命の要のようなもの
梨羽さんは、自分がその女の子を傷つけたと自覚しているのだ。自覚しなければ後悔も生まれないし、まさかいまだに引きずったりもしていない。
自認するからこそ、僕たちに気休めを求め、現実逃避したがるとも言える。目を背けたがるということは、目を背けるべき悪徳をしたと認めている証拠だ。
梨羽さんは、全部分かっている。その苦悩は本物だ。偽善の体裁ではなく、その子を突き放して逃げ出したのを、心底、それこそ存在を揺るがすほど悔やんでいる。
梨羽さんの涙が卑しく美しいものだとするのは、個人的な傷にとらわれた邪推だ。梨羽さんのその涙は、尋常ではない繊細さによる、自己嫌悪のこもった無様で感情的な涙なのだ。
そう思うと、梨羽さんへのぶれた想いがなだらかになった。とがめるような視線を伏せることもできた。
梨羽さんは泣き続け、でも、何かの拍子で視線が変わったことを感知したのか、こわごわとこちらに瞳を向けてくる。僕は見つめ返した。
梨羽さんは僕の瞳の色を見取り、信じられてくると、うめいて鼻をすすった。
「あのときね」
「はい」
「助けてればよかったとは思わないよ」
「えっ」
「だって、どうせ、あのときどんなでも逃げてた」
「………」
「ごめんなさい、ってしか言えない。そんなので許してもらえるとは思わないけど、逃げるつもりはなくてほんとは助けたかったです、って言ったほうが嘘だよ」
視線をすずめに落とす。暴れは止まっても、弱い鳴き声は止まっていない。
逃げるつもりはなくて、ほんとは助けたかった。確かに、そんなのを言われても僕なら信じられない。どんな言葉より薄っぺらく感じる。
ごめんなさいのほうが、逃げた事実を認めているだけマシだ。逃げるつもりはなかった、なんて言い訳もあったのと較べ、初めて思えるものだとしても。
「女の子は、どうなったんですか」
涙を止めようと目をこすっていた梨羽さんは、僕をちらりとして細く答える。
「次の日、女の子は休んでた。そのまま来なくて、そのうち挨拶もせずに転校していった。そのあとは分からない」
「………、先生、は」
「何も変わらなかった。釘を刺したてきたりもしなかった。ただ、忘れ物のせいで宿題が提出できなかったのに、何にも言われなかった」
「先生はやめなかったんですか」
梨羽さんはこくんとした。僕は黙ってうつむいた。
怖いな、と思った。その人はいまだに教師を続けているのか。だとしたら、似たことを繰り返された子供がいる恐れもある。
「今でも、『助けて』っていうのが離れない」
僕は梨羽さんを見直す。梨羽さんは泣きやみ、すずめにじっと目をすえている。
「今でも、女の子の声がする。『助けて』って。いつもしてる。すごく怖い。消えない。『助けて』って言われるたび、お前はクズだって言われる」
梨羽さんのリュック、それに乗っかるヘッドホンを流し見た。その所作に、梨羽さんは僕に浮かんだ推測を肯定する。
「だから、いつも耳を塞いでる。昔は手で塞いでた。それは笑われるし、頭の中で聞こえるから逆にはっきりして、それで音楽にした。そしたら声が少し紛れる。消えないけど、外から入ってきた音で薄くなる。音楽が聞こえないとつらくて死ぬ。自分がクズなのは知ってる。毎日言われて平気にしてられるほど強くはない」
それには、内心であれうなずけた。
梨羽さんは弱い。生きているのにあまり向いていないと思わせそうに、弱い。バンドのメンバーがいて、何とか死なずに済んでいる。
「もう誰ともいたくない。いても怖くて、楽しくない。傷つけるしかできない。それで苦しくなりたくない」
僕は梨羽さんを見、「要さんたちは」と訊いた。梨羽さんは眉を寄せて怪訝そうにした。
その反応をどう取ればいいのか躊躇うと、「ベースの人」と梨羽さんは不安げに確認してくる。ベースの人、とはまた他人行儀だが、正しくはあるのでうなずく。すると梨羽さんは無表情に戻り、「うん」と不明瞭に言う。
「ベース、みんな、……みんなは、いる。みんなは怖くない。ときどき嫌だけど、ほんとは怖くない。僕で傷つかない。クズでも優しい。みんながいると怖くない」
みんな──メンバーのことは信頼しているようだ。にしても、梨羽さんはメンバーを名前でなく楽器で認識しているのか。何というか、まあ、梨羽さんらしくもある。
すずめの鳴き声が部屋の静けさを強調している。梨羽さんは身動きも息遣いも聞こえさせない。おかげで僕も固まって、沈黙が長引くほど何も言えなくなった。
梨羽さんの詩の凄まじい闇や喚起性、暴力性は自己嫌悪だった。咬みつくような牙は、苦悩が心に浸透していくほど内的な痛みや絶望にすがたを変えていく。いくらしても報われない懺悔に、憔悴するのだ。
言葉の選び方は相変わらずきついので、外面しか見ない人には何も変わっていないように感じるかもしれないが、梨羽さんは確かに自分の底に沈殿している。あんな言葉たちをどこから拾ってくるのか。触発ではなく、心に降って湧く感じなのだろう。梨羽さんは内界の混沌で創造する。
外界は厭わしい騒音だ。信じがたい繊細さによる暴発の歌は、人並みに厚かましければ発狂にしか映らない。しかし、梨羽さんは発狂していない。助けて、という声で、梨羽さんは自分を逃げ出すことができない。その声は自分はクズだという梨羽さんの自覚を過度にし、鬱に巻きこむ。
梨羽さんはその渦に壊れながら歌う。ゆえに、あんなに悲鳴みたいなのだ。当然、観客など見るヒマもない。大波に飲まれそうになって、自分のこと以外を考えられる人がいるだろうか。
そうして自虐するのが、梨羽さんなりの女の子への懺悔なのだろう。忘れないようにいちいち記憶をえぐりひらき、飲みこまれる恐怖と常に隣合わせにいて、罪悪感を失わずにいる。
梨羽さんには、歌は強迫観念だという。嫌いで歌いたくないのに、歌わなければ死ぬ。表現しないと正気が狂気に昇華し、自己でいる意味がなくなって嫌悪に駆られて死ぬ。
いくら苦痛であっても、梨羽さんはあの声に耳を澄まし、おびきよせた自虐に紛らせて、自己嫌悪を吐き出しておかなくてはならない。そうしないと、梨羽さんはもっと危険な漉された自己嫌悪を蓄積させることになる。もしもそれが飽和して爆発したら、梨羽さんはすべてを忘れた本物の発狂──懺悔の打ち捨てへと導かれるかもしれない。
梨羽さんには歌が不可欠なのだ。愉楽や幸福はない。共鳴や同調もない。あるのは事務的な処理と、絶対的な孤独だ。
女の子を傷つけた自覚を失くさないための言い聞かせであり、クズの自分にしか創りえない世界があると、嫌悪に流されまいとするあがきだ。梨羽さんにとって、歌はほとんど命の要のようなものだ。
要さんや葉月さんに、感心したくなる。あのふたりは、本当に梨羽さんを分かっているのだ。印象で組み立てたこの僕の推論は、要さんたちがしてくれた話にほぼ沿っている。
紫苑さんも梨羽さんを分かっている。紫苑さんは、梨羽さんが心を吐き出しやすい空っぽの曲を倦むことなく紡いでいる。紫苑さんの曲がなければ、梨羽さんは詩は書けないのだし、そうすると紫苑さんの曲は梨羽さんにとって重大だ。
演奏の段階になれば、要さんと葉月さんも音楽面で重要性を発揮する。演奏の際には、紫苑さんは守られる側も兼ねる。家庭への憎しみに走りすぎないよう、熱狂の梨羽さんと冷静な要さんと葉月さんのあいだで守り守られる。梨羽さんはひたすら守られる。要さんと葉月さんはひたすら守る。
そういう調和的な分裂を見たあとでも、ふたりの演奏を“テクニックかぶれ”なんて言えるだろうか。
梨羽さんの歌は、自分の卑しさを思い知らされた混乱でできている。それによって、XENON、というバンド名がいっそう意義を帯びてくる。誰とも化合できない孤独。そこには聖樹さんの傷口を暗示した精神的な鎖と、梨羽さんの神様、その傷つけた女の子がいる。
つまり梨羽さんは、自分以上に、その女の子に“XENON”を植えつけたのだ。梨羽さんが女の子を“XENON”にしたとしてもいい。拒絶によって、女の子を孤独に陥らせた。女の子は梨羽さんの歌の因子だ。女の子のことがなければ歌わなかった。それがあって梨羽さんは歌い、その歌こそこのバンドの存在価値だ。
女の子を孤立に追いこんだ後悔と自己嫌悪による悲鳴を主根に、このバンドは成り立っている。XENON、というのは、梨羽さんの神様を通じた、バンドの樹立の象徴なのだ。
梨羽さんは、落ち着いてきたすずめの背を指の腹で優しく撫でていた。僕は巡った推断を思い返し、一端なんだろうな、と思った。僕はまだ、この人の一端しか知らない。
いろんなことを話してみたい。でも、やめておく。純粋に知りたいことは、もう解けた。これ以上の梨羽さんの心をほどくのは梨羽さんだ。
ひとつ、梨羽さんの口で確かめておきたいことを僕は訊いてみる。
「梨羽さん」
すっとした指ですずめを撫でるのはやめず、いつしか暗くなってきている中で梨羽さんはこちらを向く。
「梨羽さんには、歌うことって何ですか」
梨羽さんは僕を見つめた。僕は、命の要のようなもの、と思った。梨羽さんはもっとあっさり形容した。
「風切り羽」
息を詰める。梨羽さんは怯えるすずめに目を戻す。苦しいような哀しいような、やるせない色がまばたきにちらつく。
「歌があるから死ねない」
梨羽さんの声は静かだ。悲鳴じみない穏やかな声だ。この人がこんな声を発するのは、本当に稀なのではないか。
「もう墜落したいのに」
梨羽さんは、揺蕩う睫毛を伏せる。僕は何も言えなかった。この人は風切り羽をもいだ。そしてその懺悔に明け暮れ、すりきれそうに壊れている。
とてもその言葉をわがままだなんて言えなかった。たとえ実際もがれて苦しんでいる僕であっても──いや、苦しんでいるからこそ、もいだ重大さを自覚したら、尽きない虚しさに襲われるだろうと思う。
梨羽さんにとって墜落は解放だ。死にたい人には、生きる意欲を持たされるのは重荷なのだ。
ガラス戸の向こうは、夕暮れの名残も失くしてきていた。ここに来て、どのくらい経ったのだろう。時刻よりも、暗くなってきたことで、悠紗に心配をかけているかもしれない。
さすがに危機がないのを理解できてきたのか、タオルの上のすずめはひかえめに鳴くだけになっている。僕はすずめを慰撫する梨羽さんに声をかけ、「帰ります」と言った。梨羽さんは首をかたむけた。
「悠紗も心配しますし」
その言葉にこくんとした梨羽さんに、タオルはここを発つときに返してくれればいいと伝える。再び梨羽さんはこくんとする。
その目に映るすずめを見つめてから、僕はゆっくり立ち上がった。
【第百三十七章へ】
