出発の朝
その大きな駅は、ここにやってきたときに降りた駅でもあった。ホームは違っても、それは逆方面であるせいで、向こう側にはひと月半前に踏んだホームが望める。
あのときは、またここに来るのが一ヵ月以上あとになるなんて、予想もしていなかった。内心咲いたくなりつつ、じっくり冷えこんだ空気に身を小さくする。
旅行かばんにつめられた荷物を抱える僕は、聖樹さんに借りた、いつもの上着を着ていた。今日は身を隠すというより、冬の明け方のきんとした外気への対策だ。
天気は良くても、夜の冷気がまだ濃く、頬の感覚が消えそうに寒い。早朝の蒼さに吐く息はうっすら白く、とはいえ、空はまばゆい朝へと移り変わろうとしていた。
時計を仰ぐと、時刻は午前五時半前だ。特急の始発がここに来るのは五時五十分で、五分間停車したら出発する。午前中には向こうに到着し、僕は例の施設に行く。
向こう、とは言っても僕の暮らしていたところの隣町ではあるそうで、その情報には、ほっとしている。そこで僕は改めて事情を話し、要望を伝えなくてはならない。“朝香”を捨てて、“鈴城”になりたいと。ごたごたしてくるのは、今日の夜か明日の朝からだろうか。
ホームに人はまばらだった。いるのは、早くも本日を開始したきっちりした身なりの人か、反対に昨夜のまま酔った人だ。
悠紗は眠たさも忘れて、聖樹さんと僕をしきりに見上げ、沙霧さんになだめられている。荷物を地面に置いた聖樹さんはそれを眺めるかたわら、喉元の暗雲をはらいきれない僕を落ち着けてくれる。
いかにも旅立つところという僕たちは、このはりつめた蒼然とした光景で、やや浮いていた。
「緊張してる?」
物柔らかな声に聖樹さんを仰ぐ。ちなみに聖樹さんは眼鏡をかけている。
「緊張、どころでもないです」
言葉と共にこぼれる息は白く、すがたを風に奪われて消える。
「怖い?」
「……です」
「気分が楽になることになら、僕を何にでも利用していいよ。怖いんで後延ばしするっていうのだって、迷惑とかではない。気持ちが強いときじゃないと、逃げ腰になって手順に集中できないかもしれないし」
「……はい。でも、それはまだ」
「そっか」
「聖樹さんは」
「僕」
「聖樹さんは怖くないですか」
聖樹さんは咲って視線を流し、「本音ではね」と白状する。僕は荷物を抱え直した。
聖樹さんはこちらを見直し、「大丈夫だよ」とつけたす。
「間違ってるとは思わないから」
うなずいた。そう、僕たちは間違っていない。
もし否定されたら、そっちのほうが変なのだ。誰だって苦しいところにはいたくない。安らげるところにいたい。
僕も同じだ。地獄にいる義務はない。僕たちは当たり前のことをしようとしているだけで、後ろ暗くびくびくする必要はない。
「あっちに行ったら、いそがしいの」
同じ目の高さにしゃがむ沙霧さんになぐさめられる悠紗は、軆と垂直にこちらを見上げてくる。聖樹さんと僕は顔を合わせ、聖樹さんが「分からない」と答えた。「そお」と悠紗は寂しそうにする。
「何で?」
「時間あったら、電話してほしかったの」
「はは。それはするよ」
「ほんと」と悠紗は輝かせた顔を上げる。
「心配だし。今日も悠が眠る前にはするよ。夜更かししてるかな」
「へへ。楽しいより、ざわざわして寝れないんだと思うの」
「うん。電話するよ。ついでに、いい子にしてたか沙霧に報告してもらう」
「してるよっ」
むきになった悠紗に聖樹さんは咲う。それで悠紗はつい消沈を忘れた自分に決まり悪そうにし、「萌梨くんもお話してね」と照れ隠しに僕に目を向ける。
「うん」と僕は笑んで約束した。こちらとしても、きっと悠紗と雑談して気を軽くしたい状態になっている。
「向こうには、最低どれぐらいいんの」
そう訊く沙霧さんは、無理やり起きてきたのか服装もなおざりで髪がぼさついている。
「一週間はいるかな。有給もたまってるし。話が通れば、どうしても向こうじゃないとできないことはなるべくやってきて、ほかはこっちでゆっくりやろうと思ってる」
「そっか。まあ、話はいけるだろ」
「そうかな」
「そうだよ。萌梨をすげえ疑ってる状態から、ここにいたほうがいいって思えるようになったのって俺じゃん。マジで話せば分かるって。分かんないわけないよ」
聖樹さんは微笑み、「だそうです」と僕を向く。これにもまた勇気づけられる。
僕たちは実際、救いようもなく不審がっていた人を、大切な理解に持ちこんだこともあったのだ。これが初の試み、というのでもないのは気強い。
「萌梨の叔父さんになっちまうんだよなあ」と“おじさん”の響きに複雑そうにする沙霧さんに、僕たちは咲ってしまったりしていた。
五時半頃にもなると普通電車が運行を開始し、定期的に停まり、抜けていくようになる。駅には徐々に人が増えてきた。土曜日であるせいか、仕事に行くような人と遊びに行くような人は半々だ。
みんなあったかそうにしてるなあ、なんて思っていると、「あっ」という声が聞こえた。僕たちは反射的にそちらに注意を向け、一様に声をもらす。階段を飛び降りてこちらに駆け寄ってきているのは、葉月さんだった。
「よかった、いたあ。あー、もうなんだよ。ホームどこか教えとけよなあ」
開口が文句の葉月さんに、ギターを背負う紫苑さんも自分の歩調で後続してくる。梨羽さんと要さんはいない。四人の習性からして、別行動で僕たちを探していたのだろう。
「来てくれたんだ」と僕の所感を口にして目を開く聖樹さんに、「俺たちが薄情者みたいに」と葉月さんはふくれる。永らく四人に会っていなかった悠紗は喜々として、葉月さんもその悠紗を喜色で抱き上げた。
「あー、悠。──太った? 心なしか重くなったような」
「成長したって言ってやってよ」
聖樹さんはそう言ったものの、当の悠紗は気にせず、「ずっと会ってなかったねー」と葉月さんに笑みを向ける。
「ねー」
「要くんと梨羽くんはー」
「知らなーい。とりあえず、どっか的外れのとこ探しとるわ。アホやの」
笑う葉月さんに、「知らせにいってあげたら」と聖樹さんはあきれた息をつく。聖樹さんを向いた葉月さんはその言葉は無視し、感慨深いそうな顔つきになる。
「お前、何か久しぶりだなあ。心配してたんだよ。生きてるか」
「幽霊に見える?」
「またそう、かわいくないことを言う。悠にそういうとこ遺伝させんなよな。で、紫苑、じゃんけんするぞ」
何で、とでも言いたげに紫苑さんは葉月さんを一瞥する。
「負けたほうが、女王と家来を呼びにいくのさ。よし、じゃんけん──」
紫苑さんは無言で身をひるがえし、階段のほうに行ってしまった。
葉月さんは腰に手を当ててそれを見送り、「引っかかったな」とふっと笑う。早朝でも、葉月さんの高調子は変わらない。
悠紗を抱え直した葉月さんは、腰をあげた沙霧さんに「お」と目を留めた。
「沙霧もいるじゃん。君はさらに久しぶりだな」
「です、ね」
「非行に走ってないかな」
「……ないですよ」
「けっこうけっこう。そういやさ、沙霧って聖樹があの変な女に悠をはらませた歳なんだよな。どう?」
「どう、って別にどうも」
「そんなもん? じゃ、はらませる相手は」
「いないです」
僕は荷物に顔を伏せて咲ってしまう。沙霧さんは僕を睨んで、ほかのみんなはそのやりとりに不思議そうにする。
僕は笑いを噛むと同時に、どこかではそうして心を隠す沙霧さんに切なくもなった。いつか沙霧さんが、自然に好きになる性別が同性であるのを、僕以外の人にも告白できたらいいなと思う。
「葉月たちって、この時間帯、寝てるんじゃないの」
「さり気に侮蔑」
「心配したつもりなんだけど」
「俺は一日ぐらい寝なくても平気よ。ただ、ここには要の運転でやってきたのだが、奴は半分眠っていてとても怖かった」
「大丈夫だったの」
「幽霊に見える?」
聖樹さんはため息をつき、葉月さんは愉しげに咲った。そして部外で眺めていた僕に目をやってきて、にっとする。
【第百四十一章へ】
