風の強い日に
その日は、昨日と打って変わって天気がよかった。
心も安泰だった僕は、気も向いたので午前中いっぱい洗濯をした。四日ぶんの量は、何回かに分けてこなす。終わったのは昼近くで、最後の一枚のタオルを洗濯ばさみで留めると天を仰いだ。
不穏な色の雲もなく、雨を心配しておく必要はなさそうだ。すっかり気候は冬で、冷えびえした空気が指先や頬を痺れさせ、こわばらせる。太陽の光は一面に降っているので、いつもどおり十六時頃に洗濯物の様子を見にこよう。
そう決めると、僕はかごを手に取って、暖房に休まる部屋に帰った。
ゲームをしていた悠紗が、「おかえり」と顔を上げてくる。「ただいま」と返した僕は、「お腹空いてない?」と続けて訊いた。「空いたー」と答えた悠紗に、僕は洗面所にかごを置くと、昼食を作りにキッチンに立つ。
悠紗はゲームを片づけて、手伝ってくれた。野菜を少々削らせてもらって、手製の焼きそばを作ると、悠紗が拭いた座卓で昼食を取る。
聖樹さんや沙霧さん、あの四人のことを食べながら話した。あの四人の話になると、この頃の僕たちは沈んでしまう。
「来週の初めには行くんだよね」
「うん」
「僕、ずっと会ってないよ」
「え。あ、そうか。僕は日曜日に会ったよ」
「いいなあ。みんな元気だった?」
「変わらなかった」
「そお」と悠紗は箸に焼きそばに絡みつける。みんな変わらない。まあ、変わらなかった。ただし梨羽さんは、変わらないのが崩れもした。僕はいまだ、あの梨羽さんについて誰にも口外していない。
聖樹さんに訊こうかな、とは思っても躊躇ってしまう。昨夜、聖樹さんには沙霧さんと話したことを伝えたりしていた。悠紗の言葉には、聖樹さんも咲ってうなずいてくれた。僕が言われるまでそれがしっくり来ると気づけなかったのは、家族、というものにいい印象がなかったためだと思う。
こんなこころよいものが家族と呼べるなんて、つながらなかった。そんな話で聖樹さんに心配もかけたりした中、四人の話も出たけれど、梨羽さんのことは伏せていた。
梨羽さんの調子が崩れたのを語っても、心配をかけるだけだろう。ウインナーにまといつく焼きそばをすくい、言ったってもうどうしようもないしな、と箸を含む。
昼食と食器洗いが済むと、悠紗は勉強を始めた。僕が邪魔しないよう音楽を聴こうとすると、悠紗が顔を上げ、「梨羽くんたちの聴くの?」と訊いてくる。うなずくと、「かけてもいいよ」と悠紗は言った。
「かける」
「スピーカー」
「え、いいの」
「ちょっとね、聴きたいの。萌梨くん、聴きたいのある?」
「XENONだったら何でもいいよ」
「そ。じゃね、せぴあが入ってるのにしてくれる?」
「セピア」
「もるぐ、かな。うん」
「モルグ──」
「三枚目の」
三枚目、というと『MORGUE』だ。あれは“モルグ”と読むのか。今知った。そして確かにあれには、“SEPIA”という静調の曲が収録されている。
「EPILEPSYの初日にもあったよね」
「うん。僕、今あれ読んでるの」
「読む」
「音の並びかたとかね。楽譜は紫苑くんが僕には特別にくれるの」
「特別」
「紫苑くんは、楽譜を人に見せたがらないんだ。今のがきちんと弾けるようになったら、次はせぴあ練習するの。ほんとに弾いてみるのは、次に来たときになっちゃうけど」
ギターがないんだもんな、と僕は引き出しを開け、一応XENONのアルバムを三枚引き出す。僕は死体の山のジャケットの『MORGUE』を選び、開く。
「ただ弾くだけっていう面だったら、読んだり書いたりより、現に弾くほうがよくないの」
「え、うん。それはね。でも僕ギター買えないし。おとうさんに欲しいって言うには高いし」
「紫苑さん、貸してはくれないの」
「たぶん。訊いたことない。紫苑くんは、自分のものって思ってる中のを勝手に触られたら嫌がるんじゃないかな。あと三ヵ月して学校行く歳になったら、一個もらえるし。そしたらね」
「あ、じゃあ四月頃には帰ってくるのかな」
悠紗は僕と顔を合わせ、「分かんない」と言った。八月まで待つのか、やはり帰ってきてくれるのか。可能性を次々考えた末、「四月過ぎればもらえるのはもらえるんだよ」で悠紗はくくった。僕もそれで納得しておいた。
電源を入れたコンポに『MORGIE』をかけると、今日は仕切りにもたれなかった。スピーカーにしてそばにいたら、脳味噌を殴られる。
事実、音量の調整でコンポに近寄ったとき、音は耳でなく肌への振動で圧倒してきた。悠紗の位置に合わせた音量にしたので、僕も座卓のところに行く。
悠紗は紫苑さんの手書きの楽譜のコピーらしきものをノートに書き写し、そこに書きこみをしたり、教本をめくったりしている。僕を招き、読めない漢字を訊いてきたりもする。内容は僕のほうがよほど理解できなくても、漢字の読みぐらいなら教えてあげられる。そういうとき以外は、僕はヘッドホンで聴くのとは違う、解き放たれたXENONの音に囲まれた。
スピーカーだと、ヘッドホンより臨場感があった。脳に突き刺さるというより、頭にかぶさってくる。四方を襲われる感覚は、さながらライヴだ。ぐるぐるとした絶望感という本質的な印象は揺るぎなくとも、スピーカーとヘッドホンで印象が違う。
楽譜を眺めて感心するようなため息をつく悠紗に、ギターを手に入れたらこの子も早いうちに作曲を始めるんだろうな、と思う。基本的な音楽の理論なら、悠紗はほぼ把握しているだろう。訊いてみると、「鼻唄とかは楽譜にして取っといてるよ」と予想を上回る答えを返された。
“SEPIA”が来ると、悠紗は手を止めて紫苑さんのギターに集中した。僕は梨羽さんのヴォーカルに集中する。
この詩もけっこう痛い。喉を引き裂くような声の箇所もなく、壊れないこわばったやりきれない声が保たれている。
経験したことは糧にしろって
ほざくけどさ
俺にはあんなのなくてよかった
知りたくもなかった
あの汚れ
そしてそれ以上に穢れた俺
鮮やかなまま色あせない
嫌なものほど生々しい
梨羽さんが何かを抱えているのを窺わせる。どうもこの詩は、梨羽さんが抱えるものについて触れた詩であるようだ。梨羽さんの中には、生々しいまま消えない何らかの痛手があり、それを受ける前の無垢な頃はセピア色のように色あせている──要約すると、そんな感じだろうか。どこか僕にもあてはまるので、詩のところどころでどきっとしたりした。
アルバムが一周したところで、僕はまたヘッドホンとの違いに気づかされる。疲れが重たくない。閉じこもって聴かないせいだろうか。
「もっかい聴く?」と悠紗に訊かれ、「どっちでもいいよ」と僕は答えた。「じゃあ、萌梨くん選んで」と言われたので『MADHOUSE』をかける。選んだ理由は、単にほかの二枚より聴いた回数が少ないというものだったけれど。
続けて結局『EIRONEIA』も聴いて、さすがに止めた。音や悲鳴が耳から脳内に焼きついている。ライヴと同じで、麻痺が梨羽さんに同化していたようだ。ヘッドホンより衝撃が軽い、というわけでもないのだ。
悠紗は慣れたものなのか平静だ。僕が弱いのかなあ、とやや頭をぐらつかせつつ朝食の食器を拭くと、十六時が近かったので洗濯物を取りにベランダに出た。
天気は相変わらず良くとも、風が強くなっていた。はためきをはらみながらも、洗濯物は乾いていて、予定通り僕は服に手をかける。
何せ寒くて、作業は黙々と進んだ。部屋に寒風を舞いこませないためにガラス戸は閉めていて、いちいち開閉するのも何なので、なるべく一度に抱えこむようにする。
服の次は小物で、最後はタオルだ。バスタオルを物干竿から引きずり落とし、それを腕にかかえるまま、片手で洗濯ばさみで留められたハンドタオルを取っていく。
抱えるタオルが重くなるごとに、片手で洗濯ばさみを取る作業がつらくなってきた。強い風に安定を崩しそうになったとき、僕はおとなしく無理をやめた。
今取った洗濯ばさみを小さいかごに放ると、ガラス戸を開けて、大量のタオルを服の隣にどさりとやる。「いっぱいだねえ」と悠紗が振り返ってきて、僕は咲った。
かがめた背中の上で、またも突風が抜けていく。早く終わらせなきゃ、と冷えこむ軆に顔を上げると、洗濯ばさみを取っておいた白いタオルが、ハンガーからするりと流れるのが目に入った。「あ」と言ったときには、タオルは強い風に乗って、ベランダを去っていってしまった。
【第百三十四章へ】
