風切り羽-139

未来を信じて

 翌日は、朝から慌ただしかった。聖樹さんは会社を休み、助けてくれる施設の職員さんと連絡を取ったりしていた。僕は明日、元いた街付近にある施設で、その施設職員さんと現地合流して、いろんな人に事情を話していく。数日は向こうにいそうだということで、僕は悠紗に手伝ってもらって荷造りをする。
 悠紗はここに残るそうだ。悠紗はついていきたいと嫌がったが、ついてきてもおとなしくしておかなくてはならないのと、なるべく早く帰ってくるという約束でしぶしぶ納得していた。
 聖樹さんと僕が向こうにいるあいだは、悠紗は聖樹さんの実家に預けられることになった。明日の早朝に発つ際、沙霧さんが見送りに来てくれるので、そのときに悠紗はそちらに移るのが決まる。
 一段落ついた夕方、四人の部屋に行った。梨羽さんと紫苑さんは荷物の整理していた。音楽を聴く梨羽さんの隣には、すっかり落ち着いたすずめがいる。事情は紫苑さんが聞いて、要さんと葉月さんにも伝えるのを承知してくれた。
 夕食では、みんなそわついていた。夜には荷物を再確認をし、悠紗はゲームはせずに僕の隣にいた。悠紗なりに、どうなるのかはっきりしなくて不安なのだろう。
 その日はみんなで早めに就寝した。寝る前、聖樹さんは明日の朝にはそんなヒマはないと戸締まりをしていた。僕はリビングのふとんにもぐりこみ、真っ暗の中でちっとも眠れずにいる。
 もし悪い状況になってしまったら、ここでこうして眠るのは最後かもしれない。
 そんな生々しい想像をすると怖くて、無性にこの場所が愛おしくて、こそこそしてたほうがよかったかな、なんて思いそうになる。本当に血縁を消せるのか、虐待だと分かってもらえるのか、おとうさんが否定したら僕を疑ってきたりしないか。
 懐疑は尽きなくても、ここは聖樹さんと味方してくれる人の力を信じ、任せてみるしかない。守ってもらえる、と信頼するしか。僕ひとりじゃどうにもできなくても、聖樹さんたちがいたら可能性があるかもしれなくて、その可能性に賭けてみるしかない。
 僕はあそこには戻りたくない。そして、ここにいるのを認めてもらいたい。
 そのためになら、傷をさらしてもかまわない。僕には傷が確かにあって、それは鮮烈な痛みと虚空の麻痺をひたすら繰り返していて、あそこにいるとそれが激しくなって──。ないがしろにされず、それを認めてもらえるのなら。その精神的な辛苦を尊重し、あの場所との関係を絶って、ここにいられるようにしてくれるのなら。
 口にしてもかまわない。傷を隠していたら、僕がここにいるのは変だ。傷を認めてもらえれば、あそこでそれをなおもえぐられることはない。僕はここにいられるようになる。だったら、さらしてみるのも悪くない。
 そもそも、僕を追い出したのは向こうなのだ。僕は逃げたんじゃない。僕に傷をつけていたたまれなくさせたのは、おとうさんやみんなだ。だったら、僕はそんなところにはいない。凌辱に従順してやるほどお人よしではいたくない。
 ここはそういうことも教えてくれた。僕はそこまで卑屈な人間ではない。自尊心だってある。蹂躙されるのはたくさんだ。僕は傷つけられても咲っているだけの人形じゃない。
 風切り羽をもがれるのは、もう嫌だ。あの人たちにされたことで飛べなくなって、それであそこにいなくてはならなくなるなんて、そんな悪循環はひどすぎる。
 あそこは僕の場所ではない。それが分かってもらえれば、僕はここにいられる。
 そう心を落ち着けると、まくらに息を吐いた。依然深く搏動していた。頭がほてって冴えている。眠れるかどうか分からない。
 でも、大丈夫だ。きっと大丈夫だ。
 僕はひとりじゃなくなった。またこのまくらに顔を埋めて眠れるに違いない。そう思い、強く信じられると、そっとまぶたをおろした。

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