風切り羽-132

見つけた居場所

「萌梨が今までそこにいたのは、学歴とかってより、そこにいるしかなかったからだろ」
「え、はあ。そ、ですね」
「じゃ、ここができたんだし、ここにいろよ。兄貴とかだって、萌梨がここにいたほうがいいの分かる人間なんだし」
「そんな、簡単じゃないです」
「簡単だよ。外面しか見れなくて理解できない奴が多いだけ。そんなんに合わせることない。合わせたらバカだよ」
 再び沙霧さんと視線を合わせる。そして何だか、聖樹さんの弟だなあ、と思った。
 聖樹さんより乱暴な言い方であれ、確かにそうだ。僕にしてみれば、そうなのだ。僕は、ここにいてはならないのがすごく理不尽だ。あそこにいなければならないのも理不尽だ。血縁や法律といった表面だけを見て、僕の居場所を定義する人たちが不可解でならない。
 きっとそういう人は、精神性の存在もその根深さも知らないのだろう。
「萌梨の親はさ、萌梨に何かひどいことするんだよな」
「あ、はい」
「で、追っかけてくる」
「……はい」
 沙霧さんは、頬杖に沈んで眉根を寄せて考えこむ。僕が家でどんなことをされているか、推理しているのだろうか。下手に憶測をされるなら言ったほうがいいかな、と思っていると、沙霧さんは顔を上げる。
「俺もさ、親と喧嘩したりしたら、二度と家に帰りたくなくなったりするんだ」
「え」
「萌梨とはレベル違うだろうけど、あのふたりにすがって生きてるって状態が嫌で、帰らなきゃ野垂れ死ぬのが悔しくてさ。縛られてるのがマジでうざかった。今は喧嘩したってそのまま家出できても、小学校のときぐらいまで、しょっちゅうそんなん思ってた」
 僕はまばたきをしつつ、「はあ」とは返す。
「つっても、うちの親はバカな親ではないんで、俺がそれをどんなにうざく思っても、引き合いに出して従わせようとしたりはしなかった。食べさせるのが恩着せるもんじゃなくて、親としての義務っていうのは分かってるんだな。萌梨の親は、利用して恩を着せて、抑えつけたとこに何かするって感じなんだろ」
「ま、あ……。子供だから逃げられないっていうのはありました。この人を逃げても、どうせ行き倒れになるんだから、ここにいるしかないって。食べさせてやってるんだ、ってしめされたわけではなくても、それで家に縛られてたのは確かです」
「うん。俺はさ、どっかでは親のこと、さしせまったら助けてくれる存在だって信じられてるんだ。萌梨の親は逆なんだよな。さしせまったら、食わせる代わりに何かするみたいな」
「です、ね」
「それさ、親失格だよ。だから萌梨は、そいつらを親じゃないって言っていいんだ」
 沙霧さんに目を向ける。沙霧さんが言おうとしていることがつかめてきた。
「親じゃない」と僕が反復すると、「精神的にな」と沙霧さんは補足する。
「親と仲悪くない俺が言っても、胡散臭いかもしれなくても」
「え、いえ」
「一応、俺だって絶望的になったことはあるんだぜ」
「あ、中学の」
「うん。あのとき、昔の状態に戻れなくてもおかしくなかった。更生したあとも、引きずって距離置いたりさ。でもあっちは普通に接してくれて、『なーんだ』って。家族ってそんなのだよ。で、そういう落ち着けるもんがなきゃ、家族なんて呼ばない。俺はあきらめた先ですくいあげてもらったんで、何が家族かってのはそれなりに知ってる。いいほうでそう知ったんだ。萌梨は──」
「悪いほう、ですね」
 そう、僕も家族がどうなのかは知っている。絶望的な壊滅状態を体験したからこそ、何が最低限に必要だったのかまぶしいぐらいに知っている。
 あの真っ暗な家庭に埋もれる僕は、必要なもの──愛情や信頼といった光を、眼球が痛むほどに強く見分けられる。僕の家庭には、飾りたての紛いものもなかった。ゆえに惑わされることもなく、あの空っぽの家庭は、何が本物の宝石かを的確に濾過させる。
 光さえ飲みこむ闇にいる人もいるだろう。瓦礫の中で家族がさっぱり分からない人もいるだろう。自分がそういう人よりマシなのか、それともどんづまりに来てしまっただけなのか、それは分からないけど。
「萌梨は、あっちにいなくてもいいんじゃないかな」
 沙霧さんに目を返す。
「いたらダメなんだよ。萌梨がいるべき場所ってここだよ。誰か来たって、ふざけんじゃねえって言っていいんだ」
「……通じる、でしょうか」
「さあ。でも、萌梨がそう言うんだったら、俺とか悠も堂々と萌梨につけるし。な」
「うん」と戦闘中の悠紗は、振り返らずともきっぱり言う。
「学歴とか血のつながりより、萌梨の気持ちっていうのかな。それを真っ先に持ってみたら、ここにいたほうがいいの、分かるだろ」
 僕は沙霧さんを見つめ、熟考しなくてもこくんとしていた。沙霧さんは口角をあげ、「ずっとつらかったんだろ」と言う。
「そろそろ、その気持ちのほう、甘やかしていいんじゃないの」
 そうは言っても、あちらと戦う勇気や気力をたやすく引き出せない僕は、うなずくようなうつむくような、ずるい動作で視線を沙霧さんから床に移す。
 雨に薄暗い今日は、昼間でも明かりがついていて、白くフローリングに反射している。絨毯敷かないと、と聖樹さんが言っていたのが脳裏に脈絡なくよぎった。
「俺としてもさ、萌梨にはいてもらったのが安心なんだよな」
「えっ」
「兄貴には、萌梨が必要だと思うんだ」
「聖樹、さん」
「兄貴を一番分かってやれるのって、絶対萌梨だよ。分かってやれるし、その分かってやれる部分が正確でもある。俺とかだったら、やっぱ知らないうちにきついこと言ったりしちまうかもしれない。分かんないとこで無神経に踏みにじったり。されたことない奴には傷つくなんて思い当たりもしないこと、あるだろ」
「……まあ」
「いてやってほしいんだ。どんなに話されても、俺はそれを移植してもらうことはできない。細かいとことか深いとことか、肝心なとこはつかんでやれないんだよ。萌梨に兄貴を任せっきりにするんじゃないよ。俺とかにそういうのされて、こっちには悪気がなかった、とかで兄貴が無理して溜めこもうとしたら、すくいとってやってほしいんだ。萌梨にも兄貴がいたほうがいいとも思うし」
「僕にも」とつぶやくと、沙霧さんはうなずく。
「萌梨に対しても、俺、萌梨にしか分かんない針みたいなの、出してるだろ」
「………、そのへんの人に較べたら少ないですよ。逆に楽にしてくれたりもしてます」
「そっか。まあ、なくはないんだ。そういうの、兄貴と打ち明けあったらマシにならない」
「冷静には、なれます」
「うん。兄貴が、俺とか悠のこともそれぞれ必要としてくれてるのは分かってる。萌梨にはかなわないんじゃないかな。悠には悠、俺には俺で、萌梨にはかなわないとこもあんのかな。悠にはあるな」
 悠紗が振り返ってきて、嬉しそうに咲う。聖樹さんにとっての悠紗に、僕にはかなわないところがある。異論はなかった。
 沙霧さんにだってあると思う。沙霧さんがいて、聖樹さんは家にいるとだいぶ楽になれていた。
「俺も、萌梨といるのおもしろいし」
「え、そう、ですか」
「うん。はは、初めは感じ悪かったくせにな。新鮮なんだ。萌梨みたいのって俺の周りにいなかったし」
 聖樹さんは、とは思っても、僕と聖樹さんの性格は方向性が違う。静かは静かでも、聖樹さんはおっとりして、僕はおとなしい。
「萌梨がいなくなっちまったらショックだよ。俺以上に兄貴はショックだと思う。もう兄貴は、萌梨にいろんなとこ支えられてるしさ」
「そう、でしょうか」
「そうだよ。萌梨がいなかったら、兄貴はどう考えても、俺とか両親に全部黙ってたぜ」
 聖樹さんみずからそう言っていたので、そんなことない、と否定できなかった。沙霧さんは頬杖をつきなおし、投げやっていた雑誌をたぐりよせる。
「俺は萌梨はここにいるのがいいと思うな。あっちはくだらなくて、こっちは萌梨のこと必要としてて、萌梨自身ここにがいいって思ってる。じゅうぶんじゃん」
 じゅうぶん、なのだろうか。しつこく悩む僕に、「萌梨くん」と街に帰った悠紗がかえりみてくる。僕は顔を上げた。
「萌梨くんはここにいるんだよ」
「………」
「だって、萌梨くんは家族だもん」
「え」
「萌梨くんの家族は、あっちの人じゃなくて僕とおとうさんなの。だってここ、萌梨くんのおうちって言ったでしょ」
 まじめな悠紗に、僕は目を開いて止まってしまった。家族。おうち。ここが。僕の。悠紗と聖樹さんが──。
 唐突に沙霧さんが笑い出し、「何ー」と悠紗はむくれる。
「いや、いいとこさらってくなあ」
「いいとこ」
「うん、そうだな。うまいよ。そう言ったらいいんだ」
 僕は沙霧さんを向き、咲いを含み残すまま、「萌梨の家はここなんだよ」とさっきの話を敷衍する。
「悠と兄貴が、萌梨の家族なんだ」
 沙霧さんも認めたことで、悠紗は得意そうにした。
 僕だけぽかんとしていて、ついで泣きそうになってしまう。冷たい涙ではない。生まれて初めてだ。嬉しくて泣きそうだなんて。
 家族。そうかもしれない。昨日、聖樹さんに友達と言われてしっくり来なかったが、家族だとしたらしっくり来る。
 贅沢でも事実だ。僕はここにいるのが心地いい。向こうでは得られなかったものが、ここだと得ようと努めずともそそぎこんでくる。感情論でもよかった。ここが僕の安らげる居場所だ。
「萌梨くん泣きそう」とコントローラーを置いた悠紗が不安げに覗きこんでくる。僕はその口調に咲って、「嬉しいんだよ」と素直に言った。すると悠紗はほっとしたふうに咲い、沙霧さんもいたわって見つめてくる。
 僕は悠紗の頭に手を置き、「ここにいさせてね」と言った。悠紗は即座にうなずき、僕も笑顔にさせるぐらいににっこりとした。

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