だったら、僕はここにいさせてあげたい。僕だって萌梨くんにいてもらいたい。いなくなられたらショックだよ。悠たちとうまくやれるかも分からなくなる」
「え」とまじろいだ。悠紗たちとうまくやれるか分からなくなる。僕がいなくなったら。
何で、と思って訊いてみると、「それは」と聖樹さんはカップにつけていた口を離す。
「僕、落ちこんでもすくいあげてもらうのを覚えてきたし。またどうかなったとき、すくってもらいたがるかもしれない。でも、それができるのは萌梨くんだけで、悠も沙霧も僕の中にもぐることはできない。無力感みたいなので、気まずくなる部分も出てくるんじゃないかな」
なるほど、と思う。悠紗も沙霧さんも、自分が聖樹さんをどうにもできないのは自覚している。とはいえ、本当に何もできない事態に直面したら、虚しさを背負ってしまうだろう。痛ましい聖樹さんを目の前にしたら、きっと何もできないのがどうしても悔しく、つらい。
「悠たちに話せたのは、萌梨くんと会えたおかげだよ。悠たちが僕が沈んでるのを見つけたとして、すくいあげはできなくても、萌梨くんを呼ぶことはできる」
「僕を……」
「萌梨くんに会ってなかったら、沙霧と両親に黙ってたのは確実だよ。悠にも言えないままだったかもね。萌梨くんだから、だよ。似たことをされた人だからじゃない。似たことされてた人でも、萌梨くんとほど分かりあえるとは思わない。僕たち、経験より先に、友達としての波長が合ってるのが要にもなってると思うんだ」
「友達」
「違うかな」
「………、あんまり、肩書きつけるものでもない気が。聖樹さんのことは重要ですよ。ただの友達っていうより、もっと」
聖樹さんは咲い、「そうだね」とうなずいた。僕も照れ咲う。
確かに、通じる傷があれば疎通できるなんて乱暴な見解だ。そうであれば、心の傷など大して痛ましいものではない。似た傷だといって、分かりあえるわけではないのだ。相身互いを越えた昇華までいきたければ、傷を抜きにした信頼も成り立っていないといけない。でも、心に傷がある人はたいてい人間不信で──
そういうのも心の傷を癒えにくくさせるのかな、と気がついたりする。聖樹さんはティッシュを取ると、「まあ」とパイの欠片がついた指をその上ではらう。
「僕が追い出す心配はしなくていいよ。いなくなったら探すし、自分のためにも取り返しにいく」
「………、僕のおとうさん、怖くないですか」
「怖くないってことはない。向こうが立場強いのも分かってる。萌梨くんが公言してほしくなかったら、僕はここに置いた理由を言ったりできないしね。萌梨くんがひどいことされるのを見過ごすのもできないんだ。情のない人だったら、冷たいけど、その人がいくらつらくても保身が強いかもしれない。萌梨くんとは個人的に親しくなったんだし、大切な人が苦しいのをほっとくのは普通につらいよ」
普通。まあ、普通だ。大事な人を守りたいというのは、誰にでもある。
「正直言うと、そもそもここを突き止められないだろう、って思ってるとこもある。ごめんね、のんきで」
「いえ」と僕はお菓子に手を伸ばした。パイはパイでも、これには砕かれたアーモンドがかかっている。
ここを突き止められない。夢や煩悶に駆られず冷静になれば、そちらのほうが道理にかなっているのは分かっている。この立ちこめる不安が主観の感情的な杞憂だとも。
「でも」と僕はもうひとつの現実的な不安へと話題を転じる。
「いつまでもここにはいられないじゃないですか」
「え、いていいよ」
「将来的な話です。僕、聖樹さんの子供でもないですし、ごはん一生食べさせてもらうわけにもいかないです。聖樹さんにもそんな義務はないですし。向こうの働きかけがなくてここにいられたとしても、いずれは出ていって自分で食べなきゃいけないです」
「……まあ、そうだね」
「働けるかどうかが分からないんです」
「気持ち」
「とか、学歴とか」
「学歴」
「いいところを出るとかじゃなくて、僕、ここに閉じこもってたら中学の卒業資格もあやふやです。履歴書とか関係ない仕事に行く勇気はありませんし、偽って、偽り通す度胸もありませんし」
聖樹さんは緘唇し、抑えた息をつく。まごついてはいないので、聖樹さんとしてもまったく考えなかったことでもないようだ。
「そういうの見ると、僕がいなきゃいけない場所はやっぱりあそこなんですよね」
聖樹さんは僕を見る。僕は水面で嫌いな目と見合っていた。
「あそこが僕の居場所じゃないっていうのは、僕が子供って限り、感情論なんです。ここにいるのは現実逃避です。つらくても、そうなんです」
「……うん」
「帰りたくないですよ。でも帰らなきゃいけないんです。僕が子供で、学生で、保護者同伴じゃなきゃいけないからです。ここに来るまでどんなに苦しくても、守られるどころかひどいことされてても、逃げられませんでした。ここでやっと逃げてるんですけど、逃げた、じゃ解決じゃないですよね。おとうさんが言った、逃げたら捕まえてやるっていうのは、あのときはそういう意味で使ったんじゃなくても、親だったら当たり前です。見つかって連れ戻されても、文句は言えません。どんなにあれがひどくても、僕があの人の子供なのは変えられなくて、僕の気持ちより法律とかのが勝つんです」
聖樹さんは、手の中の空の個装紙を指先にいじらせた。静かな部屋にその音は際立った。
「僕はここにいる人間じゃないんです。やましくて堂々とできません。逃げて、そのへんの穴に入って、まだぎりぎり見つかってないって、そんな感じなんですよ。それで現実に目をつぶって。ずっと穴にいられたらよくても、それもできませんし。僕は、ここにいる立場じゃないんです。資格もないんです」
指先が冷たくなっていた。カップに触れて、その冷えを溶かす。
「逃げてるだけなんですよね。僕、逃げてたらいつかつまずくのは、嫌なぐらい知ってます」
聖樹さんは僕は静かに見つめ、小さくうなずく。いっとき沈黙したのち、「考えてるんだね」と言われ、僕は不明瞭に咲う。
「神経質なんです」
「ううん、ほんとのことだよ。精神的にはここにいるべきでも、法的には萌梨くんはここにいる人ではないよね」
「……はい」
聖樹さんは考えこみ、参ったため息をつく。さすがにこれに解決策はないだろう。ぎりぎりを保ち、怯えながら隠れ暮らすほかない。
聖樹さんは紅茶を飲むと、パイを食べようとしていた僕に顔を向ける。
「悠もこないだ言ってたよ」
「え、悠紗」
「どうやったら、萌梨くんがここにいてもよくなるのかなって」
刹那緘口し、「無理ですよね」と自嘲する。聖樹さんは、答えずに眉間に皺を寄せて沈思する。その反応は言葉より肯定を物語っていて、僕は厳しい現実に睫毛を伏せた。
どうやったら、ここにいてもよくなるのか。そんな方法はない。僕はここにいる限り、いつ見つかるかとびくびくしつづける。
パイをかじった僕は、欠片が紅茶の水面を揺らしたのを眺め、その波紋を吐息で後押しした。
【第百三十一章へ】
